第89話 口約束
戦争が当たり前でなくなった時代にアルティア教国内の有数地を傭兵団が占有する状況が疑問視された。
カリスマであるアルティアが生存している間は心配ないだろう。
けれども、アルティアがいなくなった後は別だ。
自分がいなくなった後、後継者たちは信者ら国民の声を聞かざるを得なくなっていくだろうことをアルティアはよく分かっていた。時代ごとの考え方というものもあるだろう。
「君たちの居場所を確保したい」
アルティアは自分が後継者として選択した弟子の一人を立ち合い人に、マリアと『半血』の居留地に対する借地契約を交わすことにした。
何も『半血』を狭い場所に閉じ込めようというつもりではない。
場所は、今までと同じアルティア随一の港を含む好立地だ。港があるからアルティア教国に留まらず広く世界に出て行けるであろう。傭兵として遠征も可能だ。逆に広く世界から同じような境遇の仲間も連れて来られる。
アルティア教国は『半血』に居留地の租借を認める代わりに、『半血』はアルティア教国が敵と戦う場合には肩を並べて戦う。但し傭兵としてこれまで同様に扱い個々の戦闘参加に対する対価を支払い、額は事前に協議する。
ざっくりとした契約内容はそのようなものだ。関係者からは後に盟約と呼ばれた。
期間は百年。永久契約としなかったのは期間が決められていれば決められた期間の範囲内くらいは契約を守ろうとする意識が働くためだ。永久と謳ってしまうと契約の破棄や撤回に向けた動きが活発化する。期限があれば信者である国民に詰め寄られても、アルティア側の担当者が『期限が迫ったら再考を検討する』と先送りして逃げることが可能になる。もちろん、再考せずに更新しても良い。
マリアとしては立場の弱い半獣人たちが生活基盤を確立するまでの当面の生活手段としての傭兵だった。
少数派の中の少数派である半獣人が他の種族の中で普通に生きていける世の中になれば『半血』の傭兵村に生まれたからといって傭兵になる必要はないし村に残る必要もない。自由に自分の生きたい場所で生きていけばいいという考えだ。
その結果、全員いなくなってしまって『半血』を存続させる必要すらなくなるのであれば、それに越したことはない。
だから、『半血』だけの居留地という立ち位置に疑問を持った。
手に職がない半獣人たちに傭兵として自分を守れる技術を学ばせ、傭兵を引退したならば傭兵あがりのパン屋であるとか花屋であるとか、みんなで街に馴染んで生きていく。半獣人が傭兵を経ずに最初からパン屋や花屋として生きていけるなら、なおのこと良い。
マリアの望みはそれだ。
『半血』との借地契約を結ぼうとするアルティアに対して、「こんな大層な真似をしなくたっていいのではないか」とマリアは笑った。
一方のアルティアは、
「長寿な君と違い裸猿人族はすぐ代が変わるのだ。紙に書いて記録に残したところで次の代は自分とは関係ない話だと思うだろう。また次の代は昔話だと笑うだろう。百年もすれば最初の志はどこかに行ってしまうかも知れない。もし志が残っていれば次の百年もこの契約は続けられるだろう。けれども、もし志がなくなっていた時、君が私に変な義理立てをせず心置きなく私たちから離れて行けるようにするために逆に大層な真似をしておくのさ。決め事として期間があれば過去の人間が約束したこととはいえ、その間くらいは契約を守ろうとするだろう。だから君の目から見てアルティア教国が変わっていくようであれば、それまでに準備を進めておきなさい」
何の準備とは言わなかったがアルティアはそう言って笑った。
「契約の当事者双方に異存がない場合は、この契約の更新は百年ごとに自動的に行われるものとする。なお異存がある場合は、当事者の一方から他方へ書面、口頭、その他の方法により申し入れを行い協議するものとし、契約満了日までに協議が整わない場合は、お互いの心が寄り添わなくなったとして該当する土地の所有は元に戻る。契約の末尾はそう結ぼう。元というのは君と私がアルティアの地を開拓する以前という意味だ。当時、所有者は誰もいなかった。所有者が誰もいない土地の所有を誰かに認めさせる方法は一つだけだ」
武力である。
契約文の中にあるアルティアとマリアの『元』という言葉の共通認識はその会話だ。もはや聞いていた者はマリアしか生きていない。アルティアは会話の数日後に世を去った。
「紙に書いて約束したところで裸猿人族はすぐに忘れてしまうけれども君ならばただの口約束だって百年後も覚えていてくれるだろ。もし後進が志を忘れてしまったら君の手で『元』に戻してほしい」
死の間際、アルティアは達観した顔でそう笑った。
「君と出会えて良かった」