第七話
(ウキウキしてるわね。)
昱左は傍らを歩く主君、斐醺を横目で見る。
8月16日夕方。
二人は吼了欽の宿舎を訪れ、衛士に案内されていた。愛嬌のある丸顔に微笑みを浮かべているものの、昱左の眼は冷たく光り、長い髪が規則的に揺れていた。手に持つ大きな銅製の薬箱も、歩みにつれて左右に振れている。
脇を歩く斐醺は、常と同じように背筋を伸ばし、純白の軍靴をカッカッと鳴らして闊歩している。雪のように白い面長な顔も一見無表情に見えるが、
(この宿舎に興味があるのね。瞳が光っている。)
と、昱左は観た。確かにいつもは針のように細い斐醺の一重眼は、心なしか大きく見開かれているようである。
「これは、斐醺様!」
と、若い男のはじけるような高い声。呼びかけられた瞬間、斐醺の眼が見たこともない大きさにぱっちりと開かれた。眼を剥いた、と表現した方がいいかもしれぬ。
「あ。ああ、驚いた。吼了欽どの。」
斐醺は台詞とは裏腹に、その声音は落ち着いた様子で、眼も糸のような細さに戻っていたが、
(驚いたのは、あたしの方よ。)
と、内心で身をのけぞらせながら、昱左は微笑みを仮面のように顔に張りつかせたままだった。しかし、瞬間的なものだとしても、斐醺のあんな顔は初めてだ。
吼了欽が、木沓を鳴らして駆け寄ってきた。
「私のような陪臣の、しかも汚らしい仮宿にお越し頂いて、心苦しい限りです。本来、大門まで出迎えるべきところが、間に合わずこのような所で。無礼をお許しください。」
「いいえ。こちらが急に参ったのですから、吼了欽殿はお気になさいますな。ねえ、昱左。」
「左様でございます。」
昱左はその丸顔を、すっ、と伏せて見せる。
「あ。ああ、これは昱左殿。一昨日の調練の時にお見かけしましたな。私が吼了欽です。以後、宜しく願います。」
「本日は主、斐醺に随行し、恐縮ながらお顔を拝させて頂きました。宜しくお願い致します。」
やはり浮薄。
彼が差し出した左手を優しく包んで、握手に応じ、その澄んだ瞳に微笑みを返しながら、直感した。
吼了欽は手を取るように二人を案内し、応接の上座に斐醺を座らせた。
「本草学に通じた者がいると言ったでしょ。」
「はい。」
「この昱左がそうなの。本草学士で、あの『隼形透秘膏』を入手してくれたのよ。」
「そうですか!あなたがこれを。」
吼了欽は嬉しそうに自分の左肩を指差した。一方で斐醺は少し眉をひそめる。
「あれから六日。まだ痛みは残っているでしょう。」
「斐醺様仰るに、十日は経過を見るということでしたね。ですが、痛みはほぼ引いています。鈍痛と痺れが残ってますが、それもわずか。この秘薬、見事な効きめでございまする。」
「それは何より。」
斐醺には珍しく破顔した。そして昱左が持つ薬箱に視線を落とす。
「実は今日、昱左が『隼形透秘膏』を持ってきてるの。薬を塗り替えるから、あとで奥の間を借して下さいな。」
「ありがとうございます。今でもいいですが。」
この時、斐醺の表情が、ぴん、と張り詰めた。
「いえ。その前に、美獣公子からお言葉を預かってきてるから、それを伝えます。」
真っ直ぐに通った鼻梁が、刃物のように鋭く感じられる。美獣の伝言となれば、公子の懐刀である斐醺が緊張感をもって相手に伝えるのは当然であろう。先ほどのウキウキした雰囲気は、今は微塵も無い。
吼了欽も、斐醺の様子から察して、素早く拱手した。
やや間を置いて、斐醺が厳かに告げる。
「圃戒仕龍眼代の隊は、本拠の國朶鎮に戻られたい。急ではなく、段階的で良いが、家中の柱石たる吼了欽には早々に帰還されよ。以上、美獣公子のご下命である。」
「はっ。承知つかまつりました。」
吼了欽は即答した。だが受命しながらも、当然疑問が湧いて、斐醺の顔を覗いている。
吼了欽の不安げな目線を受けて、斐醺は言葉をつなぐ。
「私、斐醺と公子の連名で圃戒仕殿と圃龍眼にも使いを送ってある。心配せず、帰還してよい。」
「は、はっ。ですが。恐れながら」
そう言われてもなお、吼了欽は聞かずにおれまい。
「美獣公子には不興でございますか。」
「いや。」
「そうですか。囿治果におりました四日間、この吼了欽が圃家の部隊を管轄して参りましたが、粗相など御座いませんでしたか。」
吼了欽は拱手したまま、身を乗り出し、斐醺に噛みつかんばかりである。
それはそうだろう。
圃戒仕が美獣への傾注を公言して預けた四十名である。それをわずか四日で囿治果から追い出すというのだ。この間の責任者であった吼了欽としては、圃戒仕から何を言われるか分かったもんではない。
「美獣公子は不興じゃないし、貴方にも手落ちはない。それは圃戒仕様も同様。」
「差し支えなければ、何故えかお教えを。」
斐醺はまた破顔して、慌てている眼前の若い男を優しく諭した。
「美獣公子は圃家にお気を使っているのよ。因州における名家だし、何と言っても圃韓様は現職の因州第一大臣。御家を州王家と同等に考えておられる。せめて州王当人ならともかく、その子息である公子に対し、圃家が過剰な兵役を負担すべきではない、とのご判断よ。」
「分かりました。」
吼了欽の鼻からふう、と息が漏れる。一先ず腑に落ちたようだ。
己れが仕える圃家が美獣公子に認められているということで、自尊心も満足したのだろう。
「今お話しされた旨は、公子と斐醺様の連名にて圃韓様、圃戒仕様にお伝えくださるのですね。」
「そうよ。」
「承知致しました。斐醺様には様々なお気遣いを賜り、ありがとうございます。」
「とんでもないわ。よし、これで公子のご下命は終了。さあ、左肩を治療するわよ。昱左、吼了欽殿を奥の上房に連れて行きましょ。」
「ありがとうございます。しかし、それ沁みるんですよね。」
そう言って吼了欽は、手元の薬箱に視線を落としたが、昱左は何も言わなかった。
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治療を終えた斐醺と昱左の主従は、吼了欽の宿舎を出、再び馬車に乗り込んだ。
日の落ちかけた薄暮の街路に、車輪が回る。昱左は手綱を操りながら、長い髪を風に靡かせている。
「斐醺様。吼了欽という男、話してみると気のいい若者ですね。」
「でしょ。」
「しかし十九歳ですか。その割には幼い。良く言えば無邪気ですが、私からはやはり浮薄に感じますね。」
「うふふ、ありがとう。先生のお教え、確かに受け取りましたよ。」
斐醺は軽く受け流す。
もう、耳を貸さないか。
吼了欽の前で見せた斐醺の様子を思い起こし、昱左は口を少しへの字に曲げる。
斐醺の顔をまた、盗み見る。
彼女は睨んでいた。
針のように細い眼が、囿治果の街を突き刺すように見据えているのである。
街がどうしたのか。多くの兵卒が、薄暗い街を行き過ぎていく。囿治果は軍事都市であるから、当然の風景だ。しかし ―
「囮丘の戦は終わったのにね。逆にどんどん増えていく。昱左―」
そう、気のせいではない。一昨日より、昨日。昨日より今日。
街を往来する兵は、確実に増えているではないか。
「はい。」
背中に不思議な悪寒を覚えつつ、昱左は主君の呼びかけに応えた。
「増兵よ。薬剤も補完の手立てを。」
昱左の身体が小刻みに痙攣する。愛嬌ある丸顔の上に、ずっと保っていた微笑みはもはや無い。
「はい」
斐醺への応答は、いよいよ冷たく響く。
夜の帳が降り始めた軍事都市、囿治果はざわざわして、無数の小さな鬼が蠢いているような、そんな錯覚を覚えた。夜の雑音は、小さな馬車が立てる乾いた車輪の音等、あっという間に呑み込んだ。
斐醺たちの馬車はあっという間に街の夜闇に消えた。
囿治果の夜は落ち着かず、更けていく。