その翼に心理があるか
※ひどい性的な表現があります。
※ひどい残酷な表現があります。
だ、大丈夫だよね?
カナメはパーティーの登録板に、傷をつけた親指を擦り付ける。
仄かな魔力光が発せられ、またゆっくりと消えていった。
「はい、これで登録は完了しました。あとは組合規約とかの説明なんですが、ダインさんが殆ど説明したと言うので省きましたが、やっぱり聞いておきますか?」
ミステラが登録板を布で包む。
その薄いくせにやたら頑丈な石板は、ピースイウム支部の書庫に厳重に保管される。
これはいわば原文。手順さえ知っていれば簡単に修正できる物だ。
各支部の確認用の石板からは、原文の改正は不可能だ。
「いえ、大丈夫です」
「かしこまりました。カナメさん達は仮登録ですが、その権限は殆ど本登録と変わりません。他国への入国審査の免除のみ除外されてますが」
国を超えての依頼はその殆どが国からの強制依頼である。普通の冒険者に適用される事はほぼ無い。
そしてその入国審査も、あくまで『正規』の審査でしかない。関所を通らぬ密入国ルートなど腐るほどある。その全てに兵を置いている訳では無い。
例えば隊商。その商品の全てに税を課さねば罪となる。各関所で発行される手形を持たぬ商人は、その荷の量に関係なく死罪となる。
例えば貴族。国の権威を大なり小なり背負う貴族にとって密入国とは恥以外の何物でもない。そして貴族でも罪には問われるのだ。その権力によって死罪は免れても、家名は地に落ちる。
個人間の密入国は、各々の国で黙認されている。人口が増える事は税収が増える事を意味しているからだ。
「本登録をご希望でしたら、登録審査の実技試験は免除させて頂きます。面接もおそらく支部長がすぐに合格を出すかと思いますので、実質的に審査通過の状態ですね」
衝撃狼の群れの討伐と、一座の護衛ですでに実務面では太鼓判を押されている。その上ベテラン冒険者のダインのお墨付きである。
やたら冒険者の数が多いのに、常に人材不足の組合から見れば、カナメ達は諸手を上げて歓迎される実力者なのである。
「カナメ、指貸して」
ミステラが席を立ってすぐ、ヘレーナがカナメの血の滲んだ親指を取った。どうやらその程度の傷でも彼女には不愉快らしい。
その親指に自分の人差し指を重ねて、魔力を流し込む。押し拡げるように魔力で傷を包み、蓋をする。
秒にしたら二秒ほどで、カナメの親指の傷は跡形もなく消えていた。
「ありがと」
「いいのよ」
家族にしかわからないヘレーナの自慢気な表情は、いつも澄ました彼女の時々見せる可愛らしいところの一つだ。
中々見る事のできない表情に、自然とカナメの顔も緩くなる。
「リナ、大体終わったみたいだからよ。みんなを宿で休ませてやりたいんだが」
「こちらも話は終わりましたから、組合御用達の宿を手配します。支部長、宜しいですね」
「もともとそのような手筈になっておるはずだ」
ダインとリナ、ヒッケルト支部長が手短に話をまとめる。
「これからは一座の側に必ず『古き鉤爪』と『五色の蝶』のどちらかが護衛につくようにしてくれ」
「わかってる。ただの護衛依頼が随分物々しい警護になってきやがったな」
「はい、わかりました」
ヒッケルトの命に頷くダインとカナメ。
「よろしくお願いします」
ミラがいつもの飄々とした態度を直して、冒険者一同に頭を下げた。
「いいのよミラさん。あたし達ミラさん達が大好きだもの。野蛮な奴らに指一本触れさせないわ」
「リューリエちゃん、ありがと。本当に頼りにしてるわ」
その礼を制するリューリエの素直な言葉に、ミラの瞳に涙が滲む。命が狙われるなど普通は経験しない。ミラも一介の踊り子でしか無いのだ。不安にだってなるだろう。
「今日はゆっくりと休むがいい。領主様からの使いも明日には来る筈だ」
ピースイウムの狩猟祭を取り仕切るのは領主である辺境伯爵だ。
その辺境伯爵が招き入れた一座の身の危険となれば、動かざるをえない。
「それじゃみんな。宿に向かおうか。馬と馬車は組合が預かってくれるらしいから」
ピースイウムに来て半日、カナメ達はようやく身体を休める事になった。
王都フリビナルの中央、城にしてはやけに背の低い、広大な敷地面積を誇るロア堅城。
その城壁の外に、各騎士団の専用の練兵場がある。
「ウェルフェン!どこだウェルフェン副団長!」
派手な赤の鎧と、第七騎士団の隊章である七本の鋭い剣のマークをあしらった白いマントを身につけた、壮年の男性が声をあげていた。
「ウェルフェンはこちらに。何用ですか。ベスヘラン団長」
嫌そうな顔を隠さず、軽装の鎧をつけた茶髪の男性が手をあげた。
「貴様!奉納試合の出場を断ったそうではないか!他の騎士団長から聞いたぞ!」
(なんでそれを他所から聞いてんのかね)
その短い髪をボリボリと掻き、ウェルフェンはため息を漏らした。
「その通りです団長。今回は陛下の御身も優れませぬゆえ、城下の警備も厚くしなければなりませんから」
「それは憲兵どもで事足りるであろう!」
(本気で言ってんのか)
ウェルフェンの顔面にツバが飛ぶほど詰め寄るベスヘラン団長。
アンカー・オンガー・ベスヘラン第七騎士団団長。
男爵の爵位を待つベスヘラン家当主であり、王城で随一の小物貴族である。
すでに周りにはその小物ぶりを知られているが、この男は大層口が回る。その整った容姿とおべっかで、各勢力の中心をフラフラと行き来する悪い意味での実力者だった。
「この件は陛下の耳にも入っておる。陛下の肝いりで騎士になったお前が!陛下のご期待に応えなくてどうするか!」
「そ、それは」
(それを言われちゃ弱いんだよな)
「いいか!これは命令だ!奉納試合に出場し、近衛兵団に打ち勝て!優勝以外は認めんからな!」
顔を真っ赤にしてがなるベスヘラン団長。
他の騎士団長連中に、「平民は逃げるのがうまい」「恥を晒す前に取り繕うとはさすが第七騎士団」「ベスヘラン殿もお優しい、部下の為に言い訳まで用意するとは」などの皮肉を大樽一杯ほど言われていたからである。
「だ、団長殿もご一緒にどうですか?」
苦し紛れにウェルフェンが茶々を入れた。
「わ、私は王子殿下の身辺警護を仰せつかっている。残念だが今年は見送ろう。ドナヒュー家の若造に実力の差を教えるのも悪くはないが、これも殿下立っての使命であるから」
急に歯切れ悪くオタオタと慌てるこの男。
世襲制ゆえ団長の座にいるが、剣の腕はそこらの憲兵に負けるほどだ。
お飾りの意味をどこまでも追及するその姿は流石としか言いようがない。
(あんたがドナヒュー近衛兵団長に勝てる訳無いだろう。あの人が素手でも軽く捻れるぞ)
その情けなさも数年も下についていれば慣れては来るが、日に日に小物具合が増している。
嬉しくも無い新たな発見で目白押しである。
「そんな事よりもだ!わかったなウェルフェン!これは王命だと思え!陛下の名の下にお前は今の地位についているのだ!でなければ平民上がりのお前など騎士の鎧を着ける事さえ許されていないのだ!お前の敗北は陛下の名を汚す事になると心得よ!」
(よっくもまあ、こういった人を陥れる文言を考えつくもんだ)
「はっ!承りました!ウェルフェン・リアッツ・フェルドナ第七騎士団副団長!身命を賭して奉納試合に挑みます!」
騎士爵を得た時に夜を徹して考えた自分の家名を告げて、ウェルフェンは敬礼する。
その名は有名なおとぎ話の騎士の名から取った。フェルドナの名は王から承った先代の王の側近の名だ。
「私はまた王子殿下の身辺警護の任につく!部下達の規律もしかと任せたぞ!」
「はっ!」
そう言ってわざとらしくマントを翻し、ベスヘラン団長は城壁正門へと向かっていった。
「まぁ予想はしてましたけど、どうにもならなかったですね」
副団長補佐のアーマルが、修練用の軽装鎧を鳴らしながら駆け寄ってきた。
「色々手は回したんだがなぁ。無駄になったか」
「団長の体裁を取り繕う速さは翼竜より早いですから。奉納試合当日の警備体制、用意してた方に切り替えときますね」
「あぁ、悪い」
周りでは部下の騎士達が普段の様に修練している。
ベスヘラン団長の癇癪も何時もの事だからだ。
幸運な事に、機嫌を損ねたからとはいえ首になる事は無い。
正確にはベスヘラン団長如きでは、各貴族の子弟である部下達を首にはできないのだ。なにせ小物なのだから。
「しゃあねぇ。どこまでいけるかわかんねぇけど頑張るか」
「何言ってんですか。副団長と近衛兵団長以外で優勝できる訳無いに決まってるでしょうに」
「さぁて、冒険者達の中に見た事も無い凄腕の猛者がいるかも知れねぇじゃねぇか」
「そう言った猛者ならもっと有名になってますよ」
冒険者の強さとは、集団戦闘の連携力にある。
弱さを数でカバーするのではなく、強い者同士が増幅しあって更に強くなる戦い方だ。
それでも、個人の力量で言えば前述の二名を超える者など、アーマルの記憶には無い。
第七騎士団全体と、同じ人数の連携の取れる冒険者では、冒険者に軍配があがる。
彼らには戦い方の幅があり、騎士達には騎士としての戦い方しか知らないからだ。
だがこのウェルフェンという男が一人いれば、それだけで情勢はひっくり返る。
圧倒的な力とは彼の事を指すのであろう。
「さて、それは忘れて次は騎馬の模擬戦をしようか。
正装させて大槍もってこい」
「了解です」
第七騎士団は剣の騎士団であるが、別に剣に拘っている訳ではない。
状況に応じた得物の選択をある程度視野に入れて修練を積んでいる。
それでもやはり、副団長を筆頭に剣に自信のある集団である。
部下の騎士達の嫌そうな表情に喝を入れようと、ウェルフェンは人の悪い笑みを浮かべて練兵場を歩いた。
「遅いっすよ」
ピースイウムの中央から遠く離れた外壁の外。
人のいない郊外にある、家主がいない建物にサンニアはいた。
外は暗い。もう二刻ほどすれば正門も閉ざされる時間である。
「これでも慌てて来たのだがな」
「騒ぎが起きてもう三日っす。あんな手際の悪い連中寄越した上に企ても失敗してて、よくそんな呑気にしてられるっすね」
部屋の中は薄暗く、灯りも灯されていない。
サンニアはその小さな部屋の、ボロボロに崩れた壁に持たれているが、会話をしている者の姿は見えない。
「仕方ないとはいえ、なんとかあの旅人達がいると報告できなかったのか?」
「方法を教えてもらいたいっすよ。通信魔術が使える手駒もよこさねぇで偉そうに言わないで欲しいっすね」
その目は閉ざされているが、サンニアの口元はピクピクと痙攣し、眉間にも皺が寄っている。
「うむ。それで、失敗した連中はどうした」
サンニアの苦言を無視して、声の主は話を続けた。
「その日で片付けましたよ。死体も処理し終わってるっす。あんな三流連中、どっから見つけて来たんすか?こっちがオタクらからもらった符丁見せただけでペラペラと言い訳して来たっすよ」
「そこまで使えんとは。まぁ最初から使い捨てるつもりだったからな」
彼らの計画は既に解れが出始めている。
狼による襲撃は、結果的には成功していた。
一座が何者かに襲われていると言う可能性を、とある人物に伝える目論見は上手くいった。
おかげで目的の人物を絞る事もできたが、その後がよくない。
「狼の時に、一座は真っ先にあの小娘を逃がそうとしましたから、間違いないっすね」
「王都で監視している方も慌てておった。どうやら遠視の魔術はやはりあの小娘を捉えていたようだ」
踊り子ネーネである。
アドモント劇団に、何がしかの要人が潜んでいる。常に軽い偽装の魔術をかけられ、劇団の外では遠視の魔術で常に見張られているらしき事は判明した。
サンニアが事前に知らされていたのはそれだけだ。
東西南北に旅立つ予定の巡業の面子を注意深く観察し、当たりをつけて護衛任務に滑り込む。騒ぎを起こしてその人物を特定するまでは良かった。よしんば一座が壊滅しても、その人物さえ抑えられれば依頼完了であった。
こちらの仕込みだった弦楽士は知らなかったようだが、他の一座の面子は迷う事なくネーネを庇った。
命のかかった状況で、己以外の生存を選択するにはよほどの事情が必要だ。
更に遠視の魔術がその強みを増したのも、別の者が確認している。
選別は完璧に上手くいった。
予定外だったのは、カナメ達旅人の乱入である。
その過剰な戦力で、死ぬ筈だった一座と冒険者を救ってしまった。サンニアが動く前にである。
本来なら選別が済んだ時点でその身柄を確保し、王都まで運ぶのがサンニアの仕事だったのだ。
それが、たった一人死んだだけで終わってしまった。
しかも旅人達が護衛に加わる事で、旅が問題なく行える様になってしまったのだ。
その力量を前にして余計な事は出来なくなった。
とりあえず、手筈通りに計画の加担者を次々と仕留め、サンニアはピースイウムの後ろ暗い伝手を使って雇い主に報告を入れようとした。
その矢先の襲撃事件だ。
「なんで俺の報告を待たなかったんすか?」
「もはや王都の祭りまで時間がないのだ。それまでにあの小娘を運び込まねば、私もお前も死ぬぞ」
「だからってあんな手抜きして、目撃証言がありすぎて潰す気にもならなかったっすよ」
「元はと言えば、お前の初手が悪いんではないか? 道中、あの小僧ぐらいなら始末できただろうに」
「冗談言わないで欲しいっすね。あの小僧、とんだ化け物っすよ。あれの弟の横にいるだけで偉い重圧飛ばしてくるんすから」
それはカナメの無意識である。
元々、ダインやシノアと違ってサンニアはあまりカナメ達に近づいたりはしなかった。
慣れない人付き合いもあるが、カナメはサンニアを信用しきれていない。
その嘘くさい笑顔と、一座やダイン達から常に一歩引いた姿をカナメはこれ以上ない程に警戒していたのだ。
その身体にまとわりつく血の匂いを、本能的に感じ取ったのかもしれない。
サンニアも、カナメの目を盗んでネーネを確保し、そのまま消える算段を立ててはいた。
しかしネーネは常にカナメの側を離れないし、宿で別々の部屋にいてもなぜかダインがサンニアから警戒を解かないのだ。
「たぶん、ダインさんには薄々感づかれてるっすね」
「構わんだろう。元々、隠れ蓑としてパーティー入りしたんだろう?目障りなら我らが消そう」
「あの人はあの人で強いっすよ。たぶん俺は目一杯手段を講じてなんとか一勝ってとこっすかね」
ベテランであるダインの剣の腕は、カナメやリューリエのせいで目立たないが高いのだ。
その上で経験という武器が備わり、サンニアがダインに正面から打ち勝つ可能性は限りなくゼロに近い。
「で、この先どうするか聞いてきたんすよね?俺も排除っすか?まぁ、全力で抵抗するっすけど」
「落ち着け。お前にはまだ利用価値があるらしい。一座を王都まで監視するんだ。王都で追って指示を出す」
軽く鼻を鳴らして、サンニアは姿の見えない男を想像する。
おそらくは魔術士。しかも外法の使い手だろう。
詳しくは無いが、禁術の中に人の皮を用いた隠匿の魔術があった。複数の気配を重ねる事で、逆に気配を打ち消す魔術だ。
しかもこの男、サンニアと同じ雇われている様な口調だが、おそらくは雇い主側の人間だ。
この男から渡された小瓶の魔道具『溶かし飲む水』や、そこに置く事で消音の術式がかかる燭台などは、貴族が数世代を簡単に破産させる事の出来る魔道具であった。
足が着く事は簡単に想像できるので、サンニアは売り払う事など考えもしなかったが、雇い入れた者に運ばせるには高価すぎる。しかもその道具、事が上手く運べば綺麗に無かった事になる筈だったのだろう。
「了解っす」
「任せた。王都までは監視のみでいい。手は出すなよ」
「余計な事はしないっすよ。長生きの秘訣っすから」
平坦な声でサンニアは答えるが、返事は帰ってこない。
(……もう、いないっすか)
壁から身体を離し、部屋をでる。
夜の郊外は不気味に静かだが、サンニアに取っては心地よい。
ダインには娼館に行くと伝えてある。戻るにはまだ早いから、これから本当に行くとしよう。
(どうにも杜撰な計画っすよね)
寄生していたパーティーを犠牲にしてでも、美味しい仕事だと最初は思った。だがどうにも上手く行く様には思えなくなった。
(王都でゴタついたら、サッサと逃げるっすかね)
サンニアは元々が、他国から密入国してきた没落貴族の奴隷であった。
まだ幼かったサンニアには、なぜ主人が没落したかは今でもわからない。
ただ確実なのはその男主人が十にも満たない子供を、男女問わずいたぶる変態だった事と、自分がその中でもお気に入りだった事。
何度致されたかは覚えていないが、夜が来るたびねじ伏せられた事は覚えている。
恨みも確かにあるが、それを越える感謝の念があった。
一つはロアに連れてきてもらえた事。
元々いた国では、どうやら奴隷という身分は死ぬまで付いて回るようだ。それは二十を越えた時に知った。
主人が密入国をしていなければ、サンニアは未だに奴隷だったのだろう。
だがロアでは、他国で奴隷になった者に関しては寛大である。その所有者である主人が死ねば、罪人奴隷でなければ自由の身となる事が許されている。
ただ一つ厳しい面をあげれば、最初に手に持つ財を保証しないことだ。そのため、せっかく自由を手に入れたのに、再び奴隷になる者すらいる。
またロアにも奴隷階級は存在するが、他国に比べて随分と手厚く保護されている。意味なく奴隷を虐げたり殺したりすれば、それは罪となるのだ。
もう一つは、性奴隷としても明らかにひどく扱われてはいたが、それでも生かしてくれていた事。
記憶にある同じような境遇の者は、それこそ男女問わず、主人が国を出る時に処分されている。
自分のどこが気に入ったかはもう知る事は出来ないが、選んでくれた事は素直に感謝したい。
最後に、自分に人を殺す喜びを教えてくれた事。
最初に殺したのは、主人に付き従って国を出た小太りの従者だ。主人よりは行き過ぎていなかったが、それでもサンニアを手酷く扱っていた、薄汚い容姿と性格をしていた男だ。
粗相を働いて仕置きを受け、身動きできない従者の頭を、酔った主人に渡された短剣で何度も突き刺した。
最初は狙いが悪く、その余りに余った醜い頬の肉に刺さった。痛みでのたうち回る従者の声に怯えた記憶がある。
それからは主人の叩く手の音に合わせて、無我夢中で何度も突き刺した。
開かれた口に入り、前歯を内側に折りながら喉の奥を刺した。
あまりに激しく身体を動かすので、顔では無く耳を貫いた。
その口から、刺している自分では無く主人への呪詛を吐いていたので、罪悪感は次第に薄れていった。
それからは右の眼底、左のこめかみ、眉間を刺したところで従者は黙った。
主人に言われてそれでも刺した。
薄く骨の割れる音がしても、赤黒い中身が顔を汚しても、腕が痺れてそれに触れても、刺すのをやめなかった。
主人は上機嫌でサンニアを呼んだ。その時は名前など無かったので、おい!とか、来い!だった。
サンニアはゆっくりと立ち上がると、短剣を見た。
こんな小さな物で、普段自分を痛ぶっていた小汚い従者が死んだ。
その事実は、幼いサンニアの下腹部を容易く昂らせた。
まだ名もなき奴隷は考える。その時までは、何も考えずに主人に付き従っていた。
夜の痛い思いを我慢したら、美味しいパンをくれる愛すべき主人だ。その顔を見て、やはり名もなき奴隷は考える。
もしかしたら、主人のような偉い人間でも、殺せるのかも知れない。
それからの奴隷の動きは早かった。
呼ばれたままに近づき、落ち着いてゆっくりと、そして力強く、自分の下腹部を舐める主人の頭部に、短剣を突き刺した。
主人からは、聞いた事も無い声が短く出ただけで後は何も無かった。
それだけで死んでいた。
今考えれば頭頂部、頭の天辺に短剣が柄まで刺さっていたのだ。即死だろう。
下腹部のモノを加えたまま動かない主人の姿を見て、サンニアの笑いは止まらなかった。
笑いながら主人の至るところを刺した。
特に毎夜毎晩、嫌がっても痛みを与えてくれた下半身を何度も繰り返し刺しまくった。
その興奮といったら、大人となった今でも二度と経験した事のない昂りだった。
薄汚い夜着の中で何度果てたか覚えていない。
そして奴隷だったサンニアに与えられたのは、貧民ではあるが綺麗な身分と、唐突に生まれた自由。そして屈折した性癖だった。
それからのサンニアは考えるまでもない。
身体を売り、媚びを売り、取り入り、殺し、奪う。
それの繰り返しで今がある。
ずる賢く、またそこそこに腕が立ってもいたから、冒険者としても稼げた。
だけど、時々自分の性癖を満たす為だけに殺しの仕事も行っていた。
自分に最低限のルールを課した。仕事以外では殺さない。そうしないと色々破綻するのが目に見えていたからだ。
娼館で娼婦を抱く時、フツフツと湧き出る殺傷欲求が抑えきれない時もあった。現に二人ほど殺してしまっている。裏の伝手を使い揉消すのは大変だった。
(それでも、女は抱きたいんすから男って哀れっすよねー)
緊張感を失いぼやけた頭の中で、サンニアは己の事を考えていた。
その懐にあるペンダントを探りあて、引き出した。
この仕事を受けた時に渡された符丁である。
サンニアはこの仕事の依頼主を心底馬鹿にしている。
手順も悪ければ回りくどい。補助も上手くできないし、その上隠すべき正体を惜しみなく披露している。
もし自分が捕まり尋問されたとしても、このペンダントを見れば裏にいる者が何者なのかすぐにわかるだろう。
よっぽどの自意識過剰か、またはそれすら理解できない愚か者かはどっちでもいいが、こんな奴らに深く関わりすぎると道連れにされる。
雲で覆われていた月が、だんだんとその姿を現す。
月光がサンニアの身体に降り注ぎ、その姿を優しく照らした。
その手元にある、紫の染料で染められた石細工まで、月明かりは分け隔てなく照らしていく。
サンニアの手にある醜い陰謀のシンボルは、大きく翼を広げた鳥の真ん中に、大きな瞳が描かれたマークだった。
それはとある結社が表に出さない符丁。とは言っても、そこそこ裏の世界に詳しい者なら皆が知っている。
(『翼の心理』ねぇ。これが奴らを騙ってるってんならまだ分かるんすけど)
先ほどの外法の魔術など、諸に『翼の心理』の者が使う事で知られる魔術だ。その術式や構成は門外秘の物であり、曲がりなりにも結社である彼らがそれを漏らすとは思えない。もし他の結社の魔術士が行使しているのなら、幾ら何でもお粗末である。
(まぁ、王都までのんびり行くっすか)
ペンダントを懐に入れなおし、サンニアは外壁へ足を速める。
どこの都市にも、必ず裏の人間用の抜け穴がある。もちろんそんなところを馬鹿正直に通る人間は三流だ。
サンニアともなれば正門から堂々と、誰にもバレずに入る。
それが、サンニアが裏社会で生きていけた所以。
たくさんの人混みの中で個を消す事の出来る生まれついての能力だった。
「どうだ。あの仕込みの者は上手くやれそうか」
「大丈夫だ。王都での仕事を終わらせれば気持ちよく殺してやろう」
「ふふふ。あの生意気な薄汚れた殺し屋風情が、偉大なる我らに舐めた口を利きおって」
「すぐに黙るさ。なんせ彼奴は我々の正体を知らぬのだから」
「殺す際に、誰に不遜な態度を取ったか教えてやるのも悪くない」
「きっと彼奴はみっともなく命乞いするぞ。楽しみだ」
「さてその為にも、計画を詰めていこうか」
「ああ。上の者が何を考えているかはわからぬが、あんな小娘一匹、我らの偉大な叡智を用いれば済む事よ」
「そう言うな。なんと此度の一件では、商会や貴族も噛んでいるそうだ」
「ふむ、それなら仕方あるまい。我らの叡智を誇示するまたとない好機であったがの」
「すべては大いなる翼の赴くままに」
「左様、心理の行く先を求める為に」
郊外の人家での、怪しい2人組の会話である。




