第壱話
夏の日差しが大地に照りつけ、黄土は乾ききっている。
因州囿治果の郊外に広がる、大平原。そこに銅鑼が一度叩かれ、余程大力の士が鳴らしたか、広大な荒野に響き渡った。
「圃戒仕隊、前進!」
吼了欽は金色の兜を煌めかせて、甲高い声を張る。そして同時に、四十人の隊列が魚鱗の陣形を保持したまま、一斉に歩を進める。
他の隊でも隊長格が同様に叫び、兵卒がザザッ、と動き出す。
こうした諸隊を合わせ、その数八千。
圃戒仕隊は左翼に配されているから、彼らの右手にずらりと居並ぶそれだけの大軍が、銅鑼の一声を合図に動いたのだ。まさに壮観、蹴たてられた黄塵がもうもうと舞い上がり、夏空を覆う。
(今日は四十人か。いつもは五人だからな、皆んな俺の命令を聞いてくれるだろうか。)
吼了欽は大馬の手綱から手を離し、己れの兜をまっすぐに直した。
彼の兜は、戦場でも目立つ。
金色に塗った鉢形もそうだが、刀剣を象った八本の前立てが放射状に取り付けられているのだ。四日前の囮丘戦でもその活躍が注目されたが、「金八光」と渾名されるこの兜のおかげで、彼は周囲から認識されたと言っていい。
しかしそれは裏腹だ。いま失態を犯せば、この調練の場で彼の恥は瞬く間に知れ渡ってしまう。
(あってはならないことだ。)
吼了欽は、薄桃の旗幟を探した。
他の五十人中隊を十個程挟んだはるか向こうに、その旗は林立している。「斐」と墨書され、整然と前進していた。
しばし、全軍が前進してから、
ジャーン、ジャーン
と、今度は二回鳴らされた。
「困隊、後退ぃぃ」
即座に、左隣りの隊が反応した。緊張感に満ちた隊長の鋭い一声のもと、二百人程の大隊が滑らかに反転する。
旗幟に「困」の文字。
(ぬぐ。さすが困士甜様、動きが速い。)
だが負けてられぬ。
危うく飲み込みかけた号令を、押し出すように、発する。
「圃戒仕隊、後退っ!」
その絶叫に、圃戒仕隊も一斉に転回。困士甜隊にも殆ど遅れず、後退を開始する。そして一瞬間をおいて、他隊も転回していった。
調練は続く。
中翼に鎮座した因州公子・美獣の陣から、打ち方様々に、銅鑼が響き続けた。
展開。集結。他隊との合流・散開。左翼・右翼時差進軍。
諸隊に課せられる動きはどんどん複雑になっていく。
(右隣に立つか細い少年は、弟の斐色矜でなかろうか。左側、斐醺様よりも大きな大馬に騎乗する者は誰だ、髪が長く若い女に見えるが。)
しかし、吼了欽の指揮に支障なく、圃戒仕隊は円滑に動いていたから、彼の心には余裕があった。だから、薄桃の部隊 ― 斐醺隊 ― を凝視していられるのだ。
彼の耳は遺漏なく、銅鑼の声を待つ。
そして彼の眼は、かの斐醺を追う。
「おい、吼了欽。」
しかし、忞番対には気づかれた。大馬に跨る吼了欽を下から見上げ、徒士立ちの丸い身体を馬体に押し付けてくる。
「う。」
「集中力が切れたか。たぶん次は、両翼の一斉駆け違いだ。高等戦術だ。機を失すると、俺らも他隊も損傷するぞ。」
忞番対に言われて見回せば、平原の八千はいつか大きく左翼と右翼に分かれて向かいあっていた。互いに、色鮮やかな武者揃いを誇らしげに見せつけ合う。その間は400m。圃戒仕隊は左翼、吼了欽が気にして要る斐醺隊は右翼で、丁度対面の位置にいた。圃戒仕隊と左隣の困士甜隊との距離は40m程、右隣の磐周挿隊と10mほどである。
そんな観察をする吼了欽の横っ面をはたくが如く、
ジャーン、ジャッ、ジャッ、ジャーン
という長・短・短・長 の節で、銅鑼が鳴らされた。
「ほら」
と忞番対が言うのにかぶせるように、吼了欽はよく通る甲高い声で部隊に告げる。
「圃戒仕隊、右に10m移動っ」
隊は吼了欽の体の一部であるかのように、サッと右に動き、
「全速前進!」
という指示で、一気に駆け出した。
これには忞番対も驚いたが、もっと驚愕したのは困士甜を始めとする他隊である。速い。
「圃隊に遅れるなっ」
どこの隊長が喚いたか。とにかく皆、慌てて隊列を整え、早駆けの号令に従った。
吼了欽は蜂矢陣を形づくる圃戒仕隊の左後方に付け、大馬の上から、
「駆けろぉ!全速っ。」
と歩兵四十人を急かしに急かす。
両翼の諸隊は、それぞれ30mの等間隔をとり、吼了欽と同様に全速力で駆けた。左翼と右翼の距離はぐんぐん迫った。遠くからは、今にも正面衝突するように見えた。互いに、熱せられた砂塵を巻きあげ、二枚の黄色い壁が空中にもたれかかるが如く、見えもした。
両翼の足音が、次の瞬間、一つになった。
ドドドド
その時、全軍の耳が軍靴の足音に塞がれたろう。
各隊は両隣を駆け過ぎる他隊の轟音に包まれながら、黄色い砂塵を全身に浴び、正面からの軍隊と際どく交差していくのである。
互いが全速力で駆け違う。その間、ものの数秒。
(おお。おられる。)
その交差の刹那。
吼了欽は鞍上に伸び立ち、莞爾と笑って見せた。
左隣を疾走する、薄桃の旗幟を掲げた隊列。
その中の一人が気づいた。
馬上、純白の外套を翻し、折れそうに細い薄桃色の甲冑、同じく桜桃色の兜は夏の日差しを受けて目庇の下に影を作っているが、雪白の肌を裂く針のような眼は、驚きで見開かれた。
(こうりょうきん)
小さな紅い唇が、確かにそう動いた。
一瞬ののち、大地を蹴立てる震動は、再び二つに分かれた。左右両翼は、見事に交差し遂げたのである。いまかけ違った諸隊を振り向けば、互いに黒みがかった甲冑の背中をさらしていた。
全軍、惰性で走った後、銅鑼がジャーン、と長く鳴らされるを聞き、動きを止めた。調練の終了である。
見れば、両翼の間には400m程の間隙が、再び広がっていた。
吼了欽は己が鼓動を感じながら、薄桃色の部隊を再び、見つめる。
眞暦1806年8月14日。
夏空の下、広大な黄土平原に居並ぶ美獣軍八千。陽炎に包まれた精強なる軍勢は、さながら呪術師が出現させたかのように、浮世離れした勢威をみなぎらせている。
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因州