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鏑木、パンティーを手に入れる

パンツを被る男 3



 思いのほかさえない男が現れた。拍手もまばらで、歓声などはあがらない。オープニングアクトであれば、まぁ、こんなものなのかとも思うが、しかし、この店の趣向は今一つ合点がいかない。思いのほかさえない男は、ジーパンにオレンジ色のTシャツ。やや小太りで丸顔。いや、それよりも何よりも普通のおっさんである。フォークギターをかかえ、ぼそぼそとマイクに向かって何かを話し始めたが、しょせんマイクに向かって話しかけているのであって、観客の中の誰一人として耳を傾けているものはいない。


「……それでは聞いてください。春よこい」

 ぼそぼそとしたMCの後に歌いだしたそれは、まったくもって心に響くものはなく、素人に毛が生えた程度の演奏、歌唱力、楽曲だった。どこにでもありそうなメロディーに、どこにでもありそうな歌詞をのせ、どこにでもいそうなおっさんが、普通に歌っているだけだった。


 歌詞の内容はこうだ。ずっといいことのない主人公が早く春は来ないかと願うも、どこにも春は見当たらないというもので、はたして何が面白くて歌っているのか、何が悲しくてこんな他愛もない歌を聞かされるのか、悲しくなってくるほどだった。


「……そして、ついに 俺は 春を見つけた」


「なんだ、この間延びしたブレイク。妙にためるなぁ。ついに春を見つけた。それでどうなった?」と心の中で突っ込みを入れながら「一曲くらいはちゃんと聴いてやるか」と思っていた鏑木の忍耐があっという間に限界に達したとき、それは起きた。

 思いのほかさえない男は、ポケットから何やら布のようなものを取り出した。

 最初それはハンカチか何かだと鏑木は思った。しかし、思いのほかさえない男は『それ』を額の汗を拭くことには使わず、両手でしっかりと『それ』を広げ、あろうことか頭からかぶったのである。『それ』が女物のパンティーであることを鏑木が認識したのは、一瞬後のことである。思いのほかさえない男は、パンティーを被るや否や、強烈にギターをかき鳴らし、それまでとは比べ物にならないような迫力のある演奏を始めた。


「あれはパンティーですか?」という鏑木の質問に隣の男が耳元でささやくように答える。

「黒のパンティーは、内に秘めた情念みたいなものが感じられますよね」

「はぁ、はぁー」

鏑木は「そこじゃないだろう!」と突っ込みたくなったが、あまりに真剣な表情でその男がパンティーについて語るので、生返事をするしかできなかった。ステージ上では思いのほかさえなかった男が、すっかり人が変わってしまったかのように熱い演奏をしている。


「おれは おれは ついに であった~ 俺の春 俺の春」


 楠木は考えた――いや、騙されるな。なんらセンスが上がったわけでも、演奏がよくなったわけでもない。実際楽曲は単調なコード進行の繰り返しだし、メロディーもほとんど一本調子で見るべくものも、聞くべきものもない。それなのにこの圧倒的な存在感――すべてはあの黒いパンティーの影響であることは明白であった。

観客が思いのほかさえなかった男の演奏に耳を傾け、リズムをとり、体を揺らした。会場が一体感に包まれていく。鏑木はそれを肌で感じ、怖いとさえ思いつぶやいた。

「すごいことになっているなぁ。いったいどこまでテンションあがるんだ」


 思いのほかさえなかった男はその勢いで3曲ほど続け、盛況のままステージを降りた。降り際にMCで妙なことを言っていた。

「まだ黒しか挑戦していませんが、これからはもっといろんなパンティーに挑戦してみようと思います。ありがとうございました!」

 観客から温かい拍手が送られる。まったく意味が分からなかった。


 舞台袖から思いのほかさえなかった男と入れ替わるように二人組の男が現れた。ノッポとノッポである。見るからに売れない芸人というキャラの彼らは、やはりどうやら本当に売れない芸人のようだった。

 一昔、いや、二昔前でも通用しないような笑いのセンスのネタで、会場も失笑しか聞こえてこない。しかし、会場は確実に何かを期待していた。

 鏑木には客が何を期待しているのかは、およそ察しが付いていた。この二人がどのタイミングでパンティーを被るのか。コントとも漫才ともいえない中途半端なネタと演技力は見るにも聞くにも堪えない酷い出し物だったが、どうやら右のノッポがツッコミで左のノッポがボケであることはわかった。


 しかし、ネタと演技がつまらなければつまらないほど妙な期待感がある。観客も関心はその一点に集中しているようだった。そしてついにその瞬間はきた。


「……なんでやねん!」

 右のツッコミノッポが激しくど突く。左のボケノッポがわざとらしく倒れこむとカツラが取れる。スキンヘッドに水玉のパンツが被せてある。会場がどっとわく。ボケノッポが立ち上がり両手をめいっぱい上に広げて、人気少年漫画の元気玉を集めるようなポーズをとる。その後ろに右のツッコミノッポが隠れ、イチゴの柄のパンツを被って登場する。もちろん水玉ノッポは手を伸ばした体勢からしゃがんでいる。それを交互に繰り返す。見た目に派手だが、まったく芸がない。芸がないが腹の底から笑いがこみあげてくる。5分もしないうちに鏑木は目から涙を流して声もかすれるほどに笑いころげていた。


 時々、右のノッポと左のノッポはお互いのパンツを交換し合った。それはサッカーでいうところのユニフォームの交換のような様相だったが、お互いのパンティーを被った後、右のツッコミノッポは左に、左のボケノッポは右に移動し、それぞれボケとツッコミの役割を交代した。つまり、パンティーにこそ人格があり、被るパンティーによって属性が変わるということらしい。しかしそんな理屈はどうでもよかった。ただただ、男二人がパンティーを被っている姿が面白いのである。


 次に現れたのは見るからにパンクバンドである。もうその時点でネタはバレバレだった。

「ぱ、パンツバンドか……あきれて、つっこむ気にもなれん」

 もっともコミックバンドではなかったので突っ込みどころはまるでなかった。彼らの演奏は激しく心揺さぶられるものだった。彼らのパンツはスケスケのレースのパンツで、整髪料で固められたとがったトゲトケのパンキッシュな髪形に対してまるで最先端のファッションのようだった。明らかにパロディと思われる「穴あき淫乱PT」はパンツの穴から見える世界、外側からではなく内側という視点は斬新で鏑木の創作意欲を少なからずくすぐった。


 そのあともパンツブルース、パンツ手品師、パンツダンスと、様々なパンティーを被った老若男女が現れては会場を沸かせた。一人15分から20分くらいの持ち時間で繰り広げられるパンツ芸で、会場はすっかり興奮のるつぼと化していた。


 しかし、どうしても鏑木は他の客のように盛り上がることができないでいた。

 鏑木の目の前には、一枚のパンティーが置いてある。先ほどパンティーを被った手品師が、パンティーの中から小さな黒いシルクハットを被った白い鳩を出し、その鳩が鏑木の肩に止まった。するとパンティーを被った手品師は「お客様には特別な力があると、その鳩は申しております」と、鏑木に協力を求めた。

 パンティーを被ったマジシャンは鏑木の肩に泊まった鳩の頭をどこからか取り出した「魔法の杖」で軽くつつくと、シルクハットは何か布切れのようなものに変わった。パンティーを被ったマジシャンは鏑木にその布切れをはずすように指示をした。それは手のひらに乗る程度の小さな黒いレースの生地だったが、それを今度は手の中に握りこむようにと指示された。

「私からのささやかなプレゼントでございます」

 パンティーを被ったマジシャンは得意げに鏑木の右手であげて観客に見せた。

「お客様のイメージがこの手の中で実体化します。さん、にー、いち、で手を開いてテーブルの上に手の中のものを落としてください。さー、みなさん、ご一緒に!」


「さん、にー、いち!」

 鏑木が手を開くとさっきよりは少し大きめの布の塊が落ちてきた。見た目の大きさに対して質量がないのか、ふわっとテーブルの上に落ちた。パンティーを被ったマジシャンがそれを拾い上げる。予想はしていたが、黒いレースのパンティーがそこにはあった。

 会場は盛り上がったが、鏑木には迷惑この上なかった。


 それは見事な黒のレースのパンティーだった。こんなものを持って町をふらふらしているところを職務質問などされたら、間違いなく下着泥棒と間違えられるだろう。しかし、ここでは違う。パンティーを被っていない自分のほうが、むしろ異常なのかもしれない。被れと言われればやれないことはない。所詮パンティーはパンティーである。何も使用済みのものを被ろうというのではない。面白おかしなマスクを被るのとさほど変わりはしない。


 それにしてもと鏑木は思った。女性と付き合ったことがないわけでもない。だから下着をまるで触ったことがないということはないが、こうやって真正面から眺めるというのもなかなかない話である。男性の下着と違い結構複雑なつくりをしているものだと純粋な興味もわいてきた。そして気がつくと鏑木はそれを手にとって眺めていた。



 朱に交われば赤くなる。パンツを……これを被れば、もっとハイになれるのかもしれない。


 鏑木にはことわざの使い方が正しくないと気づくだけの余裕はあったが、一人だけパーティーに場違いな格好で来てしまったようなこの状況をどうにかできないかとあせり始めていた。

 目の前にパンティーがある。「ささやかなプレゼント」と差し出されたもので、それをどうしようが――つまり、ポケットにしまおうが、履こうが、被ろうが鏑木の自由である。むしろテーブルに放置したままのほうが、この場のテーブルマナーに反しているような気まずさがある。だからと言って、なぜ自分がそんなことをしなければならないのか。いや、そういう体裁を理由に本当は被ってみたい衝動を抑える言い訳にしているだけなのか。自分でもわからなかった。


 仕方がないので鏑木はパンティーを被るかどうかの是非よりもパンティーそのものについて考えた。


 目の前にある物体はなんだ――パンティーだ。黒のレース、ひらひらがついている。

 それは何をするものだ――下着だ。女性のデリケートな部分を覆い、外敵から身を守る最後の砦であり、男を誘い込む最終兵器でもあると聞いている。 

 大きさは――わからない。これが大きいものなのか小さいものなのか。デザインから子供用でないことは間違いないが、正直、どういう構造になっているのかわからない。

 パンティーは被ってはいけないものなのか――用途としては間違っている。パンティーは履くものであって、被るものでも、変身に使うアイテムでもない。

 では、なぜ、他の客は被っているのか――そういうイベントなのだろうとは思う。仮装パーティーの一種なのかもしれない。

 なぜ、自分は被らないのか――それはこれが下着であり、パンティーであるからに他ならない。

 でも、これを被ると何かが変わるらしい――ただの優男が、ただの変態優男に変わるだけだ。接頭語が変わって能力が変わるのはゲームの世界の話だ。

 それは本当にパンティーなのか――見た目はそうだが、正直自身はない。手にとって広げてみれば、いろいろわかりそうだが。

 では、とりあえず手にとってよく見てみてはどうか――俺の何かがささやいている。これはヤバイものだと。

 怖いのか――饅頭じゃあるまいし。しかし「パンティーが怖い」といって天井から降ってきたら、それはそれで怖いかもしれない。

 パンティーだと思うからいけないのではないか――下着だと思うから躊躇する。ヘアバンドだと思えば、そう、勘違いして、知らずに手に取ったというのなら


 鏑木はゆっくりと目の前のパンティーらしきものに右手を伸ばし、それを掴んだ。拍子抜けするほど何の感覚もない。すばやく手元に引き寄せ、両手でしっかりと掴む。手の中で1回点半させて、ようやくパンティーを正面から見据えることができた。軽い。そしてやわらかく、肌触りのいい。男性ものの下着とは、設計思想がまるで違っている。鏑木の脳内ではパンティーに足りないパーツ――すらりと伸びた白く、肉付きのいい足と上のほうできゅっとしまったウエストの真ん中に図面の中心点を表すかのような丸く小さなへそ。妄想が暴走する前に、鏑木はある問題に気づいた。


 被るときは、どっちが前なんだ?


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