彼女の咲く季節
僕はまだ逡巡していた。あの男を止めれば向日葵が強盗に遭うのは未然に防がれ、彼女は無事で済む。だがこの世界のほうはどうだ。死ぬはずだった人が死なずに済むというのは健全な世界とは思えない。どこかで歯車が狂うんじゃないか。僕なんかが世界を狂わせてしまっていいのか。
「私はね、私自身の意志で歴史の流れを変えてはいけないの」
向日葵が以前口にした言葉だ。そうだ。未来人が引っ掻き回すのは危険だが、僕は「今」を生きる人間だ。ならば僕が僕の意志で未来を変える分には許されるのではないか。
だがその推測がもし間違っていたら? たぶん取り返しのつかないことになる。
不審な男は押し入る家を見定めようと、付近を歩き回っている。早く止めないと、向日葵の家に狙いを定めて侵入してしまう。
何か——何か確実な情報はないのか。僕はこのまま向日葵を救っていいのか。
向日葵が「未来と戦うために来た」と言った真意を考えてみる。そもそも十年後に過去に戻る技術が生まれているということ自体非現実的だが、現状を説明するにはそう考えるしかないだろう。それを仮定したとして、十年前の現在ですらタイムトラベルが実現していない以上、おそらく十年後の未来であっても分からないことだらけだと思われる。
それを踏まえれば、「未来と一緒に戦う」相手は“現実”そのもの——向日葵の家族が理不尽に殺害された辛い現実——なのではないか。彼女はその現実を打破すべく、未来の技術者の助けを得てこの現在にやってきた——。
推論どころか憶測にも満たない代物だが、そう考えれば一応筋は通る。では彼女は現実を打破すべくどうしようとしたか? 彼女自身の意志で歴史の流れを変えてはならないのなら、現代人の意志を借りるほかない。
「——僕か」
彼女はずっと消極的で、自ら何も行動しようとしなかった。
……怪異だの何だの思わせぶりなことばかり言って勘違いさせやがって。たしかに彼女から「強盗を止めてほしい」と僕に直接頼んでしまっては、僕の意志でやったことにはならない。すべては僕自身の意志で決めさせるために——。
おかげで僕はこんなとこまでやってきてしまったじゃねえか。それも自分の意志で。
僕は物陰からすっくと立ちあがり、歩き出そうとした。
いや、待てよ?
動かそうとした足を止める。
じゃあ彼女が「すべて忘れてほしい」と手紙をよこしたのはなぜだ? そんなことをしたら計画が全部パーじゃねえか。それに僕の家族構成を聞いてきたのも理解できていないままだ。
——そのとき、僕は彼女の真の恐ろしさに気がついた。他人のことを思うその底知れぬ精神力に。
彼女だって両親を殺した強盗を心の底から憎んでいたに違いない。でも過去に戻って強盗を止めるのには、多少なりとも世界が狂うのは避けられない。強盗を止めるのは僕自身が決心したとしても、彼女が自分の家の場所を教えたりしている時点で彼女の意志も反映されているからだ。過去を変えることに相当な危険が伴うのは想像に難くない。
そんななかで彼女は思い出してしまったんだ。ドッジボールをして遊ぶ子供たち。僕のかけがえのない家族。世界が狂うということは、その全員を危険にさらすということだ。だから彼女は直前で思いとどまった——。
「ええい! 少しは自分の心配をしろ!」
確実な情報なんてありやしない。でもだからって、何をしようと僕の勝手だろう。僕は目の前で殺されるかもしれない人を救うだけだ。後のことなど知ったことではない。
少し大きい声を出してしまった。男がギクリとしたようにこちらを振り返った。
僕は男の目の前に飛び出した。
「なあ、おっさん。そんな恰好で何してんだ?」