彼女との出会い
塾終わり、僕は重たいリュックを背負いながら歩いていた。落ちている小石を蹴飛ばす。
午後十時ともなると、もう外は閑散としている。風にそよぐ街路樹も、車道を時々走り抜けるトラックも、今の僕にはただ煩わしいものにしか思えない。視界に入るもの全てを遮断したい。
周囲の家々には明かりが灯っている。今日は8月13日。お盆の初日だ。きっとみんな充実した休みを満喫しているのだろう。
一方の僕はといえば。
宿題を出されただけ回すものの、テストは全然うまく行かない。授業もとんと頭に入ってこない。復習しなきゃと思うけど、やっぱりその日の宿題に追われてそのまま次のテストを迎える。またうまく行かない。その繰り返しだ。
くそったれ。
「あーあ、理不尽ばっかだよ」
夜空に向かって毒吐く。
国語は理不尽だ。古文とか漢文とか、国文学者だけがやっとけばいいのに。なんで関係ない僕らにもやらせんだよ。
物理や化学も理不尽だ。電子の電荷をマイナスに設定した人間は、どういう神経をしていたのか。
理不尽、理不尽、理不尽――。
もう一回、石を蹴った。リュックの中は大量のプリントと授業テキストのごった煮だ。金輪際見返すことはないであろうプリントも含まれている。
毎日が空虚に通りすぎている気がした。考えれば考えるほど鬱々としてくる。
もう一度思いっきり石を蹴り飛ばしてやろう。どこめがけて蹴ってやろうか。標的を求めて顔を上げたとき――僕の体はピタリと止まった。
三〇メートルほど先に公園がある。おぼつかない街灯の下に佇む、錆びついたブランコや塗装の剥がれたジャングルジムのさらに向こう側。ベンチに座っている不自然な人影を見た。
その影は白くぼんやりと浮いているように見えた。体が宙に浮いているというよりは、明らかに周囲の景色から浮いているのだ。
なんだあれ……?
吸い寄せられるように公園に足を踏み入れた。向こうはこちらに気づいていない様子だ。
近づいてみたら分かった。おそらく僕と同年代、高校生ぐらいの女の子だ。無地の真っ白なワンピースを着ていた。天衣無縫という言葉はこういう人から生まれたのだろうな、とぼんやり考える。
肌もちょっと白光りしているように見える。何やら考え事をしているのか、完全に自分の世界に入っているようだった。
僕は隣のベンチに座って様子をうかがった。彼女はただ虚空を眺めているだけだった。全くこちらに気づく気配はない。
意を決し、あえて大きめの足音を立てながら近づいた。すると彼女はハッとしたようにこちらを見た。僕が第一声を発する前に叫んだ。
「キャァァァ! オバケェェェ!」
唐突な金切り声に、僕は驚きのあまりヒッと喉を鳴らしてしまった。いや、冷静になれ。
僕は咳払いする。
「それは完全にこっちのセリフだな」
「あ……。ごめんなさい」
彼女は気まずそうにうつむいてしまった。僕は取り繕いに入る。
「いや別にいい。で、君はこんなとこで何してんの? 一人じゃ危ないと思うんだけど」
彼女の目に警戒の色が宿った。たしかに今のはナンパか誘拐犯のセリフだな。
「余計なお世話だっていうならそれでもいい。ただ、こんな時刻にその姿でボーッとしているというのは正直ぼ――いや家出か?」
正直亡霊だとしか思えない、という言葉が出かかったが、寸前で思いとどまった。
「家出ねぇ……」
彼女は悲しげに呟いてから、ひどく真面目な顔になって言った。
「家出っていうのは、お父さんやお母さんがいる子にしかできない特権なんだよ。幸せの裏返しだね」
僕は唾を呑みこんだ。優しい物言いの裏側に深い闇が垣間見えた。
こういうとき人はどうしてほしいものなんだろう。話を聞いてほしい? それともそっとしておいてほしい?
僕が返答に窮している間に、彼女は立ち上がった。
「ごめんなさい。あなたを困らせても何にもならないのに。今見たこと、聞いたことは全部忘れて」
「いやそんなの――」
僕の言葉に被せるように、彼女は言った。
「私はあなたのほうこそ心配だよ。あなた、今すごくツラそうな顔してるもん。目のクマもひどいじゃない」
彼女は僕の目の下に軽く触れた。その指はひんやりと冷たくて、体温が感じられなかった。彼女は触れていた手を下ろしてから言った。
「一日一日を惰性で乗りきってやろうだなんて、そんな甘い考えは絶対にダメ。肝に銘じてね」
何も言い返せなくなった。ちょっとの間だけうつむいてから、今の言葉の意味を聞き返そうともう一度顔を上げた。
「それって――」
しかし、そこにもう彼女はいなかった。