鏑木、町に出る
パンツを被る男 1
鏑木陽一は、かつて大手出版社の新人賞を受賞した男である。それなりに話題にもなったし、出版された3作はそこそこに売れた。しかし、その後は鳴かず飛ばず。彼の中で「書きたい」と思うようなテーマを見つけられなくなっていた。依頼されるがまま、言われるがままに「書きたくもないもの」をこなしていくうちに、彼はすっかり書くことができなくなってしまった。
とはいえ、食っていくためにはやはり、書くしかない。彼はゲームソフトのシナリオやアダルト向けPCゲームのシナリオを書くことでなんとか食いつないできた。そんな生活が10年も続いたころ、彼はほとほと仕事に困る状況になった。
「なんか仕事ないっすかねぇ。坂本さん」
都内某所の喫茶店。チェーン店以外の店に入るのは何年ぶりかとか、昔ながらのいい雰囲気の店だとか、ありふれた世間話と挨拶をすませ、話を切ることなく鏑木は本題に入った。
「う~ん。あることはあるんだが、ほとんど金にならんぞ」
鏑木がジーンズにTシャツ、その上に麻のジャケットを引っ掛けているカジュアルな格好に対して、坂本は上下紺のスーツ、ネクタイはしていないが、しわのないパリッとしたワイシャツの袖からのぞく濃い体毛に覆われた太い手には、それに似つかわしい大きめな腕時計がしてある。バリバリのサラリーマンというよりは、頼れる中間管理職という風体である。
「なんでもいいとは言いませんが、でもこの際、金がいただけるなら……」
遠慮のない口調で鏑木は坂本に頼み込んだ。坂本は制作会社の営業部長だ。テレビ・雑誌・インターネットサービス・ゲームソフトと様々な分野の仕事を請け負っている。数年前、携帯電話のゲームコンテンツ制作を機に知り合って以来、何度かこのような形で仕事を紹介してもらったことがあるが、付き合いはもっと古く、鏑木かかつて勤めていた会社の得意先の担当が坂本だった。
「それこそ日雇いのアルバイトのほうが2倍は稼げると思うけどなぁ」
坂本は難色を示した。
「そんなに高いんですか?」
特に思慮することもなく鏑木は聞き返したが、坂本が意外そうな顔をして鏑木を見ていたので、言葉を足した。
「いや、その……最近の日雇いのアルバイトって、そんなに給料いいのかなぁって」
坂本が腕組みをしながら答えた。
「君も世間知らずだなぁ。逆だよ。最近こっちの業界は羽振りが悪くてね。エロゲーのシナリオなんて二束三文さ。これまではなんとか歩合のいい仕事を回せていたけどさぁ。なかなか難しいんだよ。こっちの業界は」
鏑木は意外ではなかったが、そこまでひどいとは思っていなかった。
「それよりどうだい? 久しぶりにしっかりとした作品でも書いてみないかい?」
「作品……小説ですかぁ……」
「最近は電子書籍とかブームでさ。まぁ、そういうネタを欲しがっているところもあるし、まるっきり新人よりは名前のある人が、そういうものを手掛けたほうが、いろいろとうまくいくこともあるわけだし」
「もう、10年も前のことです。いや、実は僕自身、自分で小説を書いたって意識、全然ないんですよ。あのころは見よう見まねで師匠にどやされながら書いていましたからね」
鏑木はコーヒーを口にしながら、当時のことを思い出していた。
「君の師匠……永田さんだっけ?」
「えぇ、もう5年になります。あの人が亡くなって」
永田雄介。鏑木が最初務めた小さな制作会社の上司で、鏑木に物書きとしてのノウハウを一から叩き込んだいわば恩師である。永田は鏑木の才能を発掘し、ゲーム雑誌のコラムやゲームのシナリオの仕事をやりながら、あるキャラクターを使った2次著作の小説を書かせたのである。それが鏑木の出世作となった。
「病気だったんだっけ? 彼」
坂本も永田とは何度か顔を合わせたことがあった。
「肝臓をやられたらしいです。僕も亡くなったことを知らされるまで、だいぶ時間があいちゃいましたから」
その制作会社とは待遇をめぐり、経営者と社員の間で摩擦が絶えず、ほぼ同じ時期に永田も鏑木もその会社を辞めている。それぞれ別の職につき、その後連絡を取ることもなくなってしまったのだが、かつての同僚から永田の訃報を聞いたのは、永田がこの世を去った一月ほどあとのことだった。
「鏑木君はそういえば、酒をやめたってきいたけど」
最初坂本は鏑木と居酒屋で一杯やりながら話をしようと誘ったのだが、鏑木が酒をやめたと聞いて、この喫茶店で会うことにしたのだった。
「えぇ、実はシャレにならないくらいのところまでいっちゃいまして、カウンセリングを受けて今は一滴も飲んでないんです」
「そうか。まぁ、健康に気を付けるのはいいことだよ。ついでにタバコも止めることをお勧めするよ」
鏑木はようやく坂本がタバコを吸っていなかったことに気がついた。
「坂本さん、タバコやめられたんですか。僕はどうしてもタバコだけは止められませんね」
鏑木はテーブルの真ん中に置いていた灰皿を少し手前に寄せた。
「まぁ、考えてみてくれよ。何か手伝えることがあったら、相談に乗るし、さっきの仕事の件もどうしてもやりたいっていうのなら、まぁ手配はするけどさ。本当、割に合わない仕事だからさ」
「わかりました。ちょっと考えてみます」
「じゃあ、悪いけどこれで失礼するよ。会計は済ませておくから。コーヒー、もう一杯ごちそうするよ」
「あっ、すいません。気を使わせちゃって」
坂本はテーブルの上の伝票を持って席を立ち上がった。鏑木も立ち上がって挨拶をしようとしたが、坂本がそれを制した。
「気にするな。会社持ちだ。それより今度メシでもどうだ? 酒が飲めなくてもメシは付き合えるだろう?」
そういって坂本は大きな自分のお腹を叩いて見せた。メタボだった坂本のお腹は、こうしてみるとすっきりとしていた。
「ずいぶんお腹周りがすっきりしましたね」
「意識の問題さ。人は変われる。なりたいようになれるってね」
「自己啓発セミナーでもいかれたんですか?」
「ふん、あんなもの。同じ金を払うなら私は医者に払うね。医者の一言は本当に堪える」
軽く会釈をして坂本は店を出て行った。ほどなくして店員がコーヒーを運んできた。
「御代はすでにいただいております。どうぞごゆっくり」言いながら、『会計済み』と書かれた伝票をテーブルの上に置いた。
「小説といってもなぁ」
鏑木は文字通り頭を抱えた。書きたい気持ちはもちろんある。しかし自分には書きたいものがない。あのころは師匠の言う通りにやっていれば、万事うまくいった。鏑木にとって永田は師匠であり、恩師であり、パートナーであった。永田なしで長編の小説など書くことはできない。
こんなとき、永田さんが生きていれば……と黙って逝ってしまった恩師のことを思った。
コーヒーにミルクを流し込み、スティックタイプの砂糖を半分だけいれた。思えばブラックばかり飲んでいた自分を胃によくないからとミルクと少しだけでも砂糖を入れることを永田が勧めてくれた。以来、鏑木はこの飲み方を守り続けている。今まですっかり忘れていたようなことを、鏑木は思い出していた。
『ネタに詰まったら自分が行ったことのない飲食店に一人で行くんだ。そこで人間を観察しろ。客だけじゃない。店員もだ。店員と客の人間関係や、そこから聞こえてくる会話の端々に必ずヒントがある。それを書くだけで3ページは稼げるぞ』
『書こう書こうと思うな。書きたくなるような状況に身を置け。そうすれば、自然と筆は進むさ』
『人の忠告なんて言うものは無視するためにある。無視して痛い目にあって初めて身になるのさ』
店内には懐かしい音楽が流れている。しかし、鏑木にはそれが誰のなんと言う曲なのか、わからなかった。坂本がいる間には気づかなかったのも――アンティーク調の柱時計、壁面に飾られた小さな絵にはそれぞれ別の花が一厘描かれている。難しい顔をしながら、なにやら書類とにらめっこをしているサラリーマン。携帯電話をずっといじっているOL風の女性はどうやら遅い休憩時間のようで、制服のままだ。
永田の言葉を思い出しているうちに、鏑木の視野は大きく広がっていた。永田の言葉にはいつも説得力があった。永田自身がオリジナルの作品を書いているのを読んだことはないが、永田の言葉は、常に鏑木の迷いを打ち消してくれた。
「そうだな。師匠の言っていたことを久しぶりに実践してみるか」
そう自分に言い聞かせるようにつぶやくと、残りのコーヒーを一気に飲み干し、席を立った。
鏑木はまず、携帯の電源を切った。
「師匠の教えその1 自分の時間を作るべし」
それは至極無駄なことに感じられた。実は鏑木の携帯には、登録しているメールマガジンやSNSのお知らせ以外に通知が来ない。携帯の電源を入れたままでも支障はないのだが、やはり形から入ることも大事である。
鏑木は店をでると来た方向と反対側に足を進めた。まだ外は明るい。酒を出すような店が開くまで2時間ほどつぶさなければならない。
鏑木は酒を飲んでいたときでも一人でお店に入るような飲み方はほとんどしたことがなかった。ずいぶんハードルの高いことをやろうとしている自分を客観視し、それを面白がり始めた。ふと、足を止め、真新しいビルのショウウインドウに写る自分の姿を眺めてみた。どうにもさえていなかった。しかしそれは今に始まったことではない。そもそも容姿に自信があるのなら物書きなんかしていないと、それは永田の言葉ではなく、誰の言葉だったか。
「ここに映っているのは、オレであってほしくはないが、やはりオレか」
優男。身長はそこそこあるが全体的に線が細い。肌の色は不健康に白く、頬はそり残した髭が清潔感を損ねている。風呂に入ったのは2日ほど前か。銀縁のメガネはどことなく物書きの雰囲気を出していないこともないが、髪の毛は中途半端に伸びておさまりが悪い。
「そろそろ髪切らないとなぁ」
独り言というよりは、窓に映る自分に話しかけているようだった。
「さて、困ったぞ」
自問自答を続けた。
こんな格好で行くとすれば、やはり、おしゃれな感じというよりかは、隠れ家のような店だが、そもそも隠れ家というのは隠れているのだから、一見がそう簡単に見つけられるわけもない。ネットで調べれば、おすすめの店というのも案外簡単に見つけられる気がする。しかし、それでは興がないではないか――
結局鏑木は少し大きめの書店を探し、それらしい雑誌からそれらしい情報を得ようと思いついた。コンビニは無視するというルールは、思った以上に厳しいものだったが、30分ほど歩いてようやく書店を見つけることができた。鏑木は早速雑誌のコーナーに足を運び、立読みを始めた。
「先は長い。とりあえず最近の漫画でも目を通しておくか」
本屋で時間をつぶすことは慣れている。鏑木はそのままあたりが暗くなるまで、雑誌を読み漁った。
「さて、そろそろ店を探さないとなぁ」
そう思ったとき、ふと店の前を知った顔が通り過ぎたような気がした。
「あっ、あれは、まさか……」
MA-1ジャケットを着た男が両手をジーンズの後ろのポケットに手を入れて前かがみに歩いている。それは鏑木の師匠である永田のシルエットにそっくりだった。キャップを後ろ向きに深くかぶるのも永田の特徴である。
MA-1ジャケット、キャップ、歩き方
それだけで永田だと判断するのは早計である。第一、永田はもうこの世にはいない。鏑木はあわてて本屋を出た。右手から左手へあたりを見渡す。永田らしき人影を追って、人の流れを目で追う。人波から外れて一人、左手に曲がった者がいる。鏑木の探している人影である。
他人の空似か――
鏑木は、その人影の後を追うことにした。おそらく人違いだと思いながらも鏑木は確かめずにはいられなかった。
街はすっかりまどろみ、街頭の灯りや車のテールランプの不規則な明滅が華やかさと儚さを演出する。
鏑木は非日常の扉に向かって走り出した。