第参話
「父上。かように公子の隆盛は明白。」
紅白に塗られた磚で仕上げられた上房は、夏の朝に熱をはらむ。東の天窓から射す日がすでに暑い。
圃韓の座前に拱手する二人も緊張感ある表情を崩さず、これも房内に暑気がこもる一因のようだった。
怒ったような声で報告を続ける痩せた男は、圃韓の嫡男、圃戒仕である。
「たかが三千足らずの流賊を討つのに、一万の軍兵を集められました。美獣公子が号令をかければ、因州内の諸侯がそれだけ応じる、という証左です。普通であれば、同じ程度の戦争で兵を招集した場合にどれだけ集まるか。練度の低い野盗の群れ相手では、諸侯は何だかんだ理由をつけて兵の供出を拒否しましょう。しかし美獣公子なら、違う。」
圃韓の白眉が、少し寄った。
この上房は、因州第一大臣たる「龍眼」圃韓の執務室であり人払いをしてあるから、この会話を他に聞く者は、圃戒仕の隣に立つ穆薀しかない。圃韓はちら、と穆薀に目線を送ると、彼は大きな右眼に一重目蓋を半分だけ下ろしてみせた。
圃戒仕は三白眼の瞳孔を、更にきゅっ、と狭めて喋り続ける。
「私は囮丘からの撤兵時に、自隊を囿治果に留置する旨、宣言しました。残した四十名は吼了欽が総括しております。私の行動に触発されたのでしょう、従軍した他の武将も同調しております。例えば。ええと。」
「喋織、啓殉覚、巴雷丹邦冤、の各氏にございます。」
興奮の為か、咄嗟に各氏の名前をど忘れした圃戒仕の言葉を、穆薀が継ぐ。
「ぬ。そう、じゃな。それで、彼らのような諸侯が、兵を美獣公子に預けました。父上、ですから真っ先に手を挙げた当家は、美獣公子のおぼえ目出度いことでございましょう。これからは」
「圃戒仕。」
がたっ。
圃韓は億劫そうに、その古びた、しかし彫刻が施されてかなりの名品とおぼしき大椅子の上に腰を浮かし、ぐっ、と我が子を睨んだ。
その眼は濁っているがかえって妖気を発し、調子よく喋っていた圃戒仕は、その威に言葉を飲み込み、尖った顎をぐっ、と引いた。
「美獣公子の隆盛、良く分かった。この圃韓、公子の産まれた頃より、良く知っておる。幼少よりその英邁は、わしも眼を瞠り続けておる。さすが名君たる美宜粽様の御子であられるわ。」
圃韓はここで、言葉を切る。こめかみに青筋を浮かべた圃戒仕は探るように父を見、黙っている。
圃韓は胸から金鎖で吊った金小板をゆっくりいじっていたが、ややあって口を開いた。
「我が圃家は、州王家の臣である。美宜粽様にも、美獣様にも、お仕えする。美獣様を賞賛する時、必ず美宜粽様も讃えよ。当家の立場を肝に銘じよ。」
「はっ。」
その表情は不承不承なれど、圃戒仕は一先ず従った。頭を下げ、上目遣いで我が父を盗み見た時、
「退がれ。」
と、命じられた。
「二人とも囮丘戦役、ご苦労であった。身を休めるが良い。」
圃戒仕と穆薀は腰を深く折り、圃韓の前を辞す。二人がくるりと背を向けて数歩。圃韓はその背に向け、思い出したように声をかけた。
「そうだ、穆薀。すまぬ、今度喋工励を訪ねるんじゃが、贈物に何がいいだろうか。疲れているだろうが、少し相談したい。」
と、穆薀を呼び止めた。
圃戒仕は部屋を出て行き、穆薀が残って眼前に膝を折る。残った二人は、しばらく喋工励への贈答品のことを話していたが、十分ほど過ぎて圃戒仕が完全に遠ざかったのを確認すると、穆薀は、
「確かに珍味もよろしいが、やはり喋龍牙といえば酒好きで知られる御方。良いのが有りますが、あまり人に教えたくなくて」
と、すす、と座に近寄った。左目を覆う金糸の眼帯が、ギラリと光る。
「ほうほう。秘酒か。お前はまったく、酒仙の如くそっちの方向に詳しいのう。どの酒じゃい。」
圃韓もまた大椅子に腰を浮かし、耳を穆薀の口に寄せた。
(圃戒仕様の言うことは真にございます。)
声のない会話が、顔を寄せた主従の間で始まった。
(美獣様は本当に、戦が終わったあと八千の兵力を囿治果にとどめ置いたのか。)
(左様。そして啓殉覚様も、巴雷丹邦冤様も、自軍を預けたのは美獣公子へのおもねりでしょう。圃戒仕様と同じです。さして深い意味はございません。ですが、問題は公子殿本人。)
圃韓の尻の下、大椅子は石製でこの夏の朝に涼しげだ。側面には昇龍が彫られ、その角に捕まっている武人の姿もまた、精巧に象られている。
(そうだな。公子の考えが分からぬ。)
(七月になさった献金発議も気になります。なぜ州王に秘して行なったのか。)
(あれも。な。)
誰も聞き耳を立てている者はない。だのに圃韓はその口を穆薀の耳へ更に近づけて、その皺だらけの口をすぼめ、小さく、熱く言葉を吐いた。
(諜者を放て。)
(御意。)
穆薀は即答した。その厚い唇がめくれ、白い歯がのぞく。
(私が、契冬蹊をすぐ動かします。)
(大丈夫かと思うが、くれぐれも圃戒仕に悟られぬようにな。)
圃韓の指示に、穆薀の大きな一重の右眼が見開かれた。
(それは大丈夫ですが。奥方を、圃勒春様を、啻万麓にお呼びしてはどうでしょうか。今の圃戒仕様は、ちと、危のうございます。)
(そう、確かに危うい。すまぬ。任せる。)
穆薀は部屋を出る。
「咽諄醸 ―。」
8月15日。啻万麓の龍眼府は、夏日にジリジリと焼かれ、庁内に暑気が籠っていた。長廊下で、穆薀が若い男を呼び止め、小書庫に引き入れた。
窓の外に聳える啻山が、その山頂に旭日を浴びて煌めき、州都のすべてを睥睨している。