第一シリーズ 第2章 盲目の猟犬と、嗅覚の森
森の夜は、息をひそめていた。
風も鳴かず、虫の声すらない。
代わりに、どこかで小さく「ひゅう」と、誰かの呼吸のような音がした。
レオンは松明を掲げ、声のした方へ歩く。
茨が足首に絡みつくたび、かすかに青白い火花を散らした。
「……森が怒ってる」
囁くと、周囲の木々がわずかにざわめいた。
その瞬間――
「……動くな」
低く、喉を震わせる声。
次の瞬間、首元に冷たい刃のようなものが当てられた。
それは、牙だった。
---
> 「……人か?」
「そうだ」
「ふん、匂いでわかる。……だが、妙だな」
声の主は、影の中から姿を現した。
月光に浮かび上がったのは、一匹の大きな猟犬――ただし、その両目には古びた布が巻かれている。
灰銀の毛並み、体に刻まれた無数の古傷。
その嗅覚は、空気の湿り気さえ感じ取るほど鋭かった。
「森番の息子か。……お前の匂いは、木と土と、祈りの匂いがする」
「祈り……?」
「そうだ。お前はまだ、森に嫌われていない」
犬はゆっくりと牙を引き、座り込んだ。
「名は?」
「レオン。森を見張る家の息子だ。君は?」
「俺はヴァルド。かつて“狩る者”だった」
ヴァルドは嗅ぎ取るように鼻を鳴らし、静かに言葉を続けた。
「……今は“狩られる側”だがな」
---
> 「なぜ、こんな所で?」
「魔女に、目を奪われた」
その声には、怒りよりも乾いた寂しさがあった。
「俺は人間たちに仕えていた。だが、命じられるままに森を荒らし、
獣を狩り、木を焼いた。
その報いが、これだ」
布の下から血のにじむような傷跡が覗く。
「……それでも、生きてる」
「生きるしかない。匂いだけが、俺をこの森と繋いでいるからな」
レオンは小さく拳を握った。
「ヴァルド。俺は森の呪いを解きたい。魔女たちを倒すんじゃない。
本当の“森”を取り戻したい」
その言葉に、犬の耳がわずかに動いた。
「……ずいぶん人間離れした願いだな」
「君も、そう思う?」
「いや。……悪くない匂いだ」
---
> 沈黙。
風がわずかに吹き、森の奥から白い霧が漂ってきた。
「ヴァルド、もし……その目を取り戻せたら、君は何をする?」
「目を……?」
犬は顔を上げ、空気を嗅いだ。
「……見たい。
森の本当の姿を。俺が傷つけたこの地が、どんな顔をしているのか。
それを見ずに死ねるほど、俺は強くない」
「……なら、俺がその目を取り戻す」
「なに?」
レオンの声は揺るがなかった。
「俺の“五感の一部”と引き換えに、君に“視力”を渡す。
森の力を媒介すれば、できるはずだ」
「馬鹿な!」
ヴァルドが吠えた。森がざわめき、枯葉が宙を舞う。
「人間が、感覚を削るということがどれだけの代償か、わかってるのか!」
「それでも構わない。俺は、誰かが苦しむのを見過ごせない」
犬は唸り声を止め、しばらく黙った。
やがて、ゆっくりと息を吐く。
「……いいだろう。契約は成立だ、レオン」
---
> レオンはチャームを握り、目を閉じた。
琥珀が淡く光り、二人の間に風が渦を巻く。
そして――
ヴァルドの瞼の下に、光が灯った。
布の奥から、初めて見る“世界の色”が流れ込む。
「……見える。……森が、泣いている」
「本当の姿を、見てくれ」
ヴァルドの頬を、一筋の涙が伝った。
だがそのとき、レオンの体がよろめく。
「レオン!?」
「……大丈夫。ただ、少し……匂いが、消えた」
彼の鼻腔は、森の香りを失っていた。
最初の“代償”が、支払われたのだ。
――目を得た獣は、涙を知る。
涙を失った人は、香りを知らぬ。
それでも彼らは、同じ道を歩く。




