第六話
軍事都市、囿治果。
月無き夜がこの城市を見下ろし、特徴である白い建物群も今は闇に沈んで、判然とせぬ。
街の中央を占める巨大な建造物は、囿治果の政庁であり、かつ城主の美獣が起居する居館である。4m超の高い磚壁がぐるり周囲をめぐっているが、そもそも囿治果の街自体が長大な城壁に囲まれている。つまり、二重の防壁で守られていることになる。
この美獣邸大門も日中であればその白亜の眩いばかりの外容が圧巻なのだが、今は夜陰にただ黒く沈み、禍々しい威容が見る者を圧する。
(さて、しっかり歩きましょうかね。)
斐醺はいま、この豪邸の前に立っている。
その立ち姿は真っ直ぐで、藁のように細い。絹製の長袍を染める薄桃の色彩も、硬質な軍靴の純白も、やはり月が隠れた夜の闇に見えはしない。夏の夜。日中のように暑くはないが、幾ばくかの緊張で彼女は脇に一筋の汗が流れるのを感じていた。
壮麗な大門に歩み寄ると、
「斐醺様でしょうか。」
と二人の門衛から問われる。顔を確認してすぐに彼女と知れ、彼らは分厚い甲冑に金属音を鳴らしながら、手を取るように門を通した。
「美獣公子は、議堂ではなく公子の上房でお待ちです。途中の各門にて、衛士が案内を申し上げます。」
「ありがとう。」
斐醺は薄く笑い、門内に踏み入れた。
(上房におられるということは、恐らくお側に一人。いや、二人。付いているかもしれない。)
上房は美獣個人の応接室であり、議堂は囿治果の文官・武官が集う空間である。夜間ではあるが、彼女が今から問う議はなかなか重いものだから、美獣だけではなく謀士も側に侍しているのでは、と予感したところである。
(どちらも、苦手なのよね。)
短髪が揺れる。直線状の高い鼻梁をツン、と聳やかして、斐醺の顔は引き締まり、いよいよその顔は少年の如くであった。
庁内は篝火が随所で焚かれ、外界とは別世界のように照らし出されている。
三つの門、三つの院子を通り抜けるとようやく議堂に着き、それを避けるように脇の廻廊をたどった後、再び二つの門と二つの院子を早足で過ぎると、眼前に大宇が出現する。
篝火に浮かび上がる白亜の巨館。
美獣が起居する本殿である。
院子からは幅広の階段が設えられ、巨館に入るにはこれを登ることになる。階段の上が美獣の上房になるが、院子に佇む斐醺は、複数人の気配を察した。そして、上房でそれまでしていた話がぴた、と止んだようだった。
階段の上から声が降る。
「あ。ああ、斐醺。夜分ご苦労。お上がりなさい。」
(美佑聯様の声!)
ふんわりと穏やかな、しかし不思議と、広い院子の真ん中にいながら耳に届くしっかりした声。
「さあ、斐醺。その顔を早く見せよ。」
そして畳み掛けるように、名鐘のような声が夜の院子に響く。
「はっ!」
斐醺は真っ直ぐな背筋を更に伸ばし、弾かれるように返答した。
因州公子、美獣。
彼に呼ばわれたからである。
素早く階段を踏み、上房に上がる。
「斐醺で御座います。夜分に申し訳御座いません。御目通り出来、感謝致します。」
拱手し頭を垂れる斐醺に対し、
「直りなさい。」
と、優しく言ったのは美獣の妹、美佑聯である。
斐醺の左上座に立ち、房内の燭燈に映し出されたその姿は、
(まこと、牡丹のような微笑。)
と、女同士でも見惚れる艶やかさである。紫苑色の寛衣でゆったりと身体を覆い、その上に抜けるように白い小さな顔が載って、はっきりした目鼻立ちが柔らかな笑顔をつくっているのである。
斐醺が顔を上げると、美佑聯は肉感的な赤い唇でさえずった。
「貴女は涼しげな人だから、夏の夜の面会は本当に歓迎ですわ。その絹地の召し物も良くお似合い。だからではないですけどね、今夜はこうして外の空気を吸いながら、涼しく、お話致しましょう。」
「はい。」
確かに応接の房室は更に奥にあって、ここは院子に面した広間に過ぎぬのだが、過去にもこうした謁見に使用されたこともあり、特に違和感はない。床は黄の砂岩に大理石の唐草紋様が象嵌されており、視界が開けて心理的にも宜しかろう。ただ謀議をするには開放的に過ぎる空間だが、
(まあ、今日の話は重いけど、それ程の密事でもないわ。)
と、斐醺は黒く艶やかな短髪を少し揺らしながら、思考した。
「ふふ、佑聯の言う通りだ。涼気だ。」
その思考に分け入るように、名鐘の如き声が頭の中に響く。
「不思議にも、斐醺から涼風が流れてくる。今夜は、楽しみだったぞ。」
正面に、声の主が座っている。
因州公子、美獣。
彫刻を施した瑠璃紺の椅子に腰掛け、白絹の長袍は燭燈の灯りを跳ね返し、同じく色白な顔もまた眩しくて、一瞬その表情も判別できぬほどだった。目を凝らすと、妹と同様のはっきりした目鼻立ち、筆で引いたような柳眉、杏仁型の薄茶の瞳、端正な顔貌が分かって、やはり見惚れてしまう。
美獣は笑っている。一瞬、甘美な気分が、斐醺の胸にこみ上げる。
しかし、斐醺はすぐに気づく。
美獣の茶の瞳に宿る、獰猛な光。
慣れている。
彼女は意図的に、その独特な目の光を素早く主君の中に探し、確認する。そして、冷や汗をかく程に身を引き締めるのだった。
「ありがたき幸せ。若輩の、小娘で御座いますが、一服の清涼剤にでもなれば。」
「さあて、今宵。その斐醺嬢が持ち込む事案も清涼剤となるか。はたまた炎熱の火山弾になるか。婆やはそれが楽しみでごじゃるなあ。」
右から嗄れた老婆の揶揄。
(こっちも苦手だわ。)
斐醺はヒクつきそうになる白面を無理に固め、右に会釈を返す。
見るまでもない。
美獣の傅役にして、穣界屈指の謀士。
姓は嚇、名は凛。
短躯で、皺くちゃの老婆に過ぎぬ。
小さな丸椅子に掛けてるから更に縮こまっており、これだけ明るい上房の中でも、不思議とそこだけ蔭に沈み、全く目立たぬ。しかし、判然としないながらも、斐醺に注がれる老婆の視線は射抜くが如く、厳しいものであった。
「とんでも御座いません。私のような小娘に、炎熱の大事など転がりこむ筈も御座いません。小さな胸では仕舞いきれぬ程度の出来事、お手を煩わせますがご指示を頂きに参った次第。」
「ふふ、嚇凛婆。いたいけな娘をいびるは老害ぞ。」
「ひょひょ、いかにも。しかし、この御仁を小娘扱いしてたら、足元を掬われそうですなあ。斐家が誇る若き女傑、と認識した方がよろしいやも。」
「しつこい婆よ。よいよい、斐醺。嚇凛を気にせず言上せい。」
「は。はっ。」
こうして、美獣、美佑聯、嚇凛という三人に取り囲まれながら、斐醺は本題に入る。
「州龍眼代の圃戒仕殿手勢の四十名、同氏配下の武官、吼了欽が管轄して囿治果に駐留しておりますが、この軍勢の扱いにつき、我が弟、斐色矜を通じてご指示を頂きました。本日はその確認です。まず吼了欽のみ國朶鎮に帰し、他の兵士はいずれかの隊に仮編入、時期を見て段階的に帰国さす。そのように理解しましたが、誤りあればご教示下さいませ。」
流れるように、言いきる。
この間、美獣の表情も観察している。
獰猛な瞳は消えぬまま、うんうん、と頷き、彼女の言上が切れるのを待っている風だった。
「それに相違ない。」
やはり即、言葉を入れてきた。
「お前たち姉弟は、まことに至便。そのようにせよ。」
まずは指示の確認が出来たことで斐醺は一安心したが、つと、左側の空気が少し硬直したのを感じた。
だが、美獣は構わない。
「お前たちが気になるのは、あの家に対する私の存念だろう。」
斐醺は頷きもせず、美獣から若干目線を外してみせ、美獣はそれを見て、先を語る。
「『老龍眼』圃韓は私の恩師であると同時に、州王の参謀として我が父を側近く輔けている。そしてあの家は、かつて喋家とともに因州を護った大功の名家である。つまり我が州王家にとっては、単なる臣下でなく、特別な存在である。なれば。」
美獣は茶色い獰猛な瞳で、斐醺の顔を覗き込んだ。
「囿治果のことは、詳しく知らせぬ方が良い。」
「はい。」
やはりか、と斐醺は張りつめた顔で頷く。
「詳しいお考えを教示下さり、ありがとうございます。即、御下命を実行します。」
美獣はちろ、と下唇を、舐めた。
「ふふ、今度は二人がおらぬ時に来い。」
「これは。それでは弟を連れてきますよ。」
「あら。そしたら、美家がさらに賑やかになるわいねえ。美豕しゃまも元気にお育ちだし、ねえ、佑聯しゃま?」
会話に内腑というものがあるなら、嚇凛はそいつを抉り、暴き、嘲笑う。悪意の塊が如き婆であった。
この時、斐醺の脳裏に浮かんでいたのは、美獣の正妻、美宋演の顔だが、左から強烈な気を感じて想念は煙のように掻き消えた。
左から声が流れてくる。
「婆や、斐醺にとっては迷惑よ。ただ美家に入るにせよ、そうでないにせよ、斐醺は今後因州の柱石になっていく女傑。色々、政治向きの話を耳に入れておいた方が宜しくないかしら。」
美佑聯はいよいよ柔らかく、歌うような旋律で話している。きっと、その牡丹のような立ち姿もまた、艶やかであろう。
しかし斐醺はそちらを向かぬ。
いや怖くて一瞥だに出来ぬ。眼は床の唐草紋様だけを見つめる。
「妹君がそう仰るなら、先ほどの続きをしてしまいましょうかねえ。」
嚇凛は猿の子のように皺くちゃの顔を持ち上げ、無言で美獣に同意を求めた。美獣は小さく口をへの字に曲げ、目だけで頷いた。
(美獣様は御不興ね。)
女として悪い気はしない。まして美男の貴公子である。一方で、確かに迷惑でもある。
左からの穏やかでない視線はこの身を焼くようだ。しかし、斐醺は嚇凛の講釈に集中した。
「して、詐欺で都を乗っ取った妖天をそそのかし、穣界の各州王や有力土豪に献金を命じさせた件でさあね。」
(え。そんなことを?)
斐醺は無表情を保とうとしたが、針のように細い一重眼を、思わず大きく見開いてしまった。
嚇凛は顔の皺を更に深くして、笑う。
「ひょひょ。それぁ、斐醺が知るはずないわいなあ。先月のことよ。妖天も、媼蠱から貰った路銀を上洛で使い果たした上、今年に入ってから僚敞と戦ったりして金がありゃせんから、持ちかけてみたんじゃわ。因州王の名で出したしなあ、すぐに乗ってきたわ。奴は巷で言われる通り一世の策謀家じゃけども、利が少しでもあればこちらの言う通りにしよる。まあ、浮薄な男だわさ。」
恐らく、美獣と嚇凛は、州王・美宜粽に無断で企てたのだろう。
「そして結果が出た。」
「拒絶者がおりましたか。」
斐醺は素直に興味が湧き、少し身を乗り出した。
「おうさ。献金を拒否したのは、坡州王培梅、捻州王必黄站、庇州王尼竺。豪族どもでは、闔州の閃言彫、坡州の壘渋が拠出せなんだ。」
「培梅が。」
斐醺は呟いた。
他の者は、妖天に騙されて怒っていたり、自領の防衛に目一杯で中央政局に頭が回らない連中だ。
だが、坡州王の培梅は違う。
培家はその豊富な財で坡州王の座を買ったのだが、当代の培梅も類い稀な女傑と評判だった。妖天が並居る諸侯を騙して回った上洛行でも、培梅は避けられた。妖天は、己れの奸謀が培梅には通じぬと予測したのであろう。
現在の穣界において、培梅の富強は頭抜けていた。培梅は妖天のことなど眼中に無く、そんなぽっと出の詐欺師まがいに献金なんぞ、彼女にとってはちゃんちゃらおかしくて無視したと見える。
(それはそれで、一方の雄たる考え方よね。)
斐醺の心中を知ってか知らずか、彼女の顔を見つめながら、美獣が微笑んでいる。嚇凛に至っては、ちんまりした老躯を小刻みに揺らし、楽しくて仕方ない、という風情で献金話を続ける。
「ひょひょ。反対に献金したのはわが因州王家を筆頭に、妖州王媼蠱、遜州王逓操、闔州王閥養、秦州王穂泉煎、定州王窶房長の六州だわさ。」
「因州王家」なんぞ言ってるが、恐らく美宜粽は関知せず、美獣の私費から拠出したに相違ない。
「穂泉煎も、閥養も妖天にまんまと騙されたくせに献金に応じるんだからねえ、矜持も無けりゃ、節操も無い。」
「献金派は、簡単だな。」
美獣が頬杖ついて、そう言った。
椅子に深く沈み、端正な顔をしたこの貴公子は、いよいよその瞳を獰猛に光らせている。
「簡単だな」とはどういうことか。斐醺にはその意が掴みかねた。
ひょひょひょ。嚇凛の笑いが、意地悪く上房に響く。
何か、自分の想像の域を超えたことが起こるのではないか。
斐醺は頭を回転させようとした。しかし、
「さあさ。もう夜も遅いし、斐醺はお暇したら。圃家軍の処遇は聞けたから、もう良いでしょう。」
という美佑聯のたおやかな勧めに、首を縦に振る。
思考は中断した。
三人の前を辞し、磚を敷き詰めた院子を踏み、門をくぐり、歩を進めつつ考えをまとめようとする。
だが、脳が動かぬ。
最後に大門をくぐり、美獣邸を出た瞬間、どっ、と緊張が解けた。
月の無い夜。
「ささ。車にお乗り下さい。」
門前まで馬車で昱左が迎えに来ていた。
斐醺は馬車に飛び乗った。
恐怖にかられていたが、表情には出さぬ。その証拠に昱左は何も気にせず、「道が暗いのでゆっくり行きますね」などと長閑に鞭を使っている。
だが、斐醺は一刻も早く、この場から逃げたいのだ。
囿治果の街を覆う夜闇から逃れたい。いやしかし、それだけではない。美獣邸に黒く蠢く空気の方が、闇は濃かった。
なぜ逃げたいのか。
しかし自分の心因すら、脳が止まってしまっているから、分からぬ。
夏の闇に沈む囿治果の街を、一台の馬車がゆるゆると進んでいく。