彼女の過去
未来と……戦うため? 彼女の口から唐突に飛び出した壮大な一言に気圧される。
「……一応の確認だけど、未来ってのは人名じゃなくて未来完了形とかの未来?」
ちょうど今日の英語の授業に未来完了が出てきたので謎の表現になってしまった。しかし向日葵はいたって真面目な表情でうなずいた。
「そう。future」
ネイティブばりの綺麗な発音だった。彼女は艶やかな黒髪をかきあげた。
「ここまで来ちゃったら、私が小学校の2年生だった頃のことを話さなきゃだね。今時間ある?」
「いくらでも」
嘘だ。塾が押しまくっているので早く寝ないとまずい。できることなら今すぐにでもベッドに入りたい。
でも今ここで帰るわけにはいかない。話の先が気になってしょうがない。
そんな僕の葛藤を知ってか知らずか、向日葵は居住まいをただして語り始めた。
「別にそんな長い話ではないんだけど。小2の頃、お父さんやお母さんと川の字になって寝てたらね、真夜中に窓がパリーンって割れる音がしたの。音に気づいたのは私だけだったみたいで、お父さんもお母さんも爆睡してた。そっと寝室からリビングを覗いたら、真っ黒な覆面を被った人が忍びこんできてた」
想定外に重たい話で、僕はたじろいだ。
「怖くて怖くてたまらなかった。急いでお母さんを起こそうとしたんだけど、そしたら覆面の人に気づかれちゃって。あとはよく覚えてないんだけど、覆面の人が家の包丁をキッチンから抜いて襲いかかってきて――」
向日葵はそこで言葉を切り、ワンピースを左肩だけはだけさせた。脇の辺りから斜めに胸のほうへ向けて痛ましい傷痕が残っていた。
彼女は服を元に戻してから、目を伏せた。
「私の家はお世辞にも裕福とは言えなかったと思う。ご飯は塩にぎりか味噌汁ばっかりだった。泥棒に盗られて困るものなんて一つもなかったし、やるなら勝手にしてくれてよかったんだけど……結局私だけじゃなくてお父さんもお母さんも刺されて。二人とも死んじゃった」
向日葵が空を仰ぐ。
「あの日も綺麗な満月が出てたっけ」
彼女の口調は終始淡々としていた。感情をできるだけ干渉させないように努力しているようだった。その態度がむしろこちらの気持ちを高ぶらせた。
「そんなのって……ないよ」
「私もそう思う」
私も、じゃない。僕なんかより痛いほど身に沁みて理解しているはずなのに。もっと反論して、怒りをぶちまけてくれてもいいのに。
晴れ渡っていた星空に一筋の雲がかかった。月が陰った。
「私はここで戦わなくちゃいけない。でも時間の猶予はもうないんだ。私がここにいられるのは明日――つまり15日まで。さっき話した命日は8月16日なんだけどね……。16日まではいられないって決められちゃってるみたい」
居ても立ってもいられなくて、僕は間髪置かずに尋ねた。
「来年もまた来る?」
向日葵は無言で首を振った。僕は顔をうんと近づけた。
「無理なのか、どうしても」
彼女はやはり首を振る。
「ごめんね。できたらそうしたいんだけど、もう決まっちゃってることなの。柊君とはあさってには会えなくなるし、私はそれまでに決着をつけなくちゃいけない」
彼女の未来との戦い。それはおそらく犯人への復讐。明日、自分と両親を殺した犯人を見つけて、恨みを晴らす。あるいはもしかしたら同じ包丁で殺り返すのかもしれない。そういう腹づもりなのだろう。
向日葵が口をつぐみ、空を見上げた。僕もつられて星空を仰ぐ。一筋の流れ星が横切った。
そうか、今はペルセウス座流星群の極大期か。
そんな心底どうでもいいことを考える。本当は彼女に掛ける言葉が見つからなくて、考えることから逃げているだけなのかもしれない。
全く、僕はちっぽけなやつだよ。こんなときでさえ逃げようとするなんて。
受験勉強ごときに理不尽だなどと、何を甘ったれたことを言っていたんだろう。向日葵の苦しみを地球の大きさとすれば、僕の悩みなんか針の頭程度じゃないか。
向日葵がこちらを向いてぎこちなく笑った。
「柊君まで気を落とすことないのに。ごめんね、気を遣わせちゃって」
僕は慌てて手のひらを振った。
「こっちこそごめん。何もしてあげられなくて」
「これは私の問題。柊君が悩む必要なんてないの。心配してくれてありがとね」
彼女のまっすぐな眼差しに吸い込まれそうになる自分がいた。
彼女が目を細めた。
「ねぇ、時間大丈夫?」
腕時計に目を向けると、終電間近だった。
「じゃあそろそろ帰る。――あのさ」
「うん?」
「向日葵と昼間に会うことはできないのか?」
向日葵はつぶらな瞳をパチクリさせた。
「別に明日までならいつでも会えるけど……」
僕は意を決した。
「明日の朝9時、ここでもう一度落ち合わないか」
「いいけど柊君は忙しいでしょ。明日は勉強ないの?」
「……ない」
嘘である。思いっきり9時から授業だ。だがそんなものはこの際どうでもいい。
向日葵は考えている様子だった。十秒ほどしてから顔を上げた。
「でもやっぱり柊君を巻き込むのは……」
「こっちの心配してどうすんだ。僕から会おうと言ってるんだからいいだろ。僕の頼みだ」
向日葵はまだ逡巡している様子だったが、最後には小さく頷いた。
「じゃあ、お願いします」
「オーケー、明日の9時な」
そして僕は彼女と別れ、駅に向かって駆けた。その間も脳内の思考は彼女のことで埋め尽くされていた。