#04 カーリー・ワトソン
居住区画第2層──…北のシャフトから下ったタウンの端、ピープルの住まうアパートの入り組む路地の中に『リンドグレーンの本の店』は在った。
扉を押して中に入ると〝本の匂い〟に迎えられる。
紙やインク、装丁に入っている化合物などが入り混じったあの独特の匂い。この〝匂い〟が嫌いじゃないことに気付いたのは、いつだろう……。
俺はそんなことを思いながら、『リンドグレーンの本の店』の中の書棚と書棚のわずかの幅の通路を何とはなしに見遣りながら、歩みを進める。
この店にはインデックスのような〝気の利いた〟ものはない。もちろんハンドセットからのオンライン在所検索も利用できない。当然、AIの〝レコメンド〟もない。
〝一期一会〟を期待して、ただ店内をさ迷うのだ。
そもそも、わざわざ紙媒体から情報を得ようなんて奇特なやつを相手に商売が成立するのが不思議といえば不思議だが、現実に『リンドグレーンの店』はここに在った。
ここを知ったのは、やはりジョーの導きだ──。彼女があんなことになる前、クリスマスの贈り物のお返し──俺はジョーへの贈り物を用意していなかった(ダニーのやつはちゃんと用意していた)…──を探しに二人でタウンに出たとき、彼女に連れられて初めて此処に来た。
〝なんで印刷されたコンテンツなんだよ〟
店を出て最初に出た俺の言葉がそれだった。娯楽情報ならハンドセットにダウンロードすればいいと、あのときの俺は思っていた。
〝紙なんて復古メディア、面倒なだけだろ?〟
〝そうかしら……〟 そんな俺を見返したジョーが、
〝……ステキじゃない?〟
ちょっと大人びた微笑でそう言ったのを覚えてる。
そんな追憶の中で書棚に伸ばした指先に、何かが触れたのを感じた。
他人の指だ…──『鋼鉄都市』とある背表紙に、俺と誰かの〝指〟が同時に伸びていた。
「失礼」
「いえ……こちらこそ」
互いに指を引っ込めると同時に相手の顔に顔を向けていた。俺の視線の先でヘイゼルの瞳の〝美人の相〟が、恐る恐るに、だが邪気のない表情で見返してきていた。こちらが警戒を解くように笑顔を作って返すと、すぐに屈託のない笑顔を返してきた。
なぜだろうか……。
その顔が、シティに上がる前のジョーに似ているような気がした。
「もし…──」
店を出て路地を抜けようとしたとき、〝美人の相〟の彼女の声を耳が拾った。
俺は立ち止って『リンドグレーンの本の店』の方に顔を戻す。扉を押し開きしなの彼女が、俺の向けた顔を認めて笑顔を作った。俺の方が〝どんな表情を返せばいいのか〟戸惑ってしまっていると、彼女はスタスタと近寄ってきた。
「──あなた、古典SFが好きなの?」
勢いに呑まれ言葉がすんなりと出てこない俺に、彼女はトートバッグから『鋼鉄都市』を引っ張り出しながら、にっこりと微笑んで言った。
「譲ってくれてありがとう……これ、ずっと探していたのよ」
「ああ、それは……」 俺はといえば『鋼鉄都市』にそれほどの想い入れはなかったので──そもそも今日初めて知ったタイトルだ…──笑顔の彼女に戸惑いを隠しつつ応じた。
「……よかった、うん……その本も、君に見つけてもらって──」
「──カーリー・ワトソン」
俺の言葉を遮って彼女──カーリーは右手を差し出してきた。俺は反射的にその手を取り、名乗り返していた。
「あ……ジェイク……、ジェイク・ハックマン」
その時には彼女は辺りを見渡していて、何かに当たりが付いたふうな表情になると、再び顔を向けてきた。
「ね、ハックマンさん、お茶をご馳走したいわ。本のお礼をしたいし、それに〝同好の士〟に出会うなんて、今日はいい日ですもの」
勢い込んでそう言う彼女に、俺は込み上げてきた苦笑を隠すことができなかった。
そんな俺を見上げようやく怪訝な表情となった彼女に、俺はばつの悪いふうな表情を装い言う。
「──…いや、随分と〝大胆〟なんだな、って」
「…………」
すると彼女は小首を傾げ、〝自分がどのように見えるか〟について思案する表情になり──、
「ああ……」
程なく思い至った自らの状況に形の良い眉を寄せてみせた。それから、いったん頭に昇りかけた血を鎮めるように、ツンとした表情になって言った。
「──…言っておくけれど、わたし、そういう〝身持ちの悪い女〟じゃないわ」
自分自身の行いについて、思いがけない文脈で〝大胆〟と言われてしまい戸惑っている、というのが、ありありと表情に浮かんでいる。
それでも彼女が踵を返さなかったのは、べつに本気で怒っているというわけじゃないからだろう。
引っ込みが付かなくなったその表情が、とてもチャーミングだった。
「わかってる──」 俺は助け舟を出してやることにした。「そういう女は古典SFを紙の本で読んだりしない……だろ?」 お道化たふうにそう言ってやる。
その言葉に、彼女──カーリーは不承不承というふうに肯いてから、やがて本当に得心がいったという表情になった。
それで俺も表情を改めて言った。
「ジェイクって呼んでくれ。ハックマンで呼ばれるのは好きじゃないんだ」
「……オーケー、ジェイク…──」
カーリーは俺に向き直って、それから先に当たりを付けていたと思しき露店のガラスケースを指差して訊いてきた。
「──それで、どうするの? 受ける? 受けない?」
正直、この時点で下心のようなものが皆無だったわけじゃなかったが、俺はとりあえずそういうものを脇に置き、彼女に肯いて返した。
カーリー・ワトソンはハニーブロンドの巻き髪をショートボブにした、気の強そうなヘイゼルの瞳が印象的な女性だ。24歳という年齢は後から知ったが、そうすると俺より3歳ほど年長になる。それが本当なら少し童顔かも知れない。
彼女は路地の露店でスコーンとコーヒー(コーヒーだって⁉)を注文し受け取ると、タウンの端に伸びる緑化帯まで先に立って歩いていって、空いていたベンチに腰を下ろした。
緑化帯があるのは知っていたが、ここに来たのは初めてだ。
カーリーは再生紙の袋から同じく再生紙で出来たコーヒーのカップを取り出して俺の方に差し出した。
「砂糖とミルクは?」
俺が〝いらない〟とを手を振ってからカップを受け取ると、彼女も自分の分を取り出して俺にも座るよう促した。俺が隣に…──少し空けて座ると、間のベンチの上にスコーンとジャムとソースを並べ、手振りで〝どうぞ〟と小首を傾げて笑顔になる。俺が手を出すのを待っているのだろう。俺はプレーンスコーンを手に取りそのまま口に放り込んだ。俺は、一つ目は必ず何もつけずに食べることにしているのだ。
バターの塩味とクリームのほんのりとした甘さを確認する。……悪くない。
このままだと少しパサつくが、それでもCレーションに慣れた俺には十分だった。
「……何も、付けない?」
笑顔を張り付かせたカーリーが、まるで不思議なものでも見るような目で、わずかに非難する様に訊いてきた。
「一つ目はね…──〝俺だけの決め事〟みたいなものだけど……」
予想外な戸惑いを見せた彼女に、俺は応じてやった。「……美味いよ、コレ。ブルーベリーの方が合うと思う。もとから少し甘く味が付いてる」
彼女はブルーベリージャムに目線をやり、プレーンスコーンと紙製のナイフに手を伸ばした。一口目を口元に運ぶと、満足そうに、満面の笑みとなった。
そういう彼女を横目に、水気の乏しいスコーンを流し込むためにカップのコーヒーを一口啜った。そのときの俺の表情を目に留めた彼女が、また目をパチクリとさせる。
「…………」 仕方ないので肩を竦めて説明して返してやった。「いや…──コーヒーなんだ、って……」
それで何かに思い当たったか、彼女が途端に大きく口を開いた。
「ごめんなさい! コーヒー、ダメだったかしら?」
表情が豊かな娘だ。見ているだけで何だかこっちも幸せな気分になれる。
俺もお道化た表情になって応じた。
「これでも〝大英帝国の末裔の一人〟だからね。タウンではずっと紅茶を通してきたんだ」
大英帝国の末裔──…少なくとも初等教育ではそう教えられている。
さて、カーリーの方はというと、そう言った俺に物言いたげな目を作ってはみせたが、
「それは……わたしの粗相だったわ。お詫びしなくちゃね……」 結局、すぐ目許に笑いを浮かべて口を開いた。
「いいわ、もしこの次の機会があったら…──あれば、ですけれど……、そのときは正式な〝アフタヌーンティー〟を振舞わせて頂くことにします、ミスター……」 そこで〝ハックマンと呼ばない〟との約束を覚えていたようで、ちょっと言葉を詰まらせる。さりとてファーストネームに〝Mr.〟はない……。
「──ジェイク……ハックマン」
結局、彼女はフルネームで呼びかけることで乗り切った。
「いいよ。悪かった──」
俺は自然に込み上げてくる苦笑を噛み殺す。そしてカーリーが魅力的なのを認め、笑顔を向けて言った。
「コーヒーが好きじゃないことを言わなかったのは俺だ。次はぜひ、俺に振る舞わせて欲しい」
彼女が俺の謝罪を受け入れると、今度ははっきりと勝気な顔に笑みが浮かんだ。
その顔を見てあらためて俺は思った。
ああ。やっぱりジョーに似てるんだ、……と。
「うそ! トループスなの?」
その後の会話はつつがなく〝本のお話〟で盛り上がったのだったが、軽い自己紹介でトループスをやっていると口にした途端、カーリーは頓狂な声を上げた。
俺がその顔を見返すと、慌てて顔を逸らしてしまった。
そのままこぶしを形の良い頤に当てて思案顔となる。
俺がさすがに不安になってその横顔を覗き込んでいると、少し怒ったような声が聴こえた。
「わたし、トループスって嫌いなのよ……」
「…………」
固唾を呑んで見守っていると、やはり彼女は〝自分だけ〟で答を見つけたようで、
「いいわ……」
一つ頷いてから俺の方を見上げて宣言した。「──そのことは〝今日の出来事〟と相殺としてあげる。だから、ここから先はあなた次第、ね?」
割と真剣なその表情に俺は呑まれ、
「……努力させてもらいます」
などと応じている。
その後、どちらからともなく笑みが漏れてひとしきり笑い合ったのだったが、
「──そう……、トループス、なのよね……」
カーリーの少し残念そうな呟きが小さく耳に残った。
そうして、久しぶりに楽しい時間を過ごしていると、人工太陽灯に照らされたベンチの上に影が掛かった。影の方に視線をやると、側に〝人影〟が立っていた。だが、それは〝人〟じゃない。人間を模したロボットだ──。
『こんにちは。〝Monitoring Agency《監視機構》〟のパトロールです』
ロボットが、敢えて少しばかり〝機械臭さ〟を残された合成音で話しかけてきた。
どこからどう見てもそのことは〝一目瞭然〟だったが、彼らは律儀に自己紹介を終えてから本題に入る。
『行動記録を確認させて頂けますか? 個人端末の提示を』
俺はハンドセットを差し出した。言葉尻こそ丁寧ながら半強制なのが自明だからだ。
ロボットパトロールは読み取り機に繋いだハンドセットを、ほどなくして俺に返して来た。
次はカーリーの番で、不承不承に見える彼女も、自分のハンドセットを差し出した。
やがてロボットパトロールは彼女にハンドセットを返すと、俺たちに向き直って言った。
『〝リンドグレーンの本の店〟を巡られたのですね。当該の店舗は店舗内の行動履歴が残りません。お手回りの所持品を確認させて頂きます』
その杓子定規な云い回しをするロボットパトロールの顔──彼らは〝皆同じ顔〟に造られている…──の表情も、声と同様にやはり〝機械臭さ〟が残されていて、まあ、確かに癇に障るものだ。
カーリーの表情がいよいよ険しくなったが、俺の心配を余所に、彼女は何も言わず自分のトートバッグを──これ見よがしに──大きく開いてみせた。
ロボットパトロールは複合センサーの眼をトートの口に向けて中身の走査をし終えると、
『ご協力ありがとうございました〝Ms.〟ワトソン──』
と、俺たち人間の感性には無理のある〝にこやかな〟表情を作って返してきた。そうして続けた言葉には笑うしかない。
『──血圧と心拍数が上昇しています。あなたはストレスを感じているようです。安定剤の処方はご入用ですか?』 …──中々にシュールだ。
カーリーはさらに表情を硬くしたが、結局、溜息交じりに返した。
「いいえ、結構よ。アナタが行けばもとに戻るから」 …──おおう、言うね。
ロボットパトロールは、美人のそんな仕打ちにも丁重に肯いて返すと、次にその造り物の頭を俺の方にも巡らした。
『──〝Mr.〟ハックマンも、よい午後を』
そしてそう付け加えると、もう一度丁寧に一礼して去って行った。
「〝ストレスを感じているようです〟ですって…──」
憮然とした表情でロボット見送ったカーリーだったが、その後、呟くように言った。
「これじゃ監視されてるのと同じよ。大昔に地球にあったという病院か動物園……」
その言葉に、俺は思わず彼女の顔を見遣る。カーリーは顰め面を解いて肩を竦め、無理な笑いを返してきた。
俺が少し言葉を探していると、俺たちの座るテーブルの背後…──緑化帯の端の繁みの枝が激しく鳴った。カーリーが跳び上がるようにして背後を見遣る。
直後、〝緑の包み〟を破るように人が飛び出してきた。カーリーが、今度こそ跳び上がって、俺の背後へと小走りする。
そんな俺たちの前で彼は、緑化帯の歩道の〝レンガを模したタイル〟の上を獣のような身のこなしで一転二転して、素早く身を起こした。
──脱兎、という単語があるが、当にそんな感じだ……。
が、実際に駆け出すことは出来ず、彼はここで動きを止めた。
気付けば、そんな彼の周囲を3体のロボットパトロールが囲んでいた。糅てて加えて、上空には4ローターのドローンが2機舞っていて、その何れからもレーザーポインターの赤い線が伸びている。追跡下にある、ということの示威だ。
『〝Mr.〟チャリントン。MAはあなたの〝急進的反動行動への志向〟は問題を引き起こすレベルに達したと判断しました。矯正の必要があります…──認めますか?』
例の〝機械臭さ〟の残る合成音が、〝彼〟──チャリントンに投げ掛けられる。
チャリントンはロボットパトロールを見渡し、そこに居合わせた俺たちの視線も確認すると口惜しそうに歯を喰いしばったが、最後には深く息を吐き出し、両手を上げたのだった。
背後からジャケットの袖を握るカーリーの手の震えが伝わってきた。
その後俺は、すっかり口数の減ったカーリー・ワトソンと連絡先を交換し、手配した車に乗せた彼女を見送ってから、自分のアパートメントへと歩いて帰る。
帰路、ぼんやりと考えていた。
タウンでの〝捕り物〟…──こういうことは滅多にないが、かといって〝俺たちの日常の外の風景〟というわけではない。MAの態勢は大多数の人間にそれなりに十分な〝満足〟を与えており受け入れられてはいたが、それでも〝急進的反動行動〟…──反体制を志向する者は、必ずいつの時代にもいたようだった。
彼らは当局によって捕らえられ──強制的な逮捕拘束ではないが…──〝矯正〟という再教育プログラムを受けさせられる。──今日の〝彼〟……〝Mr.〟チャリントンがそうだ……。
いっそ〝バカなこと〟のように思えるが、〝そういう存在〟の影を、常に日常の中に感じてきたように思える……。
どうなのだろう。
カーリーはどう感じているのだろうか…──。
〝動物園〟…──そうだった……。ジョーも、そんなことを言っていた。




