鏑木、パンティーで涙を拭く
トイレから出た楠木は、自分が座っていた席にたどり着くまでの間、すれ違う人、通り過ぎる人の冷たい視線にさらされていた。何人かは吹き出し、何人かは呆然と鏑木の姿を目で追う。みんな鏑木の頭……パンティーに視線を集めていた。鏑木がそのことに気付いたのは、自分の席に座ろうと、紫色のパンティーを被っていたはずの男に声をかけたときだった。
「すいません。通してもらって……」
紫色のパンティーを被っていたはずの男は目を丸くして、勢いよく席を立った。
「あっ、あなた、なにを……」
「えっ、えっ、あれっ、……」
一瞬店中が静まり返る。鏑木は一人、立ちすくみ店の中を見渡す。誰ひとりパンティーを被っているものはいない。いや、そもそも自分がさっきまで見ていた客はそこには一人もいない。マスターも店員も……そう季節外れのサンタクロースは、どことなく愛想の悪い、気の強そうなデニムにシックな黒いエプロン姿の女性に変わっていた。
「どうしちゃったのかな。俺、はは、はははぁ……」
どうにもできない場面というのはある。
中学生の時、母親に自慰行為を見られたとき、「ノックぐらいしろよ!」と叫んだ。
意中のクラスメイトの女の子に声をかけられてと思って「何?」と聞いたら、自分ではなく、その後ろにいたほかのクラスのモテモテ男子に声をかけたのを勘違いしたとわかったとき。
鏑木は死にそうに恥ずかしい体験をすると走馬灯のように過去の恥ずかしいことが思い出されるという現象を体験し、なるほど脳は、過去の恥ずかしい記憶を掘り出し「ほら、今回はまだ、あのときに比べればましだろう」と思い込ませようとするのだと知った。そして今回の体験が、今まで生きていた中で鏑木史上ナンバーワンだと認めざるを得なかった。
「酔いすぎました。かっ、帰ります。お会計を!」
アルコールを一滴も飲んでいないということを誰かに突っ込まれる前に店を出ないとさらに恥を上塗りすることになると鏑木は慌てて財布から一万円札を取り出しながら叫んだ。
「お会計なら、先ほどお連れの方が済ませて……、もう先に出て行かれましたよ」
「はっ、はぁ?」
自分が座っていた席の正面、そこにもあったはずのものがなかった。永田のMR-1はどこにもない。いや、あるべきものではない。最初からあるはずのないものだ。いや、じゃあ、いったい誰が会計をしたんだ。
「そ、そうですか。失礼しました!」
店の中から笑い声が聞こえる。地上に上がる階段を勢いよく駆け上がる。何が何だかわからない。
「もう、なんなんだよ。どうなっているんだよ」
表に出て愕然とする。そこは自分が歩いてきた道とは全く様子が違っていた。延々と続くような細い路地ではなく、大通りに面した雑居ビルで、2階から上は、美容院とオフィスになっている。右手を見ると、立読みをしていた本屋が見える。ほんの50メートルも離れてはいなかった。しかし――
鏑木の右手にはしっかりと黒のレースのパンティーが握られていた。少し汗ばんでいた。胸のポケットからメモ帳を出す。確かにそこには物語のネタがぎっしりと10ページほど書いてあるがその最後のページに見慣れない、しかし懐かしい文字を見つけた。
死んでからも 本は出る
それは師匠の口癖だった。
「死んでからも本は出る。だから手を抜くな。気を抜くな」
鏑木の目から、涙がこぼれた。
鏑木はその涙をそっと黒のレースのパンティーでふき取った。
街は夕暮れて、家路を急ぐ人波の中で楠木はパンティーを握りしめながら肩を震わせていた。
終わり