鏑木、パンティーを被る
パンツを被る男 4
「こうやって、被るんですよ」
漫画のように両肩を吊り上げて鏑木は驚き、声がした方向に顔を向けながら、半身をそらして距離をとる。
「別に作法はないんですけどね。まずはこれが基本形です」
隣の男はにやにや笑いながらやはりパンティーを被っている。
「い、いつの間に……」
「僕はまだ初心者なもので、人によっては斜めにしたり、前後ろを逆にしたり。ほら、帽子と同じですよ。あれもそうやって、いろいろやるでしょう。若い人たちは」
隣の男は紫色のレースのパンティーの本来お尻を覆い隠す部分が後頭部にくるように被っていた。天パー気味のちじれた髪の毛の中にパンティーの横、つまり腰紐のあたりは細く伸びて隠れている。深くもなく浅くもなく、帽子を軽く被るような「着こなし」で、隣の男はパンティーを被っていた。
「ぼ、僕もそんなに若くないですから、まぁ、普通に被ればいいんですかね」
なるほど他の観客のかぶり方を見てみると、ただ被っているだけではなく、トータルコーディネイトがされていたり、着崩してアクセントになっていたりしているのがわかる。自分の視野の狭さを少し疎ましく思いながらも、そんなことを知ってどうすると開き直りもする。
「初心者にはね、こういうレースのパンティー、それも黒や紫といった暗い色が最適ですよ。ほら、思い切って被ってごらんなさいな。世界がかわりますよ」
鏑木にはぴんと来なかった。なぜこれが初心者向けなのか。そこで聴いてみることにした。
「どうして黒なんです? 白とかベージュとか、そういうほうがスタンダードな気がするんですが」
隣の男はニヤニヤしながら答えた。
「そうでしょう。私も最初、そう思ったんですよ。でも、実際はそうじゃないんです。ほら、なんというか、履くと被るでは違うんですよ」
隣の男が言っていることはわかる。わかるが納得はいかなかった。
「本来、下着は人に見せるものではありません。それを見せるというのは、まぁ、いろいろ状況が特別なわけですよ。ほら、よく言うじゃないですか。勝負下着って。だからパンティーを被る場合はですね――」
隣の男の話は、こうである。つまり、見せることを前提に作られたパンティーのほうがむしろ抵抗なく被ることができる。逆に一般的な下着らしい下着というのは、見せるために作られたものではないだけに、コーディネートが難しいというのだ。確かに会場を見渡すと、どちらかというと鏑木が知る一般的なパンティーよりも、派手だったり、可愛らかったりするデザインのものが多い。
そこにミニスカサンタの彼女が現れ、注文を聞く。
「何かご注文はございますか? いろんな素材、色、形を用意してございます」
彼女が見せてくれたのは食べ物や飲み物のメニューではなくパンティーのカタログだった。
「私のお勧めは……これかな?」
ミニスカサンタは、お尻を鏑木につきだし、スカートをめくって見せた。赤いふわふわのフェルトのような生地のスカートの端は白の生地で縁取りがされている。そのスカートの中にしっかりとした健康的な太もものはるか上、赤色の毛糸のパンツが姿を現した。そこに『メリークリスマス』と白い毛糸で文字が描かれていることに気付けたのは、奇跡といっていいかもしれない。字が読み取れないほどにミニスカサンタのお尻は激しく左右に揺れていた。
「いえーい!メリークリスマス!」
「だんだん、まじめに考えるのが、バカバカしくなってきたぞ……」
鏑木は、小言を言いながら、もう流れに任せるしかないと観念した。
「被ると……その……パンティーを被ると世界が変わりますか?」
紫色のパンティーの男は自信満々に答えた。
「えぇ! 変わりますとも! そりゃぁ、もう、劇的に、衝撃的に変わりますとも! 僕はこれのおかげで初めて彼女ができたんですから!」
「そ、それはどうも、おめでとうございます」
鏑木は余計なことを聞いてしまったと後悔した。前に友達に付き合わされた自己啓発セミナーのことが一瞬、脳裏に浮かび、あれこれ比較しようと試みたが、脳がそれを拒否した。
被ってみたい。
今、ここで、被るだけなら。
手が震えたりはしない。心が乱れたりもしない。ただそこにパンティーがあるから、それを頭にかぶるだけなのだ。ひとつ大きな呼吸をし、まるで武道でも始めるのかという身を正した状態でゆっくりとパンティーを手に取った。その手には女性ものの下着が握られているのに、武具を装着しようとしている戦士のように不要な凛々しさが鏑木の表情に表れていた。隣の男が固唾を飲む。
「おーっ!」
隣の男が声を上げる。その瞬間、会場の全員が鏑木に対して拍手を送るが、鏑木の耳にはその三分の一も耳には入っていなかった。
被った。ついに、俺は、パンティーを――被った。
帽子とは違う。水泳のキャップとも違う。履き心地ならぬ被り心地――これをあえて言語化するならば、天使に頭を掴まれたような感覚――であろうか。頭を軽く締め付ける何かが頭の上にあるが、何かが乗っかっているという存在感が極めて稀薄なのだ。キャップであれば頭皮を何かが覆うという感覚があるのだが、当然にパンティーには大きな穴――両足を通す穴が開いているわけで、帽子よりも圧倒的な開放感があるのである。「天使に掴まれる」とは、つまりそうした隙間があることで、軽く頭を掴まれているという表現になる。そしてもうひとつ付け加えるべき感覚がある。これはパンティーを被ったことにより得られた被ったもの同士の共感である――運動会――いわばパンティーはクラス分けのようなもので、黒なのか紫なのかピンクなのか白なのか。どうりで自分は乗り切れなかったわけだ。運動会は参加してこそわくわくするものだ。今、自分は晴れて「黒パンティー組」になった。
パンティーを被ることについてあれこれ考えているうちに鏑木の脳裏に最初にステージに立った思いのほかさえない男の歌声が蘇ってきた。
そして、ついに 俺は 春を見つけた
俺は 俺は ついに であった
俺の春 俺の春
黒い花園
春よ、こい!
黒い花園
春よ、こい!
「あっ!」
鏑木は思わず声を上げた。そして心の中で叫んだ。
頭の中に次から次へと言葉があふれてくる。そしてそれらの言葉はやがて一つの大きなうねりとなって物語を紡ぎだす。
タイトル『黒い花園』
さえない中年男が偶然知り合ったマジシャンに招待されライブイベントを訪れる。そこで出会ったパンクバンドの女性ヴォーカルに心を惹かれる。生涯に買ったCDが、昔人気のあったお笑いコンビの企画物のCDと好きだったアニメの劇場版サウンドトラックしかない男が、女性ヴォーカルとの出会いをきっかけにインディーズレーベルを立ち上げ、メジャーデビューを目指すアーチストを育てていくサクセスストーリーと中年男とインディーズ女性ヴォーカルの淡くせつないラブストーリー。若者の貧困、芸能界の表裏、結婚できない中年男の悲哀、年齢差の恋愛……、個性的な登場人物が不器用ながらも懸命に生きる様を描いた社会派エンターテイメント。
鏑木は胸のポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、何かに取りつかれたかのようにボールペンを走らせ、ページを埋めていく。ものの5分もたたないうちにびっしりと10ページほどの文章を完成させた。それは物語のアイデアやプロットといったもので、他人が読んでも何の事だかわからないような記号と文節の塊だった。
これだ! この感覚だ! 何かを書くときっていうのは、何かを書くときっていうのは……
「おや、何ですそれ?」
悦に浸る鏑木に水を差すかのように紫のパンティーを被った男が聞いてきた。
「あ、僕は実は物書きを生業としていまして、今、不意にアイデアが浮かんだものですから――」
「おー! そうですか! きっと素敵なお話が書けますとも。パンティーの力は偉大です」
「はぁ……」
もしも隣の男に声を掛けられていなかったら、鏑木はさらに数ページ書き足しそうな勢いだったが、おかげで少し冷静さを取り戻した。
「なんといいましたっけ? そうそう、潜在能力。こいつを被るとその人が持っている潜在能力を引き出してくれるんです。そう思いませんか?」
「潜在能力ですか?」
「あれ、違いましたっけ? すいません。私には学がないもので――」
「いえ、いえ、そんなことはないですよ。潜在能力であっていますよ。隠れたというか隠された能力ですよね」
「おー、さすが物書きの人は博識だ」
パンツを被った楠木は、それでも冷静に状況を分析することに努めた――こんな会話ははやく幕を引きたい。しかし問題はそんなことではなく、このパンティーだ。被ったのはいい。効果は驚くほどにばつぐんだ。自分もすっかり店の雰囲気になじんでしまって、最高の気分だ。だが、ずっとこのままではいられない――自分が今どう人から見えるのかが急に気になってきた。
「いったいぜんたい。いつ脱げばいいんだ?」
別に店の中の全員がパンティーを被っているわけではない。たとえばマスターをはじめ、店員は一人もパンティーを被っていない。客の中にも何人かはパンティーを被っていないように見える。
しかしどこかに隠し持っているのか、或いは、パッと見た目にはわからないが、まるでアクセサリーのようにどこかに身に着けている客もいる。ただ、酒によって陽気なだけというわけではなさそうだった。ショーが始まるまでは、どこかパッとしないのは客も演者も一緒である。
すべてはパンティーを被るという行為に秘密があるのだと楠木は思った。
だが、一歩外に出れば、彼らがパンティーを被ったままでいることはないように思えた。これはここだけのお忍びのパンティーパーティーなのか?
そもそも自分は何をしにここに来たのか?
そう永田さんと思しき人の後を追ってここまで来たのだ。そして、自分の目の前には永田らしき人物のジャケットが椅子に掛けてある。何もかもがでたらめだった。
「すいません。ちょっとトイレに行かせてください」
鏑木は、ともかくいったんこのバカ騒ぎから抜け出さなければと思い、いや、そうでなくとも普通にトイレに行きたくなって、席を立った。
「あー、どうぞ、どうぞ」
席を立ちあがった鏑木の視界にはパンティーを被った客たちの滑稽な姿が映った。どうしようもなくおかしくなり、それでも顔に表情を何一つ浮かべないように笑った。
トイレに入り、用を済ませる。手を洗い、顔を上げると、そこには黒のレースのパンティーを被った自分の姿が映っていた。少し、左に曲がっていた。
「こんな格好でも身だしなみは整えないといけないな」
鏑木はパンティーの位置を正面に正し、トイレを出た。入れ替わりに一人の男性がトイレに入ってきた。その男はパンティーを被ってはいない。鏑木は一瞬意外に思ったが、気にせずにトイレを出た。
鏑木は気づかなかった。
すれ違った男が目を丸くして鏑木の後ろ姿……いや、パンティーを被った姿をまじまじと見ていたことを。