第四話
八月の朝。
軍事都市、囿治果は賑わっている。
白く塗られた兵舎が画一的にズラリと並び、その狭間を走る大路、小路を、兵装に身を包んだ多くの男女が往来していた。
兵員相手の露天商も多く、武具商、食い物屋、本屋なんぞが路傍に立って、声を張っている。夏の朝日を浴びて、皆汗を垂れ流している。
「さあさ、そこの隊長さん。槍兵さん。饅頭どうだい。」
「オヤジ、こないだ買ったやつは肉が殆ど入ってなかったぞ。」
「なに。野菜を食った方が槍筋も冴えるってもんだ。」
「肉を食わにゃあ、力が出んわ。」
「へん。勇ましいだけじゃ、美獣軍では出世できんぞ。お、そこの娘さん、どうだい?」
「肉饅頭」と幟を掲げる肉饅頭のように太った饅頭屋のオヤジが、通りすがりの痩せた女に声をかける。
薄桃色の戦袍を纏ったその体の線は、折れそうに細い。そして艶のある黒い短髪、白い細面に針のような眼。
紛れもない、斐醺である。
彼女は純白の軍靴を、カッ、と地に止め、オヤジを一瞥する。
「ありがとう。私はもう、出世してるから、いいわ。」
そう言って、手を振った。指も細く、白い小枝が宙に舞うが如くである。饅頭屋のオヤジは袖にされたことは気にならないのか、斐醺の後ろ姿をいつまでもニヤつきながら見送っていた。
埃の舞う囿治果の街を、斐醺は行く。
過ぎる建造物は兵舎や武具庫、兵糧庫ばかりだ。庁舎もあるがそれらは何れも軍関係である。ここは軍事都市として建設された城市であるから、当然であった。因州南部の拠点城市は噎職であり、経済機能や居住機能はそちらが担っている。一方で噎職の南10kmに位置するこの衛星都市は、兵士の生活機能、軍装備の所蔵・調達機能、招集・集散機能、医療機能など、軍事に特化していた。
この噎職と囿治果を直轄領として君臨しているのが、因州公子、美獣なのである。
黄ばんだ風が抜けて行く路地には図体の大きい兵士どもが横溢していたが、その中を斐醺は颯爽と歩く。荒くれ者は皆、鞭のようにしなやかなこの麗人に道を譲る。そして先ほどの饅頭屋と同様、振り向いていつまでも見送るのであった。
程なく斐醺は、高い槐を大門の前に植えた白い家の前で、カッ、と硬い軍靴を止めた。彼女の囿治果における居宅であった。
「姉上。お帰りなさいませ。」
顔の幼い、しかしその割には180cmに近い長身の少年が飛び跳ねるように出迎えた。
「ただいま。斐色矜。」
彼は斐醺の弟で、姓は斐、名は色矜。姉と同様、藁のように細い体で、針の如き目がその白面を裂いている。顔も痩せて頰が削げ、うっすら陰影が差していた。
弟は姉の手を取るように付き添い、宿舎の上房に誘う。
「暑い中、お世話さまでございます。して、傷病兵たちのその後はいかがでしたか。」
「順調よ。もともと勝ち戦だから、負傷者が少ないの。今、医院に収容されているのは、磐周挿殿の部隊くらいかしらね。磐周挿自身、左手をしたたかに斬られてはいる。あ。そうだ。」
上房の椅子に座り、赤い円卓に頬杖をつくと、斐醺は何かに気がついて目線を宙に向けた。斐色矜が円卓の対面に座る。
「何ですか、姉上。」
「今日は何日だっけ。」
「8月15日です。」
この時、上房に入ってきた若い女が即答した。
「あら、昱左。ありがとう。」
「囮丘の戦が8月12日でしたから。あれから三日です。」
本草学士の昱左である。斐醺の使う薬剤を調達する者で、歳は四つ上だが、その愛嬌ある丸顔で年下に見える。だが、今の受け答えから分かるように、ともすれば冷徹に感じる程、理知的な女でもあった。
上房の中は清楚に片付き、円卓や椅子、床までもが珊瑚や花崗岩で仕上げられ、家主の気質を表現したような白と薄桃色の空間であった。壁に掛けられた数本の蒔舟刀が無ければ、武官の家とは思えぬだろう。
「そうか、まだ三日か。吼了欽の肩の穴はまだ痛いでしょうね。」
「吼了欽?」
姉の口から洩れた名前に、弟の斐色矜が反応した。
「昨日の交差調練でふざけた真似をした、あの男ですか?」
「ふふ。」
吼了欽が駆け違いざまに送ってきた、張り裂けんばかりの笑顔を思い出し、斐醺は頰を緩めた。
しかし斐色矜は反対に真っ白なこめかみに青い血管を浮き立たせ、姉に詰め寄った。
「美獣様、美佑聯様が閲兵されている調練で、曲乗りするなぞ。」
「曲乗りと言うほどでも無かったわよ。あのね、吼了欽は囮丘で磐周挿を救出したのは知ってるでしょ。その時に利き腕の左肩を槍で突かれて、穴が空いたのよ。」
「あの突撃は無謀です。」
「まあね。でも英雄よ。」
命を賭した活躍が賞賛されるのは概ねどの戦場でも同様だが、斐色矜は納得行かぬ気だ。そうして何度か首をかしげたあと、つと顔を上げた。
「吼了欽の奇行や武勲の話はともかくとして。圃戒仕殿の手勢を、いつまで残しておくのですか。」
斐醺の瞳孔がきゅっ、と狭まった。だが、またもとの眼差しに戻る。
「あら、いいじゃない。御子息は美獣様に心酔したようよ。」
囮丘から撤退する時、圃戒仕は美獣を随分と激賞したらしい。だから美獣公子としては彼の隊は扱いやすかろう、と斐醺はうわべだけで少年に話す。
「その父は、圃韓龍眼は、違うのではないですか。美獣公子との関係は決して険悪ではないですけど、圃戒仕殿の極端な傾注を見て、父である圃韓様はどう思うか。」
「斐色矜。あなた、外でそんな話をしてるんじゃないでしょうね。」
針のような姉の目が急に座って睨まれた為に、斐色矜は背中に冷水をかけられた如く、背筋を正した。
「そんな、ありえません。姉上の前だからこんな賢しらなことを、恥ずかしげもなく言えるのです。母上の前でも言ってません。しかし ― 」
まったく十六歳の子供のくせに、近ごろ政への興味がひとかたでなく、調練やら戦争やら、やたらと首を突っ込んでくる。
(何より、美獣公子に寵愛されてるからね。)
「せめて、吼了欽だけは帰したらどうですか。」
口を尖らせて、弟は提案してくる。
(美獣公子の意向か。美獣様はやはり、圃戒仕、いや圃韓と距離を取っておきたいのかしら。)
そう頭の中で思いを巡らせるが、斐色矜は落ち着いた思考を許さない。
「せめて吼了欽は帰したがいいです。姉上。」
斐色矜はその白い頬を朱に染めて、身を乗り出す。
まだ、やはり子供だ。
「残念ね。吼了欽って、結構可愛い男なのにな。」
と言うと、弟の頰が更に赤くなった。
しかし昱左も吼了欽を気に入らぬようである。
「斐醺様。確かに美男で武功もありますが、あの若者はいささか浮薄です。あたしは好きになれませんね。」
「あらら。」
さすがに昱左の批判には耳を傾ける。
「経験豊かなお嫂さまのご意見は貴重ですわね。」
「吼家は家勢衰えたりとはいえ、筋目は良ろしいはずですけども。」
「そうね、貴女は秦州に居たのだった。圃家の封地に近いし、詳しいのね。」
口を挟もうとした斐色矜を、斐醺は優雅な白い指で制し、ピシャリとした口調で言った。
「斐色矜、あなたが言ってることは公子の御意志なのね。今日すぐ登庁し、美獣公子に正式に御指示を頂きます。その後で私から吼了欽に言い渡しましょう。それでいいわね?」
姉にそう言われると口を開けることもままならず、斐色矜はぐっ、と喉を鳴らしながら、小さく頷いた。
昱左はとっくに吼了欽への興味を無くし、新しい話題を始めた。
「今、この街に兵が多過ぎます。吼了欽や圃戒仕の隊は誤差の範囲です。糧食も馬鹿にならぬ筈。」
丸顔の中で狐のように吊った眼が、先程より厳しい光を宿している。
そうなのよね、と斐醺も少し物憂げにつぶやき、沓を脱いで床に足をつけた。足裏に冷たい花崗岩の床を感じて、気温の上がり始めた室内にあって少しだけ涼を楽しんだ。
宿舎の外では、夏の朝日がいよいよ空高く昇っている。
囿治果の街中にジリジリと照りつけているのだろう。配下と弟の目線を感じながら床に素足を押しつけて、登庁するなら夜がいいだろうか、と斐醺は考えを巡らせ始めた。