第壱話
眞暦1806年8月17日。
因州の軍事都市、囿治果は雨だった。
(久々の雨か。)
院子に敷き詰められた磚が雨粒に打たれ妖しく黒ずんでいるのを見て、吼了欽はため息をつく。無人の庭は無機質で、夏とは思えぬほど寒々しかった。
物憂さと、胸の締めつけとを、同時に感じた。背後の寝室の扉を開ければ、旅立ちの仕度が整然と置かれているはずである。
因州は年間を通じ、比較的降雨量が少ない。冬は陸島海からの雪雲によって降雨量が多少増えるが、反対に夏は乾燥気味なのである。
だから、砂の舞う囿治果で、その華奢な鼻を乾かし、「ふん、ふん」と鳴らしていた吼了欽にとっては、恵みの雨ではないのか。
天を仰ぐ。
階段のすぐ上、上房の登り口に立って仰ぎ見る空は雨雲が低く垂れ込める。雨の前に、どうしてもため息が止まぬ。
ふいに、
「久々の雨ですね。」
と、足元で女の声がした。
上を向いていた吼了欽は、咄嗟に顎を引くと同時に跳び退り、左手を佩刀にかけて構える。すべて一瞬のことで、女の声は、
「さすが、今をときめく『金八光』吼了欽様。常人離れした御身のこなし。」
などと感嘆する。
「ぬっ。契冬蹊、どのか。」
雨に濡れた院子に、女が跪いている。
そこには誰もいなかったはずだ。
「はい。北の土塀を飛び、足元の階段下を這って参りましたので。」
女は ― 契冬蹊は ― 、自分がどうやって忽然と出現したかを説明した。
吼了欽の心中を見透かしているのだ。こんなのは一度や二度ではない。突如現れ、人の心を逆撫でする。
「驚きなさいますな。これ、契冬蹊の常套手段でございましょ。」
鋭く吊った目を伏せ、長い睫毛に濡れた瞳を隠す。しかし、そばかすの散った小さな丸顔は栗鼠のように愛らしい。真っ白な双肩を剥き出しにし、手足は女郎蜘蛛の如く長く伸びて、しなやかである。あの程度の壁なぞひと飛びであったろう。今来た証拠に、体はさほど濡れていない。
契冬蹊は、州龍眼圃韓の信頼も厚い。諜者は賤視されることが多いが、この女はぞんざいに扱えぬ。
彼女は顔を上げた。薄い唇が右側に引き上げられている。
「左肩の具合は、その後如何ですか。」
「うん。ま、まあ大丈夫。斐醺様に治してもらった。」
「では、國朶鎮にも無事還れますわね。」
「そうか、それでか。わしが囿治果を出るから、入れ替わりでお主が遣わされたのか。」
「― はい。」
この時わずかに、契冬蹊の瞳孔が拡がったように見えた。だが吼了欽は気にせず話を進めた。
「しかし、お主がわしに代わって残軍を管轄するわけじゃあるまい。」
「吼了欽様は、すでに略忠様に引継ぎしました。あとは略忠様が最後まで残って、残兵を三回に分けて帰還させるのですよね。」
(よく知っている。)
吼了欽は頷きつつ、こいつには全て知られてしまうな、と今更ながら背筋を寒くした。
「略忠様たちに何かあったら、私が啻万麓に知らせる手筈になっています。私は諜報の者。『金八光』吼了欽様の代わりに軍を統括するなどとんでもない。」
そう言って長い両手を広げてみせた。右の口角は上がったままである。
「丁度本日、囿治果をお発ちになると聞きましてご挨拶に参上しました。道中、ご無事で。」
「かたじけない。しかし。」
吼了欽は何気なく聞いた。
「今回のご下命は穆薀様か。」
契冬蹊は白い両肩をびく、と痙攣させた。笑っていた薄い唇も、真一文字に強張ってしまう。
「は。。。い。」
そうしてまた、彼女は顔を伏せた。
(なんだ?)
常に冷静で、感情や思念を人に悟らせぬ女だけに、この反応は非常に珍しい。
気づけばもう、契冬蹊は雨に打たれ、じっとり濡れそぼちている。
しかし吼了欽は、今更上房に上げてやることもせず、好奇心も手伝って、そのまま会話を続けたものである。
「穆薀さまに、囮丘で命を救われた。」
男の高い声は雨音よりも大きくて、狭い院子に響く。
「聞いております。」
「穆薀様は、慈悲深い。あ、我が主の圃戒仕様が酷薄だという訳では無いぞ。ただ、貴殿を動かすことができ、わしが囿治果から退去するのをすぐに受け入れて次の行動に移る御仁とは誰か、と考え、穆薀様のご指示だと推察したのだ。なあ、穆薀様は格別に情深い方だよなあ。」
「はい。」
契冬蹊は顔を上げ、その切り上がった眼で、吼了欽を正面から見据えて返事した。
もう冷静さを取り戻したか。
しかし雨に濡れた頰は赤く染まっていて、それ以上言葉が続かない。
吼了欽はあえて沈黙をつくり、眼を合わせ続ける。
(やはり。これぁ、契冬蹊は穆薀様とデキてるな。)
吼了欽はにやけるのを我慢しながら黙っていたが、いよいよ耐えきれなくなったか、契冬蹊の方から語りかけた。
「それはそうと吼了欽様。啻万麓で、貴方様は大変な人気なんですよ。このような、八光の紋章が作られ、売れています。」
そして、懐から小さな徽章を取り出した。
(話を逸らそうとするか。)
吼了欽は訝りながらも、契冬蹊がつまんでいる徽章に見入った。
銅製で、放射線状に拡がる八本の短剣をかたどっている。
「ほう。」
何のことはない。
十九歳の若武者は、女諜者が取り出した小さな徽章によって、大いに気を良くしてしまった。
「戦が終わってまだ五日ぞ。それなのに」
一方の契冬蹊は吊った眼に意地悪い光を宿しながら、言葉をかぶせる。
「以前から人気は御座いました。おそらく前から売っておったでしょう。それが囮丘でのご活躍を見て、増産したと思われます。」
契冬蹊は素早い身のこなしで階段を踏むと吼了欽に近寄り、その掌に紋章を、三つ載せた。
「おう、くれるのか?」
無邪気に声を弾ませたあと、ややあって、なぜ三つなのか、と気になった。
濡れた三つの紋章を、掌の上に転がす。
「ありがたい。ありがたく頂戴しておくぞ。」
吼了欽は何故か、胸を締めつけられるような感覚を覚えながら、おとなしく礼を言った。
契冬蹊は、
「どうぞ」
と、薄い唇を歪めて笑っている。
彼女のむき出しになった白い両肩は、雨に濡れているが、今は自信ありげに張っている。
吼了欽は鼻を、ふん、と鳴らす。
(田濫のことも、斐醺様のことも、よおく知ってるぞ、と。そういう訳だ。)
しかし、もう眼前の艶っぽい女諜者のことはどうでもよい。地元の恋人と、これから去ろうとしているこの街の麗人と、彼の脳内はその二人の顔で満たされてしまったのである。
契冬蹊には話を誤魔化されたが、だからといって悔しくもなんともない。
吼了欽はその切長の眼で、笑いかけた。
「ご苦労で御座った。貴女がいるなら、この吼了欽、安心してこの街を出られる。よろしく頼みますよ。」
吼了欽は大事そうに紋章を懐に仕舞う。彼の胸の締めつけは、いつか甘い感覚に変わっている。
「風邪引かぬように。さ、お退がりなさい。」
そして、女諜者を追っ払った。
雨は止まぬ。
これから訪ねる麗人の姿を脳裏に浮かべているうちに、女諜者の姿は忽然と消えている。雨に溶けたかのように。
衛士の声がする。
「吼了欽様。磐周挿様からの餞の品が届きました。」
生返事を返したが雨に吸い込まれたか、衛士はその後同じことを幾度か、告げていた。
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大陸全体図
穣界十二州
因州