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彼女の名前

 何度考えても答えは同じだ。彼女は泡沫のごとく姿を消した。


 結局、彼女はどこを探しても見つからなかった。諦めて家に帰ってからも、彼女のことで頭がいっぱいだった。やはり亡霊だったのだろうか。体を過去に取り残し、魂だけが現世に蘇った。そういう存在。


 ちょうどお盆の時期とも重なるし、蓋然性は高い。とはいえ僕自身は亡霊なんか信じちゃいない……。


 「今見たことは全部忘れて」とか言っていたが、そんなことができようはずもない。


 でも今日のことを人に話すのは控えようと思った。彼女にも何らかの事情があるに違いない。ま、そもそも誰かに話したところで信じてもらえるはずもないが。


 明日も朝から晩まで夏期講習だ。この時期の睡眠不足は命取りになる。このまま起きていても彼女のことを考えてしまうだけだろうと思い、僕は床につくことにした。




 翌日、乗客のまばらな電車に揺られながら彼女のセリフを思い出す。


「惰性で乗りきろうとしちゃダメ」


 手厳しい言葉だが、今の自分を見事に表現している。心を読む力でも持ち合わせているようだ。その割には僕が公園に入ってからは鈍感だったけど……。


 毎日にちょっとした変化をつけたら退屈な人生じゃなくなるのか。惰性になるなというのはきっとそういうことだろう。


 僕はいつもより早く教室に入った。塾の座席は指定されていない。そこで思いきって最前列の席を取った。今までの席は左端の後ろから二番目。サボってもバレない位置に陣取っていた。


 多分、どこの席に座るかが重要なんじゃない。ほんの小さな意識の変化が、人生に新たな変化をもたらす。


 ——そういうことなんだろう?


 僕は白い天井を見上げながら、どこにいるのか分からない彼女に無言で問いかける。


 数学の先生が入室してくる。最前列に座る僕を見るなり、少しだけ目をパチクリさせた。気のせいかもしれない。


 数学の授業は淡々と進んでいく。最前列だから先生の声は聞き取りやすいし、ホワイトボードの字も見やすい。これはこれでいい気がしてきた。


 数学が終わると、物理、英語と続く。分かるような分からないような、何が分からないのかが分からないような授業が次々と流れていった。


 授業が全部終わったのは午後十時半だった。いつも通り、人権無視の怒濤の延長祭りだった。


「はぁ」


 外に出て、肺に溜まった濁った空気を吐き出す。


 直後、僕は駆けだした。昨日の公園を覗きたかったのだ。もしかしたら彼女が、という期待があったのは否定しない。


 公園に着くと、果たして彼女は昨日と同じベンチの全く同じ位置に座っていた。すぐこちらに気づいたようで、微笑み返してくれた。


 僕も隣に腰を下ろした。彼女からふわりと漂ってきたのは、ほのかな花の香り。昨日は気づかなかった。


 彼女は僕からの言葉を待っているようだった。


 望むところだ。言いたいことは山ほどある。


「まず君はいったい何者なんだ? 昨日顔を上げたらいなくなってるもんだから……」


 彼女は膝に頬杖をついて、いたずらっぽい目で見つめ返してきた。


「やっぱ気になっちゃった?」


「気にならないほうがおかしいだろ」


「ごめんごめん。えーっと、じゃあどこから説明したものかな……」


 彼女は三秒ほど澄んだ星空を仰いでから、こちらに顔を戻した。


「私の名前は(おお)(はし)()()()。高3。これで名前は呼びやすくなるでしょ。お願いだから『君』とか呼ぶのやめて」


 また面倒な要求をしてくるものだ。でも、『君』と呼び続けるのに多少の違和感があるのも事実だった。


「分かったよ。大橋さんは――」


「向日葵でいいよ」


「……嫌だ」


「なんで?」


 向日葵は心底不思議そうに首をかしげた。


 ほぼ初対面の相手を下の名前で呼べる人間は日本に何割程度存在するのだろうか。おそらく相当な稀少種だろう。


 向日葵は腕を背中の後ろで組み、僕の顔を覗きこんできた。


「あなたの名前は?」


(みや)(した)(しゅう)


「シュウってどんな字?」


「ヒイラギ」


 向日葵の顔に花が咲いた。つぶらな瞳がエメラルドのごとく輝く。


「植物繋がりじゃん。親近感湧くなぁ。あなたも高3?」


「そうだけど……君は――向日葵はそこらへんの受験生とは違いそうだな。もし普通の人間だっていうなら、体がぼんやり光ってる理由を説明してくれないか?」


 僕が無理やり『向日葵』という呼び名を絞り出した瞬間は嬉しそうだったが、人ならざるものと指摘された彼女は寂しげな表情になった。


 僕は少し申し訳ない気持ちになった。


「ごめん。口調が尖ってるのは生まれつきなんだ」


 すると向日葵は慌ててかぶりを振った。


「いや、そんなこと気にしてないよ。……私は人間じゃない。うん、たしかにそうなのかも。私は柊君含め世間の人からは怪異と呼ばれるにしかるべき存在なんだもの。本来は存在してはいけない存在。私はね、私自身の意志で歴史の流れを変えてはいけないの」


「それって破ったらどうなるんだ?」


「分からない。どこまでが許されてどこからが許されないのかも。例えばね、今は柊君と楽しく話してるけど、これも本当はダメなの。でも歴史はある程度は書き換えられる。今も、柊君は一人でベンチに座って誰もいない空間に向かって耳を傾けてるっていう設定になってる」


「向日葵がいない世界が正しい世界なのか」


「そうなの。でもね、私はそんなことは承知の上でここに来た。私はここで未来と戦うためにやってきたんだ」

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