第117話 甘い
カシュー枢機卿は少年をぼくたちに紹介した。
「こちらはアルティア教の精神的指導者であり、『天に昇りし大アルティア』の御血脈であられるノマネ・アルティア八世猊下です」
はあ、としか言いようがない。大教皇が、ぼくよりも子供だとは思わなかった。
はたして宗教的、政治的な難しい判断ができるのだろうか?
そもそも子供が大人に対して精神的に何を指導するというのだろう?
ああ、だから大教皇への助言役として枢機卿が必要なのか。
とすると、実質の教会のトップは枢機卿?
そんな考えが頭をよぎる。
大教皇が『アルティア〇世』を名乗るのは伝統らしい。
きっと少年の本来の名前がノマネなのだろう。
大教皇がアルティアの御血脈だという話はマリアから聞いていた事実とは、まるで違う。
教会ではそういう方便にしているのだろう。
ここ何代か大教皇の地位は世襲で引き継がれているそうだ。
初代であった大アルティアは弟子に地位を譲り、その弟子も自分の弟子に地位を譲ったが代を重ねるうちにいつしか世襲になっていた。教会の私物化だ。
そうでもなければ子供に大教皇なんて大役は任せないだろう。
それとも何か奇跡的な力の持ち主なのか?
マリアは、アルティアは普通の人だったと言っていた。
教会からは生きたまま天に昇った『聖人』、転じてアルティアは『神』になったとされているけれども実際のアルティアは天になど昇らず老衰で亡くなったのだ。生涯独身で。
ぼくと王国の斥候は、ぺこりと大教皇にお辞儀をした。
大教皇が口を開いた。
「『炊き出しのバッシュ』殿に会えて嬉しく思う。アルティア教徒たちの苦境は、かねて朕も憂いていたところだ。全アルティア教徒を代表して貴殿の行いに感謝の意を表したい」
一生懸命覚えたセリフを、そのまま話したという口調だった。言うほど何かを感謝しているという熱意は、まったく感じられない。
この子は本当に現実を分かった上で話しているのかな?
「ぼくが炊き出しを行ったわけではありません。王国と『半血』の皆さんが国都のあまりの惨状を見かねて立ち上がった結果です。感謝は、ぼくよりも彼らにお願いします」
大教皇は、ぼくの顔を見たまま固まり自分の隣に立つ枢機卿の顔を見上げた。ぼくが言葉を返したので驚いたらしい。
普通であれば大教皇が一度口を開けば、声を掛けられた者は、ははあ、と賜るだけなのだろう。生憎、ぼくは違った。
「さすが謙虚ですな」
大教皇に代わって枢機卿が口を開いた。
「ですが真実に蓋はできません。教徒たちが『炊き出しのバッシュ』という二つ名を口にしているのは、やはりそれだけの理由があるためでしょう。本日は、ぜひそのあたりのお話をお聞かせください」
枢機卿は、脂で、てかてかとした顔で、ぼくたちに席を勧めた。
ぼくが枢機卿の前、王国の斥候が大教皇の前だった。要するに大教皇ではなく枢機卿が、ぼくと話をしたいという意向なのだろう。
ぼくたちは席に座った。大教皇と枢機卿も腰を下ろした。
枢機卿の背後にある壁の端には衝立が置かれている。ぼくたちから見ると枢機卿の斜め右後ろにあたった。配膳のために隣室と出入りするための扉を隠す目的の衝立だ。
ぼくたち二人が席に着いたところで衝立の裏から何人か給仕の人が現れて、お茶が運ばれて来た。
同じティーポッドから分けて注ぐ形で、大教皇と枢機卿、ぼくと王国の斥候にそれぞれカップが差し出された。
枢機卿が自分のカップに口を付けて一口飲んでからカップを置いた。
大教皇は小さな容器に別に入れられていた蜂蜜をたっぷりと自分のカップに注いでいた。
ぼくと王国の斥候は手を動かさない。
枢機卿が口を開いた。
「まずはお呼び立てしたことをお詫びしたい。こちらから足を運びたかったのですが、いささか予定外の不自由が生じており大聖堂を離れられませんでした」
国都ばかりか大聖堂そのものが包囲されている現状を指しているのだろう。自業自得だ。
マリアの読みでは大聖堂は外の情報と、そもそも教会と接触するつもりのない『半血』のマリアとの交渉窓口を欲しがっている。
そのために狙いを付けられたのが裸猿人族のぼくだ。
実際のところ、この場にぼくを呼ぶという判断は大教皇ではなく枢機卿の考えだろう。大教皇は、まだ子供だ。マリアたちと政治的な話をしたがるとはちょっと思えない。
だとするとアルティア神聖国に王国への侵略を指示した人間は、やはり枢機卿だ。
枢機卿の元々の予定では『半血』はアルティア神聖国側兵力として王国に侵略をし、今頃は炊き出しではなく戦利品としての食料を手に入れていたはずだ。
まさか反対に自分たちが『半血』に攻められるなど予定外もいいところだろう。
それでも枢機卿も大教皇も十分すぎるほどふくよかだ。
少なくとも大聖堂の敷地内には、まだ十分な食料があるらしい。
飢えている国都の住民はもちろんだけれどもアルティア兵にすら十分な食料が行き渡っていない状況においても自分たちの食料は自給できているのだろう。そういう計算の上の籠城だ。
ぼくたちの前には飲み物だけでなく、もちろんお茶菓子も並べられていた。
クッキーやマドレーヌといった手でつまんで食べる類のお茶菓子だ。
もちろんナイフやフォークといったカトラリーを必要としないお菓子である理由は、ぼくたちに凶器として悪用させないためだろう。
ぼくはマドレーヌを一つ摘まんで口にした。
甘い。
ぼくは、はあ、と皮肉を込めて息を吐いた。
「市民とは違って甘いものを楽しむ余裕があるのですから、そう不自由ではないでしょう」