第四話
カーン
大きな院子に甲高い金属音が響く。
因州の州都、啻万麓の西。州王府高官の居館が建ち並ぶ街区は咆倆區と呼ばれるが、その中でも一際宏壮な大宇があった。此れ、因州第二大臣「龍牙」喋工励の邸宅である。
眞暦1806年8月21日。
件の音はこの屋敷から、発した。
「咒斯よ、見事だ。」
喋工励は院子を見下ろす台上に設えた椅子にどっしりと座り、手を叩く。腹の出た肥満体型だが、長袍をパンパンに張らせているのは腹だけでなく、両腕もそうで、力瘤の辺りは絹地が裂けそうである。68歳と思えぬ筋力を感じさせる。息子の喋織が細身であるのと比べて姿容はまったく異なるが、二重のパッチリした眼が瓜二つで、州軍の長には似つかわしくない程、穏やかな眼差しであった。
喋工励の視線の先にいる一人の小男は張り詰めた様子だったが、五角形の顔を少しだけ緩ませて笑っている。
「老龍牙からそのように仰られると、自信になります。」
咒斯と呼ばれたこの風采上がらぬ小男は、最近因州でその名を高めつつある弓の名手である。院子の中央に立てた戟に向け、20m離れたところから射出し、見事その刃に矢を当てた所である。
「因州随一の勇猛を謳われた喋工励様にお褒めの言葉を頂き、これ以上の幸せはございません。」
「うわははは。なあに、もう昔日のこと。いまやこんな太鼓腹よ。」
喋工励はそう言って我が腹を打ち、文字通り太鼓のような音を広い院子に響かせた。
その余韻も消えぬ間に、
「くっくっ。相変わらず元気よのう、喋工励。」
と、しゃがれた声が二人の間に割って入った。
喋工励は声の方を向かず、
「おっと、こりゃあ。咒斯よ済まぬ、外してくれい。此奴との話は物騒でな、どんなものでもお前の耳に入れる訳にいかぬ。」
いよいよ楽しげに笑った。顔は咒斯に対したままで、微動だにせぬ。
幼馴染で六十数年の付き合いだ。今は老いてしゃがれてしまったものの、朋友の声を聞き間違う筈が無い。
「なあ?圃韓。」
そう言って破顔している喋工励へ、咒斯はぺこりと頭を下げ、院子から出て行った。
圃韓が喋工励の脇に立つ。
「人聞き悪いのう。美味い酒を持ってきたに。」
「おっ、『緋山麗沢』か?良い酒じゃないか。穆薀の奴が見立ててくれたか。」
喋工励は、ようやく圃韓の顔を見上げた。そして立ち上がり、老いた来客を奥の上房に誘う。朱塗りの重たげな扉を三箇所通り抜けると、そこは大邸宅に似合わぬ小さな密室であった。
「そこに座れ。酒を飲みながら話すか?それとも飲んでから話すか。」
「くくく。物騒な話だったらどうするのだ?酒が入ったら、怖くなって話が成立しなくなるぞ。」
圃韓は老いさらばえ、骨と皮だけの貧相な風姿であるが、何処と無く妖気を漂わせ、見る者を畏怖させる。長く付合う喋工励も、因州の位を極めたこの朋友にいまだ寒気を覚える。
「無闇に人を脅す。相変わらずだなあ。」
しかし、冷たい石椅子にどっかりと腰を下ろした喋工励は、すぐ本題に入った。
「囮丘ではお互い、息子達がそこそこ働いたようだの。」
因州の大臣同士が顔を合わせ、今の時期にこの話をしない方が不自然であるし、圃韓が語りたいのも囮丘征伐に関連したことだろう、と喋工励は予測したのである。
「ふむ。」
機先を制されたか、圃韓はちょっと驚いたが、すぐ濁った瞳をぴたっ、と喋工励の丸顔に合わせ、喉の縦皺を上下させる。
「聞いとるじゃろう。愚息が、戦も終わったに、配下の者を囿治果に留め置いたのよ。」
「だが美獣様が帰還させたのう。聞いておるわ。」
「そうじゃな。当然知っとるわなあ。一方、お主の軍はどうじゃ。まだ喋織は囿治果におるのか。」
「おる。」
喋工励は笑っている。だが先程と少し異なり、どこか諦観の影がさしている。
「囮丘出兵の前、わしは織に言ったのだよ。戦後はしばらく囿治果に留まれ、と。」
ごふ、と圃韓は軽く咳をしてから、節くれ立った人差し指で喋工励を指差した。
「お前は、因州軍の頂点である龍牙職に就いておる。その立場から囿治果の軍備をどう見る。」
「織にははっきり指示しておる。公子に近づき、その考えを知れ、とな。そして。」
喋工励は一瞬、言葉を飲み込んだが、
「もはや、わしの龍牙職は有名無実。」
すぐ、そう言い切った。
「美獣様が実質的な龍牙ということじゃな。」
圃韓の確認に対して、喋工励は諦観の笑みのまま大きく頷いた。喉の肉が三段に折り重なる。
「お前の憂慮は、美獣様の州王位簒奪であろう。」
密室だから良いものの、喋工励の物言いは大胆である。主家の嫡男がその父王に対して簒奪を企だてている、仮定にしてもそんな話をなかなか声には出せない。
しかし圃韓は動じるどころか、そんな朋友の態度に我が意を得たか、大きく身を乗り出した。
「お主はどう思う。」
「わしは心配ないと思う。いずれ、当然代替わりはあろう。公子は英傑であり、その時期は早いかもしれぬ。だが、叛逆の形は取るまい。あの兵備拡大の真意は分かりかねるが、それが為のものではなかろう。」
「ふむ。喋織もそう言っているのか。」
「そうそう。彼奴が今、美獣様のお側にいてそう感じておる。ま、現時点ではな。」
「左様、あくまで今現在の話じゃ。だがもし、もしもだぞ。美獣様が美宜粽様に刃向かった場合、我等は美獣様を抑えねばならぬ。」
「当然じゃ。啻林以来、両家は宿命を背負っとるのだから。圃家と喋家は、因州を守護せねばならん。」
喋工励はそう言いながらも、笑顔は、諦観の笑みは変わらない。
「しかしそれは万に一つもあるまい。」
朋友の主張を聞いて、圃韓は胸に下がる金鎖にぶら下げた金小板を弄りながら、この話を打ち切った。
「そ、そうか。それなら」
もう少し続きを話したかったようだ。だが胸を抑え、深い咳が始まってしまった。
一分程の間、それは続いた。
喋工励は慣れている。
圃韓が、枯れ枝のような身体をくの字にして咳き込むのを、無感情に見つめている。やがて収まりかけた時、ゆっくり声をかけた。
「十年になるか。苦しかろうな。」
州王府の中では、圃韓のこんな姿を見たことがない。
「くっくっ。老いぼれは、なかなか死なぬわ。」
「わしもな。」
「お主は良かろう。喋織は勇将だ。喋家はこの先安泰、安心して死ねようぞ。」
こう言われると、喋工励はさすがに口をつぐむしかない。朋友の嫡男、圃戒仕の顔を思い浮かべると、言葉が出なかった。
圃韓はぜいぜいと肩で息をしていたが、喉の縦皺を上下させて声を絞り出した。
「勒春に啻万麓へ来るよう、言った。」
「くれぐれも、こちらには寄らさないでくれ。もはや、あいつは圃家の子じゃから。」
「くく。厳しい父親じゃな。」
「うわはは。あんなお転婆、お主の家が引き取ってくれてせいせいしとるのよ。だいたい帰ってきたら、どうせまた喋織がいじめられるしな。可哀想じゃろう。」
「成る程な。だが姫はな、我が家に足りぬ武勇を補ってくれておる。」
圃韓はまだ苦しそうだが、濁った眼は楽しげに笑い、老いた第一大臣の心は穏やかなようだった。
「ありがとうな、工励。」
そんな圃韓に喋工励が問う。
「どうだ、『緋山麗沢』は飲めるか?」
「馬鹿にするな。頂くに決まっている。」
圃韓の返答を聞くや否や、喋工励は太鼓腹をゆすって、大きく手を叩いた。
「おおい、誰か。龍眼が『緋山麗沢』を持ってきてくれたぞ。甕を開けてくれえい。」
密室で行なわれた物騒な話は、こうして終了した。
大邸宅の上房には、一転して明るい声が響き始める。
因州名家の双璧であり、龍眼・龍牙という王府の頂上に君臨する大臣でもある二人は、六十数年来の親友として、今はただ、仲良く酔いつつあった。
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喋工励曰く。
啻林以来、圃喋両家は宿命を負う、と。
啻林とは、州都・啻万麓郊外の森林のことである。だが、それが何なのか。
ここで誌面を割いて概説したい。因州における圃喋両家の重要性も同時に説明できるためである。
まず一つの宗教団体のことから、話さねばならない。
百年以上前、因州西部の啄原という中規模の城市を拠点に、一つの教団が誕生した。
漂空教の一派で、本拠地の名をとり、啄飯道と称した。この物語で何度も名の上がっている奏同啄飯道はこの啄飯道の後継者である。
啄飯道は瞬く間に信者を獲得して発展した。
なお、因州は当時も美家によって支配されている。時の州王、美戚は領内に発生した新興宗教に対して、強硬姿勢を見せた。因州王府への租税納付と、道主・嘆全の啻万麓出仕を命じたのである。だがこの教団の教勢は凄まじく、因州王府の官吏の内、実に半数を入信させてしまう。こうなると当然嘆全も強気になり、因州王の要求を突っぱねる。
美戚は激怒し、大軍を発して啄原に向かったが、途中の嘴黄江で大敗。この時因州都相の職にあって啻万麓を総括していた圃午は、「紅雪府長」と呼ばれる程州都に思い入れのある大臣で、啄飯道の脅威を深刻に受け止めた。自ら都州帝城まで赴いて時の皇帝、女歓にかけあい、啄飯道討滅の援軍を求めたが、拒否されてしまう。だがめげずに、帰国後、因州独力での啻万麓防衛を決意。州軍の緊急立て直しを美戚に上奏して容れられると、州龍牙の喋投讃と協働して、再軍備を推進した。
この圃午の子孫が圃韓であり、喋投讃の子孫が喋工励なのである。
嘴黄江の戦いから一年経った眞暦1676年。今から丁度、130年前になる。
啄飯道道主の嘆全は、二十万に膨れ上がった大軍を率いて啻万麓に現れた。
啻万麓は恐怖におののいた。
圃午の呼びかけにより因州軍の練度は高まる一方、啄飯道への畏怖から多くの兵士が退役し、募兵に応じる者も僅かで補充も出来ず、州内の軍兵をかき集めても五万に満たなかった。
一方、嘆全は、葬州茗箋の兆葛族と同盟を締結し、これ程の大軍を構成してみせた。
啄飯・兆葛の連合軍の兵影が、啻万麓郊外に姿を見せる。
二十万対五万。
因州王美戚がいくら堅城である啻万麓に拠っているとはいえ、この兵力差では因州の州都である「紅雪閃光城」は、まさに風前の灯火と言えよう。
しかしこの時、州龍牙喋投讃は、啄兆連合の背後にある啻林という森に隠れていた。
ここから「紅雪府長」圃午が描いた啻万麓死守計画が、見事に遂行されるのである。
まず啻万麓の搦手である北児門から、因州王美戚みずから五千の決死兵を率い、啄兆軍の鼻っ面を引っ掻き回した。五千の兵は「因王軍」と墨書した赤い旗幟を鎧の背につけて駆け巡り、特に美戚自身は赤地に白銀の細粒を散らした大旗を負っていた。
啄兆連合は、自らを刺激的な色彩に染めたこの手柄首に目を奪われる。
目の色変えてこれを討とうとし、反転して啻万麓へ撤退し始めた赤い美戚軍の背中を、盲目的に追う。美戚は東中門から啻万麓に帰城したが、すぐ後ろに啄兆軍が続いた為、門は閉められなかった。敵の入城を許したことになる。啄兆は長く伸び切り、前軍は啻万麓に踏み込み、後軍はまだ城外にある。
その時。
啄兆軍の背後の森 ―啻林― から伏兵が涌いて出、鬨の声をあげた。
木々の全てが兵になった ―
一斉に振り向いた啄兆後軍の兵士からは、そう見えたに違いない。
彼等は驚愕し、大混乱に陥った。兆葛は騎馬民族で高い武力を持っていたが、軍の多数を占める啄飯道兵は殆どが戦闘の経験が浅い農民や都市民出身者であった。一度恐怖心に駆られると、統率不能となる。喋投讃は、臆病風に吹かれた啄兆連合の背中を散々に斬り下げた。
一方、啻万麓の城内に駆け込んだ美戚は、「紅雪閃光城」といわれた啻万麓の美々しい市街地に敵兵を導き入れ、圃午の綿密な検証のもと配置した伏兵とともに、啄兆軍に襲いかかった。そして街区に迷い込んで分断した相手を、容赦無く各個撃破したのである。
こうして因州州都の啻万麓は守られた。州王軍は三万の首級を上げ、啄飯道を啄原へ追いやった。
因州美家を、絶体絶命の危機から守り切った立役者、圃午と喋投讃。
彼等の子孫が以後、因州の守護を担うことになるのも至極当然なことだったのである。




