第八話
8月16日。
因州龍眼の圃韓は、州都・啻万麓の自邸で晩夏の夕空を眺めている。
日は、城市の西に聳える啻山の峰に、かかりつつあった。
「龍眼か。」
待ち人の遅れに些か気を焦らせながら、老いた喉の縦じわを震わせて、独り言つ。
67年の人生がこの役職に、因州第一大臣、通称「龍眼」に、すべての成果を集約させている。
老高官の独り言は多分に自嘲気味だが、一州の龍眼というのは、並大抵の重職ではない。
圃韓の見つめる啻山は夕日を背にして、山容は陰り、黒ずんでいる。
龍眼まで登りつめた者なりに、その悩みも独特なのか。
老人の眼は濁り、空の茜色もそのままの色彩では映らない。
――――――――――――――――――――
因州第一大臣は、因州王の参謀である。因州の官職では州王に次ぐ者で、州内の人臣では最高位だった。
第一大臣を通称、「龍眼」というが、こうした閣僚の役職名、いや官制そのものが、中央の歴代帝国によって採用されてきた「百大臣の制」に倣っていた。約千八百年前に成立した古代王朝、穎が創始したもので、現在の姚もこの職制を布いている。
ここで誌面を借り、職制について述べたい。
以下にまず、中央政府たる大姚帝国が施行している「百大臣の制」について記す。
多くの官吏が集う時に「百官」と言うことがあるが、職制としての「百大臣」は、本当に百人の役職者がいた。
まず、第一~三大臣は別格上位で、特に鼎龍臣、略して鼎龍と称すこともある。
そして上位十人の大臣までが、主な大臣であり、これは拾閣臣、拾閣などと言われる。帝国の拾閣となれば、人口一億人超の大陸において、人臣の最高峰である。郷に一人拾閣が出れば、周辺数百郷に恩恵があったし、それ程の権勢を優に持つことができた。
次の第十一~二十大臣は事務次官で、準殿臣略して準殿などと呼ばれる。各拾閣の下に居て、実務方の最高位となる。
二十一大臣以降は準殿下の官僚だったり、州王などに付与される名誉職だったりする。雲臣とも言う。そのこともあり、百大臣を招集する百大臣議は、百人揃ってないことが殆どであった。だが、各大臣の部下も居並ぶ為、人数は千人近くもなる。
では、帝国の中核を成す拾閣と準殿が実際にどのような役割を果たしていたのか、以下それぞれの大臣府ごとに整理してみたい。
なお、「 = 」の右は通称である。
龍眼府 ― 皇帝参謀
第一大臣 = 龍眼
第十一大臣 = 龍眼代
龍牙府 ― 軍部
第ニ大臣 = 龍牙
第十二大臣 = 龍牙代
龍鱗府 ― 内務(産業・流通)
第三大臣 = 龍鱗
第十三大臣 = 龍鱗代
都相府 ― 皇帝の禁軍師団長
兼・都州城衛の統率、都州司法
第四大臣 = 都相
第十四大臣 = 都相代
祭相府 ― 祭祀・暦法
第五大臣 = 祭相
第十五大臣 = 祭相代
経相府 ― 財務
第六大臣 = 経相
第十六大臣 = 経相代
交相府 ― 外交 兼・州王監視
第七大臣 = 交相
第十七大臣 = 交相代
作相府 ― 土木、建設
第八大臣 = 作相
第十八大臣 = 作相代
法相府 ― 司法
第九大臣 = 法相
第十九大臣 = 法相代
文相府 ― 文部 兼・官吏採用
第十大臣 = 文相
第二十大臣 = 文相代
そして、これら拾閣・準殿の上に、皇帝が鎮座して、巨大な大姚帝国を運営しているのである。
なお、ややこしい話であるが、この物語の眞暦1806年8月時点では、現皇帝である女懿が帝国の最高位だ、と言ってしまうと、それは正確でない。
この時、「玉睨」という役職が存在していた。
玉睨とは皇帝を監視する後見役であり、ある意味皇帝よりも上位の権力を有するが、これは臨時職である。穎の建国以来千八百年の間で僅かに三例。非常に稀な訳だが、その三例目が昨年突如、帝城を乗っ取った妖天という風来坊である。この詳細については当作では脇道であるから、触れぬ。
さて、話を戻そう。
この大姚帝国が運用している百大臣制は、帝政下の三十一州も踏襲していた。
皇帝を州王に置き換えただけで、以下の役職名や役割はほぼ姚と同じである。
冒頭で、圃韓を「因州龍眼」と紹介した。つまり、因州の第一大臣で通称「龍眼」、百官の最高位に君臨し、因州王の目となって参謀を勤めている。一州の帰趨を握る最重要の大役であった。
圃韓の嫡男、圃戒仕は「龍眼代」。因州の第十一大臣で、州準殿の中での最高位。父・圃韓の下で参謀府における事務方を総括する、これも要職であった。
また、当章第弐話で磐周挿と嗷号を仲裁した喋織は都相代だった。因州第十四大臣として州都・啻万麓を守護し、都相を補佐して因州王直轄軍の統率にあたっている。ちなみに以前、因州公子である美獣は都相に就いていたが、現在は無役である。
喋織の父、喋工励はその名が作中の会話にのぼったと思うが、「州龍牙」と呼ばれていた。因州第ニ大臣で圃韓の次席にあたる高官、州軍部の頂点。本来なら、その権限は絶大である。ただこの時点では微妙な雲行きになっているのだが、それはいずれ語られよう。
三年前に謀反を起こした圏辛韓は作相、因州第八大臣。
第壱章で隣の秦州から使いが来ていたが、この際、龍鱗(第三大臣)祖子惻、交相(第七大臣)奉濠、龍牙代(第十二大臣)税命、交相代(第十七大臣)和酬、などの名が出ていた。
以上のようにこの物語では既に、州の鼎龍、拾閣、準殿といった高官が数多く登場してきた。その都度、読者諸兄に意味不明な固有名詞をお目にかけ、恐縮し、申し訳なく感じていたところ、そこでこの場を借りて、冗長ながら解説した次第である。
それでは、再び老龍眼の邸宅を覗きたい。
――――――――――――――――――――
老い、沁みや皺で占められた顔相を、窓から射す夕日が無惨に照らす。
枯れ枝のように細く、節くれだった己が手指をまじまじと見つめ、
(因州龍眼としての力が、今のわしにあるだろうか。)
と、物思いに沈み、憂いが彼の老醜をさらに際立たせる。
「。。。かん様。もし、圃韓様。」
呼びかけにふと我に返ると、侍童が怯えるように立っていた。
圃韓は少し眉尻をあげて、侍童に問う。
「ん。わ、わしは何か言っていたか、いま?」
「いえ。なにも。ただ、こわいお顔をされて、お手をご覧になってました。」
侍童は更に怯えて、肩をすぼめている。
「む。むむ、そうか。で。」
「あの、剽氐さまがみえられました。」
「おっ。おお、そうか。」
苦渋の陰影を刻んでいた圃韓の形相が、氷の溶けるが如く緩む。剽氐なる者の来訪を、余程待ち望んでいたようである。
紅白磚で内壁を仕上げた執務室に足を運ぶ。
「伯父上。遅くなり申し訳ありません。」
そこに少年が待っていた。
拱手するその背筋は伸びて爽やかで、部屋に射す夕日は朝のそれと錯覚した。
「大丈夫か、道中何かあったか。」
「無事です。啻万麓の門衛が混雑しておりました。」
「東中門でわしの名を言え。」
「そうすべきでした。正門に並んでしまったのが誤りでした。」
「刻限の遵守をすべし。お前の衛士にも強く言っておくことだ。」
「肝に銘じます。」
圃韓は厳しく指導するが、声音は優しい。
「犬甜の婆さんは元気か。」
「はい。母は年甲斐もなく、毎日港やら浜を歩き回り、金稼ぎに余念がありません。ただそうした目配りが当家繁栄の秘訣。」
「ふふ、『当家』か。すっかり、剽家の跡取たる顔つきになったの。いや、良かった、良かった。」
圃韓はさっきの渋面はどこへやら、好々爺然として柔和の極みである。
少年の名は、剽氐。
末弟の息子で、圃韓にとっては甥にあたる。因州東部の港市、犬甜の政商、剽取由の養子となった。
齢十四。圃韓はこれを孫のように可愛がり、いや、自領に置いて来ている嫡孫の圃詩北よりも、もしかしたら気持ちを傾けているかもしれない。
丸い輪郭、温和な笑み、爽やかで穏やかな印象が、剽氐の体全体から発している。
しかし、
「まだまだです。大官の家から商家に参りましたので、まるで異民族の中にいるようです。しかし母、剽取由に厳しく教えて頂き、少しづつ剽家の一員になっている自覚もございます。」
と言う様子は、優しいだけでなく、芯の強さも感じさせる。
「よいよい、剽氐よ。これからも、こうして圃家にも頻繁に顔を出せよ。」
素直に立つ幼き甥に、圃韓はゆっくりと歩み寄る。
「それが政商の家を継ぐお前の、必ず助けになる筈だ。」
「はい。」
枯れ枝のような手が、少年の左肩に置かれる。圃韓の首にさがる金鎖の先で、黄金の小板が揺れ、夕日を反射した。
「いや、お前じゃない。剽家の為だぞ。」
圃韓も穏やかに笑う。
しかしよく見れば、剽氐のそれとは大きく違っていた。濁った眼は、決して笑っていない。目尻の深い皺に埋もれた老人の瞳は、禍々しい光を孕んでいるのである。
「龍眼である、この圃韓を利用するのだ。」
骨と皮だけの手に力が入り、剽氐は驚愕して顔を上げた。左肩が軋み、痛みに思わず口が曲がる。
啻山の上空はいつか、紺青に染まっていた。ひたひたと宵の闇に包まれ出した圃韓の邸に、南からの早馬が到着したが、邸内の二人は気付く由も無い。