決意の日
◆◆◆◆◆
踊り子ネーネの記憶の始まりは、夕暮れの田んぼをミラにおぶさって見た景色だった。
広大な麦畑を、綺麗な歌声にあやされながらうたた寝している幼いネーネ。
ハッキリと覚えている訳ではないが、自らの記憶を辿っていけば、必ずその風景と歌で始まっている。
朱に染まった黄金の稲穂達と共に、優しいロアの風に吹かれながら家路へと歩くミラ。小さなネーネはその背中をしっかりと掴み、穏やかな時間と共に揺られている。
歳はいくつだろうか。少なくとも五つより幼かった筈だ。
幼いネーネにとって世界はミラとクマース、そして農主であるミラの父と母。ミラの兄弟。そして優しい幾人かの大人達で構成されていた。
農奴の娘として生まれたネーネは、親の顔を知らない。
父は生まれる前に事故で亡くなり、母はネーネを産み落としてすぐに病でこの世を去ったと教えられていた。
ロアの農奴は契約奴隷だ。数年単位の期間と出来高次第で解放され、それなりの金と自由を得る。母の代でその契約は満了を迎え、ネーネには農奴としての責務は残っていなかった。
両親を亡くした不憫な娘に同情した農主が、育ての親を引き受けてくれた。
年上のミラに可愛がられ、農奴の倅のクマースに守られ、ネーネは優しい世界の中で純朴に育っていった。
誰も疑った事も無く、誰に虐げられた事も無い。取り巻く環境に不満も無いし、常に笑って生きてこれた。
幸せだった。今も幸せであるが、この時程満たされていた時は無いだろう。
だから思い出す原風景はいつだって夕暮れの麦畑と、ミラの背中なのだ。
自身の待遇に違和感を感じたのは、八歳の頃だ。その頃には周囲の人間関係を感じ取れるくらいには分別がついていた。
最初に違和感を感じたのは、ミラの父である農主の態度である。
基本的に穏やかで優しい人であったが、仕事でミスをした農奴に対しては激しい罵声を浴びせる男だった。それは歳若い農奴でも同じだったが、ネーネは怒鳴られた事が一度も無い。
雨の日にしまい忘れた大量の稲が見つかっても、寝坊して仕事に遅れても、農主は優しく頭を撫でて微笑むだけだった。
なぜだろうと思った時から、周囲の大人が自分に優しすぎる事に気がついた。
大人と言っても、ネーネが接する事のできる大人は両手で数えられる程度しかいないが、彼らに怒られた記憶は殆ど無い。
それなりに元気で腕白だったし、一緒に走り回っていたミラやクマースが怒られても、ネーネだけはその場から離されて不問にされていた。
そんな疑問が浮かんだその日に、賢いネーネは気づいてしまう。
自分が農地から外に出してもらっていない事を。
四つ年上のミラやミラの兄弟達は、何度も街まで連れて行って貰っていたが、ネーネだけはいつも留守番をさせられていた。
疑問を抱いたまま一年が過ぎ、クマースが晴れて農奴契約を終えて、楽士の夢を叶える為に王都へ旅立った次の日に、唐突にミラから打ち明けられた。
父母が農奴であった事は嘘だ。それどころか農場の誰もがネーネの両親を見た事が無い。
衝撃だった。毎朝祈りを捧げていた墓の下には誰もいないなんて、信じられなかった。
勢い余ってすぐに農主を問い詰めた。
ミラはひどく怒られてしまったが、彼女もネーネを想っての事だった。真っ直ぐに育った妹分が騙されているままなんて、姉御肌のミラの性格が許さなかったのだ。
農主であるミラの父はわかりやすく狼狽し、言葉を濁し、それから半月ほどたっぷり悩んで、ついにネーネに打ち明けた。
『お前のご両親はお前の為に、私達にお前を預けたんだ』
『母親は残念な事に亡くなっているが、父親はまだ生きている』
『一年待ちなさい。お前が十歳を迎えた時に、全てを話せる人の元へ連れて行こう』
苦しそうに吐露する農主の顔は青ざめ、痩せこけていた。
幼いネーネにも、只事では無い事は理解できた。
だから一年間、その言葉を信じて素直に待ち続けた。毎日の畑仕事をそれまで以上に手伝い、期待と不安でその小さな胸をいっぱいにしながらも、ネーネは一日一日が過ぎるのを奥歯を噛み締めながら耐え忍んだ。
念願の十歳の誕生日。
その日ネーネはミラと二人で、生まれて初めて馬車に乗り街へと連れて行かれた。
初めて見る街は人で溢れ、驚きと期待感、そして不安で爆発しそうだった。
到着したのは見た事も無い大きな館。
衛兵付きの門を馬車ごと潜り、馬車を降りてその先の重そうな扉を通り、目眩がするほど豪華な廊下を歩いた先のこれまた豪華な扉の先に、二人の男性が待っていた。一人は豪奢なマントを身につけた、白髭が似合う老人。もう一人は深く頭を下げたまま動かない剣士のような男性だった。
『御足労ありがとうございます。アリア様』
身なりの良い白髭を蓄えた老人が、ネーネを見るや片膝をつけて頭を下げた。
『この地の領主。ウィンバー・イザ・ハーディクトでございます』
領主といえば、偉い人だという事は知っていた。
そんな偉い人が、何故自分に傅いているのかがわからない。
混乱のあまり隣のミラを見ると、事態の異常さについていけず小刻みに震えていたので、大変な事が起こっている事だけはわかった。
『貴方の父君は、王都にいらっしゃいます』
『とても偉い方で、簡単に会う事は出来ません』
『貴方に会う事を願っていますが、どうしようも無い事情があり、それは叶いません』
ネーネにもわかりやすく、かといって重要な部分をぼかしながら、領主ウィンバーは説明を始めた。
その顔はとても優しく、初めて会う筈なのに不思議と懐かしさを感じる。
『りょうしゅさま。おとうさまは、ネーネのお顔を、知ってますか?』
『アリア様、いえ、ネーネ様を守る為にも、父君は貴女に会う事は出来ないのです。ですので、貴女のお顔も知りません』
『王都にいけば、会う事は出来ますか?』
『近くで見る事は叶いませんが、遠くから隠れて拝見する事は可能でしょう』
『りょうしゅさまは、なんでネーネの事をアリア様と呼ぶんですか?』
『それは、それは』
領主は突然顔を伏せ、両手で覆い隠すと鼻を鳴らし始めた。
ネーネは不安になり、ミラの手を握る。ミラはゆっくり力強く握り返すと、空いた手でネーネの頭を撫でた。
『おおぉ……不憫な……アリア様、このウィンバーめは、実は、貴女の祖父にあたります……貴女は私の娘の子供……娘のレリナルーナに瓜二つにございます……』
『アリアネーネという貴女の本当の名は、元は私の母の名前。娘のレリナは大好きだった祖母の名を貴女に名付けたのです……レリナが貴女を抱いたのはたったの二度だけだった……っ!!あぁ、不憫なっ!!我が娘の無念を思えば、爺は涙が止まりません…っ!!』
突然声をあげて泣き始めた老人に、ネーネは思わず駆け寄ってしまった。
『おおぉアリアネーネっ!爺にお顔を見せておくれ……あぁ、姉君様ともよく似ておる……』
『お、おじい、さま?』
『ああ、そうだ。お前の爺だとも』
目線をネーネと合わせ、優しく抱きしめられた。ネーネも不意にその背中に手を回し、抱きしめ返す。
『やはり、貴女は知るべきなのだ……。仕方なしとはいえ、貴女がこのような身分に身をやつすなど、アシュー様と草原の風が許す筈がない……おおぉ…忌々しい賊どもめが……可愛い我が孫になんて非道な……』
『おじいさま……お願いします!ネーネはおとうさまに会ってみたい!お話できなくてもいいから!見るだけでもいいの!』
『ええ……ええ!爺は覚悟を決めましたぞ。たとえこの貴族としての地位を失おうとも、貴女を父君やご兄姉に必ず会わせて見せますとも!リャンナジー、お前も長い間ご苦労だった。あとは私に任せたまえ』
強い決意の光を瞳に灯し、ネーネを抱いたまま老人はミラの父であるリャンナジーへと視線を投げる。
『領主様、いけません!ハーディクト伯爵領はどうなされるのですか!このリャンナジー、家臣としての願いにございます!どうかお考えを改めて頂きたい!』
『ええい!我が孫の願いなのだ!この子は生まれてすぐに母を亡くしておるのだ!あのような下衆な手で、尊き御髪の色を失ってしまったのだぞ!見よ!お前のお陰でこんなに美しく優しく育ってはいるが、やはりこの子は気高い血の娘だ!そうでなくてはならん!』
『それはこのリャンナジーも同感でございます!しかし、領民の為にもどうか、どうか!そうです!領主様が自らご下命に背かなくても、私が勝手に動いた事にすれば良いのです!私は伯爵様と領地の為なら、この命すら惜しくありません!』
『お前は良くやってくれている……私はお前に感謝すらしているのだ……本来なら家臣として身分を得ている筈のお前が、我が孫の為に農民にまで身を落としてくれた……』
ハーディクト伯爵とリャンナジーの口論に怯えたネーネは、慌ててミラの元へと駆け寄る。
ミラもまた周囲の状況について行けず、ネーネを抱きしめて離さなかった。
『伯爵様、リャンナジー。私めに良い考えがございます』
突然、頭を下げたままだった剣士が顔を上げ、二人の口論を止めた。
『おお、本当かアドモント!』
『はい、アリアネーネ様と、あとリャンナジーの娘のミラと言ったか』
『は、はい!』
『わ、私ですか?』
剣士は二人に目線を合わせ、膝を落とす。
『私は王都で劇団を任されている者で、一応、貴族の末席に当たるジェイコブ・アンリア・アドモント男爵と申します。貴女方には我が劇団の踊り子になって頂きたい』
『踊り子?』
『私もですか!?』
『ええ、当一座で踊りを学ぶ事が、アリアネーネ様の父君と会える最も早くて安全な道でございますから。ミラの父であるリャンナジーとは古い友人ですので、どうぞご安心下さい。アリアネーネ様だけでは不安でしょうし、ミラにもその気があるなら一緒に王都に行きませんか?』
剣士は優しく微笑んでネーネとミラの手を握ると、ハーディクト伯爵とリャンナジーを見る。
『入団資格である年齢十一歳には満たないので、アリアネーネ様には一年待っていただいて、先にミラを連れて行きたい。いや、正直に言うが、ミラの場合は単純に勧誘と思ってくれ。君は絶対に舞台映えする踊り子になれる』
『アドモント男爵、聞かせてくれないか。一体どんな手段があるというのだ』
落ち着きを取り戻したハーディクト伯爵は、アドモント男爵に詰め寄る。
『怪しまれる事なく、身分を感づかれる事なく、そして自然に父君に会えれば良いのでしょう?おあつらえ向きの場がございます。それも年に一回も』
『……なるほど、成る程!確かに!』
何かに気付いたリャンナジーが深く頷いた。
『ほ、本当ですか?おとうさまにあえるの?』
ミラの腰を抱いたまま、ネーネは恐る恐る疑問を投げかける。
『ええ、会えます。父君にも、兄君達や姉君にも。ただ、アリアネーネ様にも頑張って貰わなくては行けません。とても辛く厳しい道のりですが、それでも構わないなら』
優しい笑みを浮かべるアドモント男爵。ハーディクト伯爵も気付いたようで、考え込むように腕を組んだ。
『成る程、そうか。確かに、資質的にも血筋的にも不可能な話では無いな。男爵、儂からもお願いしたい。アリアネーネ様の存在を知る者は、儂や男爵を含めたあと幾人かの信頼できる貴族しかおらん』
『ええ、私もレリナ様の無念を晴らしたく思っております。あの方は舞台と劇団と芸人を愛してくれた。芸術の為に便宜を図ってくれた恩人ですから』
『だんしゃくさま!ネーネ、ネーネはなんでもやります!』
喉から振り絞った願いの言葉は、希望でもあり悲痛な願いでもある。
『わかりました。アリアネーネ様。一年後、貴女を迎えに参ります。それまでは、この街にいる私の家臣を貴女の指導係としてつけましょう。かなり辛く厳しくあたりますが、どうか諦めずに頑張ってください』
『はい!』
ミラはネーネの肩を抱きながら、決意を固める。
可愛い可愛い妹のようなネーネ。
彼女には幸せしか似合わない。そのためなら、ミラは己すら犠牲にできる。
『男爵様!私も、私も頑張ります!王都でネーネを守れるぐらい!だから!』
『ああ。何も知らない劇団員に気づかれる訳にはいかないから、私もお二人を特別扱いしない。全ては貴女達自身の努力にかかっている。宜しいね?』
『はい!』
『ハイ、わかりました!』
幼い義理の姉妹の運命は、この日から目まぐるしく動き出す。
その先には苦難や苦痛が待ち受けているが、決して折れず、そしてまっすぐに、二人は成長していくのだ。
◆◆◆◆◆
王立劇場のある王都の北区画は、広大な公園や博物館などを備えた娯楽地域だ。広々とした贅沢な空間を使い、王都の威厳と栄光の象徴とも言える場所である。
そんな華やかな場所も、今は沢山の民が逃げ延びた避難場所として、喧騒の真っ只中にある。
「団長っ!ネーネが!ネーネが!」
「落ち着けミラ。ロッティルの魔術はアリアネーネ様を捉えている。まだアリアネーネ様は生きておられる」
王立劇場を拠点とするアドモント劇団。その団長であるジェイコブ・アンリア・アドモント男爵は、泣き叫ぶミラの肩を押さえてなだめていた。
「サンニアっ!あの野郎っ!」
「兄さん、頼む落ち着いてくれっ」
怒りに荒れて椅子を蹴るクマースを、イノが背中から抑え込む。だが勢いは止まらず、見かねた周りの団員がイノを手伝い、ようやくクマースは動けなくなった。
「ダインさん……嘘よ…」
クマースから少し離れた場所にある壁に物言わぬダインを持たれかけさせて、リューリエは目尻に涙を溜めて顔を伏せていた。
「傷の周りの導脈が断ち切られてるわ。止血用の魔力が通らなかったのはこのためよ……。普通じゃ無いわ……」
ヘレーナはダインの腹部に手をかざし、何度も傷やその周辺の魔力を確認していた。その顔は青ざめている。
「迂闊でした。また私の失敗です。思えば、ギルドを通した劇団の依頼を真っ先に受けに来たのはサンニアさ、いえ、サンニアでした。おそらくですが、最初から計画的に動いていたのでしょう……」
悲痛な面持ちのリナが、ダインの剣を遺体に立てかけて天を仰いだ。
「どうしよう……どうしたらいいんだ……落ち着くんだ、こういう時に落ち着いて、ネーネさんを見つける方法を考えなきゃ……くそっ!僕が気づくべきだったんだ!くそっ!」
アルヴァは壁に両手と額をつけ、行き場の無い怒りと、焦りに苛立っていた。
王立劇場に到着したのはつい先刻。
あれから憲兵や騎士達の奮戦により、北区画までたどり着くのにおよそ半日を費やした。
血の気と正気を失い、小柄な身体でダインを背負ったシノアを見つけたのはアルヴァだった。
その頃には区画門の戦闘は殆ど終わっており、戻りの遅いダインやネーネを心配したアルヴァが見たのは、泣きながらダインを引きずって歩くシノアだった。
嗚咽しながら泣き叫ぶシノアをなだめ、サンニアの凶行を知ったアルヴァはリューリエとヘレーナを呼んだ。
真っ先に駆けつけたリューリエは、シノアからダインを降ろし、半狂乱するシノアを強く抱きしめた。
ヘレーナはすぐにダインの傷を確認するが、すでに事切れている事が明確になっただけだった。
リューリエ達は慌ててミラやクマース、イノに事情を告げ、サンニアの後を追おうとしたが、行き先もわからないし混乱した王都で芸人三人とシノアを放って置く事が出来なかった。
ネーネが連れ去られた事を知らされたミラは、泣き叫んだ。
クマースに抑え込まれるまで、守りきれなかったシノアやリューリエ、死んだダインまでも口汚く罵った程だ。
その姿を見たクマースは逆に冷静になった。ミラをなんとか落ち着かせると、彼女はアドモント劇団の団長であるアドモント男爵が、ネーネの行方を魔術で捉えている事をリューリエ達に打ち明けた。
手がかりが無い以上、その魔術に縋るしか無いと判断したリューリエ達は、ダインの亡骸を担ぎながら劇場を目指し、ようやく辿り着いて今に至る。
「……サンニア……アイツ、許せない。絶対に……アノスも、ダインも……殺してやる……っ…殺して…」
ダインの亡骸の横に、うつむいたまま座るシノアの姿があった。
シノアにとって、ダインはただの上司では無かった。
最初は『古き鉤爪』の、空いている魔術士というポジションを埋める為に勧誘されただけだ。
シノアが結社の嫌がらせを受け、どの冒険者パーティーからも避けられ始めた頃の話だ。
軽い人間不信になりかけていたシノアは、ダインの誘いを五度程、断っている。
そもそも、魔術士という人種は基本的に利己的な傾向にあり、あまり対人コミュニケーションに優れた人間は居ない。
そのためか冒険者の間には魔術士に対する扱いの不当さがあり、あまり好かれることの無い職業だ。
研究職の色合いが強い魔術士は、慢性的な資金不足に陥りやすい。そのため『魔術士の誇りは金で買える』という諺が出来るほど打算的な魔術士が多い。
『古き鉤爪』の歴代魔術士も例に漏れず、引き抜きや横領でメンバーが次々と入れ替わっていた。おかげで人当たりの良いダインすら魔術士嫌いを公言し、アノスの取りなしで渋々代わりの魔術士を探していたほどである。
そんなダインがシノアを見つけたのは、ある噂が発端だった。
元々陰湿な人間が多い結社、その中でもかなりの悪名を持つ『翼の心理』という組織。
そんな組織が進んで悪評を流布する人物、それがシノアだ。
結社のしつこい勧誘を断り続け、彼らの誇りを汚したその報復として嫌がらせを受けているらしい。
そんな噂がベテラン冒険者達の間で流れていた。
まだ成人したての十五歳。しかし腕前は結社のお墨付き。
他所のパーティーも勧誘を考えたが、『翼の心理』と揉めるとひたすら疲れる事を知っていたので、すぐに皆が諦めた。
そんな中、ダインは違った。彼は働きと人格でパーティーメンバーを欲していた。その稀少さに比べれば、陰湿な結社との揉め事などなんでも無いと考えていた。
ダインは逆に考えた。そんな最悪な組織が流す噂など嘘に決まっている、と。
『外法で成り上がった外道魔術士』は『才能があり努力する天才魔術士』。
『異性を誑かし、財産を吸い取る売女』は『感情に流されず、また金銭で心動かない才女』。
『仲間を裏切り、見殺しにした人でなし』は『仲間意識に厚く、信頼できる人間』。
そう考えると、放って置く方がどうかしている。
優秀な魔術士は常に不足している。青田買いでもなんでも、逃しちゃいけない人材だと何度断られてもしつこく勧誘し続け、数カ月かけてようやく口説き落としたのだ。
そして蓋を開けてみれば、シノアはかなりの腕を持ち、そして目先の欲に動かない、ダインが最も欲する魔術士だった。
シノアにとっても、結社の嫌がらせにも屈せず、逆にシノアを保護し守ってくれるダインに、少しづつ心許し始めていた。アノスにしたってそうだ。寡黙で何を考えているかわからないが、その行動の端々にシノアを気遣う態度が見て取れた。下手に口だけ達者な男より、行動でしか示さないアノスの方が何倍も信頼できた。
パーティ入りして三カ月ほどは、休む暇なく仕事に明け暮れた。
その頃からサンニアに対する不信感は募っていたが、ダインやアノスと共に戦う日々は、冒険者としてのシノアに充足感を与えてくれた。それは、彼女が生まれた村を出て始めて感じた満たされた日々だった。
だから、失った事が何より悲しく、そして壊れる程に寂しい。
「シノア、シノアお願い。しっかりして」
うつむいたまま呟き続けるシノアを、リューリエは心配して話しかける。傍目から見ても普通じゃない。このまま消えて無くなりそうな程に、シノアとしての存在感が薄れていく。
「リューリエ…」
シノアが顔を上げる。リューリエはその肩を優しく掴み、瞳を捉えて語り続ける。
「辛いのはわかるわ。いえ、あたし達ではわからない程に悲しいかも知れない。でも、今は悲しんでいる暇が無いの……サンニアを追わないと、ネーネが危ない……『古き鉤爪』は、今は貴女しか居ないのよ…?」
「私しか、居ない……」
シノアの瞳がまた滲み出す。
ダインが作り上げ、アノスが支えた『古き鉤爪』。古参と呼ばれ始めるそのパーティーを、半年しか一緒に行動していないシノアが継ぐ。
今の状況がそうさせてしまう。なぜなら依頼は終わっていない。護衛対象の一人であるネーネは連れ去られ、ここにはいないのだから。
「ミラさん。アドモント男爵様。私達に隠している事が、たくさん有りますよね?」
リューリエはシノアをヘレーナに預け、未だ声を荒げて泣き叫ぶミラと、アドモント男爵の前に立った。
その姿を見て、アルヴァもようやく動き出す。
「……そうだ。そうだよ!ネーネさんに魔術がかけられてるって事は、最初から彼女が狙われてるって分かってたって事だ!それが分かってたら、護衛の仕方だって変わっていた!言い訳に聞こえるかも知れないけど、それは事実だ!」
アルヴァが声を荒げて問い詰めた。その魔術は、エンリケを持ってしても感知できない程に隠匿されていた。薄く、儚い魔術だ。
「しょうがないじゃない!誰にも言えなかったんだから!」
ミラは顔を歪ませて叫んだ。
「……そうだ。私達は彼女が何者かに狙われる可能性がある事を知っていた。だが信じてくれ。ピースイウムの報告を聞くまで、実際に狙われていた事は知らなかったんだ」
「……説明して、くれますよね?」
リューリエがゆっくりとアドモント男爵に詰め寄る。
「……君たちにだけだ。すまないが、イノとクマース以外の団員。そして他の冒険者達は席を外して貰いたい」
部屋に居たのは二十名を超す団員と、その護衛の十五名ほどの冒険者達。そして『五色の蝶』とシノアだ。
次々と部屋を出る団員や冒険者達。
最後の一人が部屋を出て、アドモント男爵は扉に消音魔術をかけた。
「……最初は本当に、巡業の護衛を依頼しただけだ。君達が狼の襲撃を撃退した時、遠視の魔術とミラに持たせていた報告用の魔道具を通じて私達も戦慄した。ピースイウムで報告を受けて、それから私達もいろいろと捜査し、少なくとも三つの組織が彼女を狙っている事がわかった」
「三つ!?」
クマースが驚きの声を上げた。
「そ、そんなに狙われていたのか!ミラ、なんで俺に言ってくれなかったんだ!そもそも、ネーネはなんで狙われているんだ!」
「あ、貴方にも言えなかったの!ネーネと、団長と私しか、知っていてはいけない事だったのよ!」
「俺をこの劇団に誘ったのも、ネーネを守る為か!?馬鹿にするな!言ってくれれば!俺だってアイツの為ならなんだってしてやれる!俺たちは血は繋がってないが家族も同然だったじゃないか!」
「わ、私だけじゃ不安だったのよ!一人じゃ怖かったのぉ!何度も話そうとしたけど、でも、できなかったの!」
「兄さん頼む!今は話を聞こう!落ち着いてくれ!」
激昂するクマースを、イノが体を張って押しとどめる。
「クマース……本当にすまない。お前の楽士としての腕前は確かだ。入団を許したのもその腕前を見込んでの事だ。ミラを責めないでくれ」
「団長ぉ……」
泣きそうな顔でアドモント男爵を見るクマース。その表情を見たミラはついに泣き崩れ、地面に伏せた。
リューリエはミラの背中を撫でながら、更に男爵を問い詰める。
「三つの組織……何処の誰がなんの為にネーネを狙ってるんですか?
」
アドモント男爵は天井を仰ぎ瞳を閉じて深く深呼吸をする。
そしてゆっくりと顔を下げ、リューリエを見た。
「一つは、反王政の貴族だ。彼らにとって、アリアネーネ様は王政の弱みを握る材料となる」
「お、王政?」
クマースが驚愕し、イノが息を飲んだ。
「もう一つは結社。『翼の心理』と呼ばれる組織だ。奴らは単純に身代金目的だと判明している。別件を理由に幹部数名を捕縛しているが、総統なる人物が見つかっていない」
「……もう一つは?」
アルヴァの問いに、男爵は目を伏せた。
「……これが、わかってない。貴族や結社以外に動いている組織がある事しか判明しなかった。おそらく、今アリアネーネ様の身柄を押さえているのは、こいつらだろう」
「そ、そんな!」
ミラが顔を上げた。
「目的も分かってないの!?じゃあ今ネーネはどんな目にあってるのよ!何処にいるのよ!」
「場所はわからない。魔術的な妨害で、遠視魔術が機能していない……。アリアネーネ様に持たせている魔道具は、彼女の心臓の動きと連動している。その魔道具は阻害されていないから、間違いなく生きておられるし、怪我もしていない筈だ」
「あぁ、あぁぁぁ……ネーネ…きっと怯えてるわ……私のせいよ……守ってあげるって、約束したのにぃっ!あぁぁぁっ!」
「ミラ……」
その痛ましい姿を見て、クマースがミラを抱きしめる。
「……教えて下さい。ネーネは一体なんなんですか?唯の踊り子じゃ、ないんですよね?」
リューリエの視線に耐え切れず、男爵は顔を両手で覆い、深いため息と共に口を開いた。
「つい先日までは、確かに唯の踊り子だったよ。踊り子として見せていた。ネーネは、いや」
覆っていた手を退けて、ミラを見つめ、最後にリューリエやアルヴァ、そしてシノアを視界に入れて、男爵は覚悟を決めた。
「アリアネーネ・ミナウ・ローアン様は、生まれて来なかった二人目の王女様だ」




