第弐話
因州囿治果城の郊外、茫漠と広がる黄土平原。
美獣、美佑聯の閲兵が終わり、今日の調練は解散となった。
「吼了欽。御苦労でした。」
忞番対と一緒に圃戒仕隊四十人の無事を確認している吼了欽の右肩を、一人の武人が叩いた。
「あっ。これは、困士甜様。」
吼了欽が振り向けば、そこに女武者が立っていた。
「お疲れ様。」
「恐れ入りますっ。しかし今日はお隣に陣取らせて頂きましたが、我が隊に粗相はありませんでしたか。何分私は、まだこの人数の隊を率いたことがないものですから。」
女にしてはかなり大柄な170cmを超える伸びやかな体躯に、背に大刀を負って、白色の総鎧を纏い、白い兜は取り外して小脇に抱え、四角い顔に張った鰓を晒しながら、そのよく光る小さな一重眼で吼了欽の顔を覗き込んでくる。
「そんな、粗相どころか。あなた、穆薀殿不在の隊を良く統率してたわよ。」
「本当ですか!」
姓は困、名は士甜。ここ数年、急速に武功を積んでいる美獣直属の女将軍である。仇名の「方鬼娘」は穣界東部で知らぬ者なし、そんな高名な武将に褒められて、吼了欽も嬉しくない筈はない。
「私は嘘をつかないわよ。囮丘で任されてたのは数人でしょ、なのに今日はこの人数。大したものよ。」
吼了欽が落ち着かなげに兜の鉢を触っていると、ぽん、と今度は背中を叩かれた。
「よう。命の恩人。左肩は大丈夫か?」
磐周挿だった。
短躯ながらも逞しく、戦士らしい身体を青塗りの総鎧で包み、厳しく立っていた。しかしその細い眼は今、太い眉の下で優しげに吼了欽を見つめている。左の親指に包帯を厚く巻いている。
「これは磐周挿様、ありがとうございます。左肩については、斐醺様に囮丘で治療頂きまして、化膿せず、順調に回復してございます。それよりも、それ、左手の具合は如何で。」
吼了欽は磐周挿の左手を指差す。
「ふっ。俺は貴殿と違って左利きじゃないんでね。こいつが動かんでも戦で支障はないからな。」
そう言って磐周挿は、己が左親指の包帯をやはり、ぽん、と叩く。「動かんでも」という言葉が、吼了欽の腹に一瞬重く沈んだ。
しかし困士甜の張りのある声が、そんな空気を吹き飛ばした。
「貴方は囮丘で突出しすぎたわ。これからは、戦場では常に左手を見、囮丘での己が軽挙を思い出しなさい。」
「はっ。困将軍の仰せの通りですっ。」
「常に。自戒の意味で、ねっ」
困士甜が言い終わらぬ内。
ガアアアン
突如、金属音が鳴り響いた。
「嗷号っ!危ないでしょっ。」
咄嗟に、吼了欽は仰け反った。
仰け反ってあいた空間に後ろから何者かによる鉄槍が突き出されたが、困士甜が電光の如き速さで背中から引き抜いた大刀により、その槍先を受け止めた音だった。
「へっへへ。鼻の下伸ばして美童にお愛想か。広げるのはエラだけにしとけ、『方鬼娘』。」
吼了欽の目の前に、鉄槍と大刀の突端が交錯し、火花でも発しそうにギリギリ摩擦して、拮抗していた。
「お行儀良くしなさいよ。あんたぐらいの武勇は、因州には腐る程居るんだからね。そんな態度だとそろそろ首を切られるわよ。」
「忠告ありがとよ。」
吼了欽が振り向かずとも、背後に立つ槍の主は分かる。
姓は嗷、名は号。190cmを超える小山の如き大男で、三年前に反乱した圏辛韓に傭兵隊長として使われていたが、困士甜等に捕らえられ、以来、因州王府に仕えている武人である。
とはいえ吼了欽は一応振り向き、一礼した。
「手加減頂き恐縮です、嗷号様。初めまして、因州龍眼代圃戒仕の臣、吼了欽と申します。」
「手加減?あったり前だ、俺が本気なら、この鉄槍でお前なんぞ今頃串刺しだぜ。」
やはり巨漢だ。振り向いた吼了欽は嗷号を見上げる。猪首の上にあばた面が乗っかっていた。嗷号は鼻息を大きく吹き出してから、鉄槍を引っ込める。
引っ込めるが、大きな口を真っ赤に開け、減らず口は収まらない。
「しかし、こんな若輩の痩せっぽちに命を救われた奴がいるんだってなあ。」
胴間声を響かせ、ギョロリと見下す。
「なにぃ」
見下した先は磐周挿である。しかし彼も猛犬の唸るが如く、嗷号に対して歯を剥き出した。
「投網でガマガエルみたいにとっ捕まった野盗崩れに言われたくないぜ。」
「矮小な餓鬼め。」
磐周挿が佩刀の柄に手をかけると、嗷号も一度引いた鉄槍を再び構え直す。
そこに、
「止めろっ。退け、退け、両人。」
と、騎馬のままで寄ってきた者がいた。
「ぬっ、都相代。」
「喋織様。」
二人はその人の姿を見て、はっ、と刀槍を引いた。
騎馬の男の姓は喋、名は織。因州の名族、喋家の嫡男であり、圃戒仕の妻勒春の兄でもある。齢44、因州都相代の職にあり、白髪混じりの頭髪を長く背中に垂らし、武骨な顔は精悍に日焼けしているが、パッチリした二重眼は至極穏やかである。
喋織は、嗷号と磐周挿の間に馬を乗り入れると、
「そうそう。そうだ。頭に登った血を下せよ、ご両人。」
と二人を宥めた。二人もまた、さすがにこの人物の前では大人しくせざるを得ない。
「喋家の若頭領に言われちゃあ、この嗷号も槍を引きまさあ。おい、磐周挿、もう投網のことは言うんじゃねえぞ。」
「ははは。嗷号も磐周挿のことを金輪際、からかうんじゃないぞ。なあ、困士甜。」
言われて困士甜も頷いた。
吼了欽が喋織を見たのは初めてだが、さすが州王家に歴代仕える武門の跡取り、その度量の大きさは吼了欽のような若者にも分かる。陪臣如きが名乗り出るのも憚られ、圃勒春の話題も出せぬまま、喋織は馬首を返した。
やがて皆、その場から去り行く。
彼らの背中に丁寧に挨拶をしながら、吼了欽は思う。
(他州のことはよく分からんが、これ程名将が揃っているのは因州くらいなのではないか。今の四人の他にも、啓潔様や巴雷丹邦冤様などの部将、嚇凛様のような謀士、王族には美獣様の他にも美佑聯様や美萊峩様などのご兄弟もいる。さらに)
そう言って、吼了欽は曠野に目を走らせる。
(斐醺様も、おる。)
薄桃の旗幟。
300m向こうの右翼軍の中に、それは幾本も揺れている。
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美獣軍は全隊、囿治果城に引き揚げた。
吼了欽も同様に帰還し、己れの宿舎に帰宅する。
「ふうう。」
早く寝台に横たわりたい。
日を遮る所のない夏の調練は、過酷で、身体は綿のように疲れている。
少し焦りながら、甲冑を脱ぐ。
そして懐からのぞく、臙脂の書簡。吼了欽は封も開けず、物憂げに書棚に投げ込んだ。いくつも寄った皺が、薄暗い部屋の中で影を作っているが、愛らしい字で、「愛する吼了欽様」という墨書がかろうじて読めた。