第伍話
啻山は南中の夏日を浴び、緑に包まれた鮮やかな山容を誇るように、聳え立っていた。そしてその東麓に広がる大城市、啻万麓は、照りつける真昼の太陽の下、加速度的に気温を上昇させていた。
眞暦1806年8月15日。
因州州都の啻万麓は夏の陽気に晒されている。因州は大姚帝国三十一州の中でも東北端に位置し、全体に冷涼な気候であるが、夏季はやはり暑い。
紅白の磚に彩られた「紅雪閃光城」とも称される啻万麓の街。その西端は、啻山の山裾にあたり、そこに州王府など因州の主だった庁舎が林立している。そして拾閣臣など州の首脳達が起居する邸宅もまた、この周辺に配置されているのである。
龍眼代の要職に就く圃戒仕の居館も、例外ではない。紅白の磚で仕上げられた大門は、啻万麓の他の建物と同様に鮮やかだったが、照壁から二門、院子に至るまで同仕様で設えられ、他所ものの多くが目をチカチカさせてしまう。
上房の椅子にかけて、院子を見下ろす痩せた男。この邸の主、圃戒仕である。
「どうも、おかしい。」
圃戒仕は、派手な紅白の院子を見つめていても、まったく違和感が無い様子だ。それもその筈、父圃韓は若年より要職に就いてこの啻万麓の滞在も長く、その嫡男である圃戒仕も帯同してきた訳で、領地の國朶鎮にいるよりこの街で過ごした時間の方が長いくらいだった。為に、啻万麓名物の紅白磚建築にも、目が慣れているのである。
圃戒仕の三白眼は、院子に敷き詰められた磚を見るともなく見つめている。椅子の上で、ゆっくりと身体を左右に揺らし、ひどく不安定であった。
脇に控える小肥りな男が、おずおずと声をかけた。
「何か。龍眼府でありましたか。」
「ん。」
かなり物思いに沈んでいたのだろう。圃戒仕は少し驚いたように、そちらを向いた。
「ん。ああ、忞番対か。まあ。」
尖った顎を忞番対の方へ突き出した。白いこめかみに青筋が浮く。
「お前には分からんわ。」
そう言ってまた院子を見つめる。忞番対は悲しげに俯いたが、その頭頂部に向けて、まるで突き刺すような鋭さで、圃戒仕は問いを投げつけた。
「お前、囮丘での美獣軍について、どう思った。」
お前には分からん、と突き放しておいて次の瞬間には下問してくるのだから、「あんたこそ分からん御人だ」と忞番対が悪態をつきたくなるのも理解できる。
だがそこは押し隠し、忞番対は辞を低くして所見を述べた。
「はっ。恐れながら具申します。さすがの美獣様、たかが匪賊の群れを蹴散らすのに一万もの軍兵を召集なさいました。見事、そのお力を因州全土にお示しなされたかと存じます。」
「その通りだ。」
圃戒仕はニヤ、と笑った。忞番対は囮丘で圃戒仕が口走ったことを憶えていたから、それをなぞっただけである。だが圃戒仕は、我が意を得たりと喜んだ様子だ。
「お前でも分かるのにな。」
「圃韓様は違いましたか。」
「んー。いや。」
圃戒仕はまた院子に目を向ける。
「父上は分かってくれた、と思う。それこそ私なんぞよりも遥か前から、美獣様の大器に着目していた。しかし、私の今回の挙には賛成してくれなんだ。」
「そうですか。」
「うむ。美獣様を褒める時は州王も、美宜粽様も同時に褒めるように、などと仰ってな。何でそんなことを言うのか。」
「今朝は、穆薀様もご一緒だったかと思いますが、何か言われましたか。」
「ふんっ。」
穆薀のことを話しに出した途端、気分を害したので、癇癪を起こすかと忞番対は背筋を寒くしたが、圃戒仕は淡々と苦言を呈すにとどまった。
「奴は何も発言せんかったわ。曲がりなりにも因州龍眼への報告だというのにな。龍眼代であるわしから殆ど報告したのだぞ、まったく。何の為の家宰か分からんわ。」
「ははあ。」
「しかも最後の去り際に、喋龍牙への贈答相談といって、父上に呼び止められてな。奴は父上のもとに残った。父上が、わしの報告の裏を穆薀からとるんだろうと思い、少し部屋の前で聞き耳を立てていたが、数分してもそんな話しにならんかったから、立ち去ったのよ。」
多少、言葉の端々に怒気を孕んでいるが、どうも癇癪は起こさなそうだ。
忞番対は会話の内容などどうでもよかった。ひたすらに主人の機嫌を気にしているだけだった。だが、そんな忞番対を尻目に、圃戒仕自身は首を傾げながら、ただただ院子を見つめている。
夏の日差しが院子に差し込む。
紅白磚が、赤い光と白い光をそれぞれ反射させ、刻々と鮮やかさを増していた。
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夜空に、啻山は円錐のその影を黒く浮き立たせ、月光を受けてもなお、山肌の闇は一層濃い。
東麓の啻万麓もまた、夏の宵に沈み、日中の暑気を多少、街に残している。
街の東、城壁に近い界隈は下町で、間口の狭い民家がひしめいていたが、どの家も暑い夜に辟易としているだろう。
(穆薀様。ちょっと手加減して下さいまし。娘が、寿が目を覚まします。)
その中の一軒も、夜だというのに暑く、若い男女が汗を滴らせている。夜陰に暗い房中、よく見れば褥の中に両者とも裸でおり、室内の熱気は夏の気温のせいだけでは無さそうである。
(契寿ももう十二になるだろう。こちらの声が聞こえようがなんだろうが、すでに気づいているさ。)
(くっ。)
男の方は顔の左半分を金糸で編んだ眼帯で隠し、厚い唇を歪めて嗜虐的な笑みを浮かべている。掛け布団の中に差し込んだ右腕を忙しく動かすと、その動きにつられて女が苦しげに眉根を寄せ、掌で抑えた口から小さな呻きが漏れてしまうが、男にはそれがどうも楽しいらしい。
(しかし、娘にはお前みたいな不幸な人生を歩いて欲しくないよな。お前が十五の時の子だろ、あの娘は。)
(は。はい。)
男は州龍眼・圃韓の若き家宰、「檗輪単眼」穆薀である。
(ただ嚇凛婆のもとで早くも諜者の見習い中なのだろう。お前と同じ道を歩みつつあるじゃないか。)
(いえ、娘は。私のようなことにならぬよう。します。)
女は圃家専属の諜者で、姓を契、名を冬蹊という。吊った目に鋭さがあるが瞳は濡れ、そばかすの散った丸顔に愛嬌があった。細長く白い腕で、穆薀の肩を必死に掴んでいる。
(ふふ。いい母親だな。)
穆薀は契冬蹊の小さな胸乳に顔を押し当てた。そしてくんくんと、鼻を鳴らす。
(くすぐっとうございます。)
(ふふ、これよ。この茘枝の薫りが嗅ぎたくってなあ。ここに飛んで帰ってきた訳よ。)
(そんな、今朝には啻万麓にお着きだったではありませんか。)
(おお。さすが手練れの女諜者、俺の監視などお手の物か。勝手に家宰を尾行するなど怪しからんな。)
そう言うと穆薀は、やにわに契冬蹊を組み敷いた。
(ひ。)
以降、契冬蹊は人差し指を咥えながら、ひたすらに耐えた。とても喋るどころではないが、動いている方の穆薀は、いつもの実務をしている時と同じような冷静さで喋っている。ささやくような小声であるが。
(俺なんぞ監視せず、美獣公子を監視せよ。いや、正確に言えば、監視の対象は囿治果の駐留軍の動向だがな。公子個人の身辺に深く立ち入る必要はない。)
男は淡々と喋る割に動作が荒く、一度契冬蹊はひっくり返され、再びまた責め立てられた。
(大事な身体だ。不要な無理をするなよ。囿治果の街を普通に歩いて鼻を利かせるだけでいい。だが兵備に変を感じたら、すぐこの啻万麓に戻って知らせろ。)
(は。は、いい。)
男は動きながら流れるように指示を出し、女は揺らされながらただ指示を受けている。
(契寿のことは心配するな。お前が家を空けている間も、圃家が責任を持って世話をする。)
(ありがとう、ございます。)
女は吐息にまぎれて、感謝した。
二人が声をひそめて逢瀬を楽しんでいるからだろうか。
啻万麓の宏大な市域は、不気味なほど静かであった。月光に妖しく照らされた街では、あくまで静かに夜が更けていったのである。