その後の2人:3/10
一緒に(?)住み始めた2人。
でも慣れないんですって。
「最近、帰り遅いんだね」
海が台本を閉じて私に視線を移した。
海は私が帰って来たのを確認してから台本片手にこの部屋にやって来る。
私がいない時に、勝手に部屋に入って来たりもしない。
意外と真面目らしい。
「うん、仕事がちょっと忙しくて」
私は遅い夕食を用意しながら簡単に答える。
「彩さんの仕事って事務じゃないの?」
「採用時は事務だったんだけど……今は微妙」
「何さ、それ?」
「色々やってるって事」
海に仕事の話をするのは初めてかもしれない。
訊かれた事もなかったし、自分から話そうとも思わなかったから。
「海だって俳優なのかモデルなのかはっきりしないじゃない、それと一緒よ」
なにか違う気がするけれど……まぁ、いっか。
私はさっさと支度を整えて皿をダイニングテーブルに運んだ。
海と暮らすようになって2週間。
正直、まだこの生活に慣れない。
気が付けばまた1つ年を取ってしまっている。
もう32か……。
小さな溜め息が漏れた。
「疲れてるの?」
海が私の顔を覗き込む。
「ちょっとね……」
「疲れてるなら飲みに行くのやめればいいのに」
海は何故か伊集院君に敵意を剥き出しにする。
「情報交換も大事なのよ。特に榊君と遠山君は部署が違うから」
「何で部署が違うのに仲良しなのさ?」
妙に引っ掛かる言い方だ。
「同期入社だからよ。海だって同期だと事務所が違っても仲良くなったりするでしょ?」
海は首を捻る。
あ……海って人見知りだったっけ……。
「……いないね。っていうか俺友達少ないからさ」
そういえば海から友達の話を聞いた事はない。
「芸能界にいないの?」
「彩さんに紹介できるような奴はいない……かな」
私に紹介できる友達って何?
逆に紹介できない奴ってどんな友達なのよ?
「普通に友達は? 業界関係なく」
「祥平」
なんで1人だけ?
「あと由香さん」
「誰それ?」
女の人じゃない。
海が女性の名前を口に出すと腹が立つ。
認めたくはないけれど、間違いなく嫉妬だ。
「祥平の彼女……あ、もう入籍したんだっけ。だから奥さん?」
……え?
「祥平って……大久保さんでしょ? 結婚なさってたの?」
知らなかった……。
「祥平もそういう事あんま話すタイプじゃないからね。式は由香さんが落ち着いたらとかって言ってたけど……もう半年経ったなぁ。いつ挙げるんだろ?」
海はおかずを突きながら淡々と話す。
半年も前に結婚なさってたのか……。
今更おめでとうございます、なんて言えないわよね……?
「美人さん?」
「うん、すっごく綺麗な人。あ、前に祥平がモデルやったの覚えてないかな? 化粧品メーカーの」
「男性化粧品の?」
「そうそう、その女性部門のモデルさんが由香さん」
どんなモデルさんだったかな……?
大久保さんしか意識してなかったしなぁ……。
私は箸の先を噛みながら考えた。
「彩さん、箸の先割れるよ」
海が私を見ながら小さく笑う。
「由香さんは現役モデルだからいくらでも見る機会あると思うよ」
現役モデルさん……か。
美男美女で羨ましいなぁ。
それに対して、私と海って……。
「彩さん、変な事考えてない?」
不機嫌そうに海が私の額を人差し指で突いた。
「え……? 変な事って何よ?」
図星だったのを誤魔化すように聞き返すと海は微笑んだ。
「愛してるよ彩さん」
「ご飯中に何言ってんのよ?」
「じゃ、あとでベッドの中でたっくさん言ってあげる」
「遠慮しとく」
「何でさ?」
海は眉間に皺を寄せて私を睨む。
「明日も仕事だし」
「俺も仕事だよ。どうしよう、彩さんパワー切れちゃって仕事にならないかも……」
海はご馳走様と呟いて茶碗をシンクに持って行った。
その背中が本当に寂しそうに見える。
いやいや……騙されてはいけない、相手は俳優だ。
この1年間に何度騙された事か……。
私は海の存在を無視するように黙々と食事をして、会話を交わす事なく浴室へと向かった。
濡れた髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると海はソファで眠っていた。
「まったく」
毎度毎度……。
私は寝室からタオルケットを持って来て海に掛けた。
熟睡しているようで微動だにしない。
綺麗な顔……。
私はソファの前に座り込んで暫くの間、海の寝顔を眺めていた。
「ねぇなんで? どうして私なの……? こんな……顔も性格も悪いただのおばさんじゃない」
傍にもっと素敵な人達がいるじゃない。
海はそんな世界にいるじゃない……。
でも……海は疲れてるのにいつも私の事を起きて待っていてくれる。
いつだって私を抱きしめて“愛してる”と言ってくれる。
分かっているけれど……それでも想われている自信がない。
自分に自信がないから想われている自信も持てない。
きっとすぐに飽きちゃうわよ。
こんなつまらない女なんか……。
なのに……私はこんなに好きになっている。
私がどんなに海の事を好きなのか分かる?
好きという気持ちが目に見えればいいのに。
そうしたら素直に信じられるのに……。
「おやすみ……海」
私はリビングの間接照明だけを残して寝室に向かった。
ベッドに潜り込んでからも眠れなかった。
疲れているのに。
眠りたいのに……。
多分、この環境に慣れないせいだ。
こうして時々眠れない夜がある。
一緒に暮らすなどと言わなければよかった……。
今までのように、都合のいい時にふらりとやって来る方が気が楽だった。
私は枕に顔を押し付けた。
思考を打ち切るために。
「寝れないの? 彩さん」
いつの間にか海が寝室の中にいた。
「こ……これから寝ようとしてたのよ」
「何で嘘吐くのさ? 随分長い時間そうしてたじゃないか」
いつから見てたのよ……?
海の表情は逆光で分からない。
それでも、声を聞けば機嫌がいいのか悪いのかくらい分かる。
今のは間違いなく後者だ。
「彩さん、何があったのさ? 何か不安でもあるの?」
海はベッドに腰掛けると私の頭を優しく撫でた。
何故か悲しい顔をしていた。
「何でも言ってよ。俺、彩さんを愛してるから……だから心配なんだ、1人で悩まないでよ」
私は身体を起こして海の首に腕を絡めた。
私の精一杯の甘えだ。
「俺には彩さんだけだから……彩さんは俺の欲しいものを無意識にくれてるんだよ、だから俺にも手伝わせてよ……知ってた? 俺、ずっと彩さんの言葉に励まされてきたんだよ。彩さんが俺に気付く前から」
気付く前って……?
「1人で悩まないでよ……俺の傍で笑ってて欲しいのに……俺は何もしてあげられないの?」
海は強い力で私を抱きしめてベッドに倒れ込んだ。
「彩さん……ずっと俺の傍で笑っててよ……」
私はされるがまま海を身体中で感じていた。
午前4時。
携帯が枕元で鳴って私は目を覚ました。
背面ディスプレイには“柴田”の文字。
「もしもし……」
『おはよう彩さん。安眠妨害してごめんなさいね』
「……いえ、海ですよね。今起こして帰します」
『お願いね』
最近この電話を受ける事が日課になっている。
「海、柴田さん来てるわよ。起きなさい」
私が海の身体を揺すると、海は顰めっ面で私の腕を掴んだ。
「目覚ましのキスしてくれたら起きる……」
そう言いながら私をベッドに組み敷いて無理やり唇を塞ぐ。
「しっかり起きてるじゃない……馬鹿」
海は私に微笑んで再び長い深いキスをした。
「彩さん、愛してるよ」
海は起き上がるとすばやく衣服を身に着け寝室を出て行く。
私はゆっくりと起き上がってシャワーを浴びるために浴室へと向かった。
何故だかほんの少しだけ、心の中の雲が薄くなった気分だった。
“彩さんの言葉に励まされてきたんだ”
昨日聞いた海の言葉……。
私は芸能界という世界を知らない。
知らないから適当な事も言えない。
何も言ってあげられないし、助けてあげる事も出来ない。
私は……一体何を言ったのだろう?
どんな言葉が海を励ましたのだろう?
全く分からない。
それでも、私の言葉ごときで海が元気になれたのならばそれでいい。
私が役に立てたのならばそれが嬉しい。
私は深く考えるのをやめて昨夜の汗を洗い流した。
8月1日。
今日はプレゼンの日だ。
私は1日の気力・体力・思考力を限られた時間に使い果たす勢いで臨み、確かな手ごたえを感じていた。
取れた……!
そう思えた。
「五十嵐さん」
プレゼンの後、自販機前で缶コーヒーを飲んでいると背後から声を掛けられた。
「相川常務……」
今日のプレゼンを聞きに来た望月建設の常務だ。
年は……おそらく50代。
斑に白髪が混じった髪をいつも綺麗にセットしている上品な空気を纏った紳士。
若い頃はきっと何かのスポーツをしていたのだろう。
がっしりとした体格をしている。
勿論、脂肪でではない。
最近よく言われているメタボリックとは無縁そうだ。
「お疲れ様。今日も分かりやすくて的確なプレゼンをありがとう。ち……社長にも嬉しい報告が出来そうだ」
ち……?
何か違和感あったな、今……。
噛んだだけ……?
「恐れ入ります」
私は深く考えるのをやめて軽く頭を下げた。
「義兄さん、こんな所にいたんですか? 下に車が……」
第三者の声に振り返るとそこには40代くらいの男性が立っていた。
常務の背後にいる私に気付くと軽く会釈して常務に向き直る。
「常務、社に戻りますよ。社長のように至る所で女性に声を掛けるのはやめて下さいね」
「彼女は社長お気に入りのお嬢さんだ。少し話をさせてもらって社長に報告すれば間違いなくご機嫌だぞ」
そういう事に私を使わないで下さい……。
当然言葉には出来ず、私はただ苦笑を返すしかなかった。
「言い訳は結構です」
「君の話をすると社長はとてもご機嫌なんだ。娘ような感覚なのかな?」
社長には娘さんがいないのかしら?
それよりも何故、孫ではないのでしょう?
私の両親はまだ50代。
社長は70を越えていらっしゃるし。
常務と私の両親の年齢はそう違わないはず。
だから“娘”という年齢ではないと思うのですが?
私は心の中でツッコミながら愛想笑いでその場を凌いだ。
「失礼ですよ常務……!」
男性は常務の腕を掴んで半ば強制的にこの場から連れ去った。
身内にしかできない強引さだ。
「……つ……疲れたぁ~」
傍にあった椅子に腰を下ろして私は頭を垂れた。
もう、今日は仕事にならないかも、ってと思うくらいの疲労感。
まるでフルマラソンを完走した直後のよう。
走った事はないけれど。
「生きてる?」
伊集院君の声が上から降ってきた。
「かろうじて……」
「今、相川常務いなかった?」
「見てたんでしょ?」
「……偶然、ね」
嘘吐き……。
眼が泳いでるわよ。
私は苦笑しながら缶コーヒーを口に運んだ。
「もう1本いる?」
「いい……胃に穴が開きそう」
「今日……やめとく?」
何を? とは訊くまでもない。
「帰りたいかも……」
さすがに今日は辛かった。
他人の代打ならばそれほど緊張しないけれど、指名されるとキツイ。
それも相手は大手。
年に数回だが、毎回凄いプレッシャーに苦しんでいたのは事実。
今までに何度もあったけれど、運良くプレゼンは“飲みの日”ではなかっただけ。
「大久保さんに電話しとくよ」
「ごめん、お願い」
あの店開店以来、初めてキャンセルの電話をする事になった。
前以て伝えていた海外研修を除けば、だが。
達成感と疲労感と安堵感が一気に身体中に広がっていく。
やっと終わった……。
後はなるようにしかならない。
私はやるだけの事はやった。
悔いはない。
更衣室に向かった私は、部屋の片隅にある椅子に腰掛けてテーブルに突っ伏した。
そしていつの間にか意識を手放してしまった。
勤務中だというのに……。
ご覧頂きありがとうございます。
彩の中に降り積もる不安とプレッシャー。
やっとプレッシャーから開放されて、残されたのは不安だけ。
でも、仕事中に寝ちゃうのはマズイっしょ……。




