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002

ヤシの木の影は、灼熱からは守ってくれたが、濡れた肌にまとわりつく埃のように、僕に張り付いた「疎外感」までは拭えなかった。

すべてが、異物だった。

この地面さえ、僕の存在を拒むかのように黙っていた。


あの奇妙な小さな友達は、いつの間にか姿を消し、僕は沈黙と恐怖だけを抱いて残された。

ここには故郷はなかった。僕の名前を知る世界すらなかった。

残ったのは、疲れた肉体だけ——生きている、それだけの自分。


頭上には、変わらず二つの恒星が冷酷に輝いていた。

静止したまま、裁く者のように無表情に。

その光は空気を焼き尽くし、光と影の境界を溶かしていった。

木々の葉で作った庇さえも、次第に消え失せていくようだった。


息を吸うたび、空気が重く胸を圧し、湿気が肺に溜まって呼吸を妨げた。

汗は背骨を伝い、粘つく膜のようにまとわりつく。

ここに留まれば、死ぬ。

どこでもいい、どこかへ行かなければならなかった。


僕は立ち上がろうとした。

それはまるで、自分の身体ではなく、大地ごと持ち上げるような重さだった。

背骨が軋み、膝が悲鳴を上げる。

病み上がりの一歩目のように、足は鉛のように重かった。

肩から滑り落ちたマントを引き上げ、喉の渇きに耐えながら、僕は森の奥へと踏み出した。


背後で、葉が閉じた。まるで顎のように。


その下の空気は変わっていた。

腐った木の匂い、甘ったるくも腐敗したような果実の香り、そして金属のような味が鼻と舌を刺激した。

一息ごとに耐えがたい試練だった。だが、それもまた「生」だった。

理解を超えた、生きている世界。


絡み合った根の上を進み、足元では草がざわめき、巨人の皮膚のような根が脈打っていた。

上から垂れるツルは、まるで内臓のようだった。


踏みしめるたび、大地は柔らかく跳ね返し、微かに動いた。

誰かが見ているような感覚。

森は僕を受け入れているのではなく、試していた。

僕の足跡を吸い込むように。


鳥のような鳴き声——けれど、それが本当に鳥かは分からない。

時折、誰かが木々の間で笑っているように思えた。あるいは、僕の名前を囁いているように。

だが耳を澄ませば、それはただの風と葉擦れ。

そして、僕の意識は乾いた羊皮紙のように、崩れていきそうだった。


光はほとんど届かない。

木々と植物は絡み合い、空を覆い、緑の天井を作っていた。


手で払ったツルのひとつには、裂けたような傷跡があり、近くの茂みには茶色く乾いた斑点があった。


身を屈めて見た。

それは灰緑色の粗い毛の塊だった。

硬く、針のような手触り。まるで皮を剥がれた何かの一部。

触れる気にはなれなかった。

鼻を突いたその匂いは、腐敗こそしていないが、不吉だった。


一歩踏み出したその足元で、何かがパキリと音を立てた。

立ち止まり、下を見る。

そこには、まるで煮沸されたように白く清潔な骨があった。

細く、奇妙に曲がっていて——人間のものではなかった。


突然、恐怖が滝のように押し寄せた。

目の前の森は、もはや森には見えなかった。

それは「殿堂」だった。

神殿。無断で踏み入ってはならない場所。


僕は震えた。

炎天下でも体は冷えていった。

立ち止まりたかった。でも、体はもう僕の意思では止まらなかった。


何かが近くにいた。

僕がここにいることを知っている「何か」。


さらに奥へと進む。

空気はさらに重く、葉はより低く垂れ下がり、光は濁っていた。

道らしきものは、木々の間の細い隙間になり、音も少なくなったように感じた。


そして、前方の小さな開けた場所——そこではすべての音が消えていた。

風も、虫の羽音も、何もかもが止まっていた。


その縁では、「静寂」が音そのものになっていた。

重く、生きているような沈黙。


自分の呼吸の音がやけに大きく、罪深く感じた。

まるで森が「これ以上聞くな」と沈黙を強いてきたようだった。


そのとき、理解した。

僕は——踏み入れてはならない場所に来てしまった。


息を吸う。慎重に。

あまりにも静かで、息一つで嵐が起きそうなほどだった。

鳥も、虫も、木のきしみさえない。

ただ心臓の音、こめかみの脈動、そして自分のものと気づくのに時間がかかった、かすれた喘ぎ。


僕は動けなかった。

恐怖というより、反射だった。

森は今、僕を見ていた。

あるいは、僕の前にある「何か」を。


木々の奥。

何かが動いた。

風でも虫でもない。生き物だった。

重々しく、堂々とした動きで、その場を支配していた。


続いて、もう一つの影。

速く、細く、小さい。


僕は膝をついた。

思考ではない。ただ、自然にそうした。

太い根に身を隠し、滑るような湿った樹皮に指を喰い込ませる。

呼吸を止めた。呼吸すべき空気がなかった。


二つの影は向かい合った。

一つは大きく、背を曲げ、地面と一体になったような足を持っていた。

もう一つは、細く、神経質に全身を震わせていた。


狼に似たもの——だが顔は異様に長く、目の代わりに闇があった。

もう一方は、壊れて再構築されたトカゲ。狐の耳、猫のような身のこなし。


静寂が、二匹をつなぎ止めていた。

唸りも、爪の音も、威嚇もなかった。


——そして、衝突が始まった。

空気はまだ湿り気を帯び、腐敗の匂いを残していた――


動きなど捉えられなかった―ただ、重い衝撃が全身を貫き、乾いた樹が裂けるような爆音だけが断続的に耳を突き刺した。

二体はひとつの塊となり、肉と骨と怨嗟えんさがぐちゃりと絡み合いながら地に叩きつけられた。

その瞬間、世界は濃密な音の真っただ中に戻る。

砕ける骨のきしみ、裂ける皮膚の鈍い裂音、喉を突き破る咆哮――すべてが血の布を通して鳴り響いた。


威嚇も駆け引きもない。

そこにあるのは、ただ己を抑えきれぬ激烈な憎悪だけ。

一撃、また一撃。二つの獣は完全な死闘を繰り広げ、肉をえぐり、骨を砕きながら互いを解体し尽くそうと狂ったようにぶつかり合った。


ついにわずかに距離が生まれた。狼のような巨体は、相手の引き千切られた耳を固く噛み締めたまま、血と粘液で艶めく顎を引きずる。

小柄な獣は一瞬の隙を突き、相手の脇腹に跳びつき、鋭い歯で肉をえぐる。

だが大柄な獣は揺らぎながらも踏みとどまり、咆哮にも似た低いうなり声を絞り出し、肩甲部の厚い毛皮に爪を深く突き立てる。裂け目からは琥珀のように輝く濃厚な体液が滴り落ちた。


これはもはや「狩り」でも「抗争」でもない。

深い血の宴、狂宴と呼ぶにふさわしい――

大地はとどろき、木々は震え、根は悲鳴を上げる。

二つの生ける塊は地面を転げ、血と粘膜の潮の中で、皮と肉の断片を撒き散らした。


小柄な獣は、骨が節々で軋むたびに体をくねらせながらも、驚異的な精度で急所を狙う。

僕は見た――それが相手の背に飛び乗り、首筋に爪を突き刺して軟骨を抉り取る、生々しい音を。

重圧はまるで樹齢千年の大樹を折り曲げるかの如く、巨体が一気に押しつぶす。三度、四度と顔面を地面に打ちつけるたび、何かが「バキッ」と壊れ落ちた。


しかし、小柄な獣はなおも立ち上がる。

捻じ曲がった首を反らせ、顎を相手の顎に打ち当て、皮膚ごと抉り、それが露わにした白い軟組織がぬるりと光を反射した。

そこに「勝者」はいない。

ただ二つの断末の叫びが、骨の隙間から漏れ続けるだけだった。


僕は吐いた――何度も。

音と匂いと断末魔の熱量に心を乱されながら、頬は再び樹皮に吸い寄せられた。

人間であることを拒否したくて、樹に同化しようと身を潜めた。


そして最後の閃光のような一撃。

小柄な獣は再び跳びかかり、相手の首を折り、脊椎を一本ずつ「ミシミシ」と砕いていった。

低い呻き――それが咆哮なのか断末魔なのか、混沌のまま空に消え、後ろ脚の一撃が巨体を大木に叩きつけた。

肉が裂け、内臓が飛び散り、その破裂音は、まるで臓器を満たした陶器の器が粉々に砕けるかのようだった。


生き残った獣は、かろうじて四本の脚で立ち上がる。

琥珀色の体液を滴らせ、裂けた喉からは嗚咽にも似た息が漏れた。

――そして、僕を見た。


世界が止まった。

その瞳は黒曜の如き冷たさで僕を貫き、胸の奥深くまで旋律のない刃を刺し込む。

理解を超えた視線が、僕の「在る」ことをまるごとその場へ叩きつけた。

脳裏に閃くのは痛みではない。

生き物の根源より湧き上がる、太古の恐怖。

体内で何かが暴れ、脊髄から切迫した叫びが溢れ出す。


しかし、僕の身体は微動だにしなかった。

まるで石像のように固まり、目だけが獣の瞳を映し出す鏡となった。

震える一息が静寂を切り裂き、絶命前の獣のように――


最初に浮かんだ言葉はひとつ。

「俺は――英雄じゃない。獲物だ。」


もっとも恐ろしかったのは、その瞳に「感情」がまるで宿っていなかったことだ。

怒りも憎しみも、殺意も、もはや何も。

残るのは、戦の残響として胸に沈殿した鈍い痛みだけ。


獣はゆっくりと背を向け、二歩、三歩――茂みの闇に溶けるように消えた。

僕は、樹に爪を喰い込ませたまま、硬直した身体を抱えてそこに残された。

吐き気と血の匂いの中、意識は霧の彼方へとぼんやりと引いていく。


僕は仰向けに倒れた。世界が回り始める――地獄のメリーゴーランドのように、ゆっくりと。

またあの浜辺にいた。だが今や砂は血に変わっていた。

手が震えていた。片手を持ち上げると、他人の粘液と泥と、誰かの「生」にまみれていた。

指が勝手に震えた。見たものすべてを振り払いたがっていた。消したがっていた。


どれほどの時間が過ぎたのか、分からない。数分? 一時間? それとも……すべては幻だったのか?

もしかして、僕はバスの中で死んでいたのかもしれない。

これは地獄なのか――生きていて、捕食する、無関心な地獄。


かさり、と音が戻ってきた。

鳥の鳴き声――一つ、長く、嘲るように。

僕は再び仰向けになり、空を見た。葉の隙間から二つの太陽が淡く光を落としていた。水を通して見るように、濁った光。

僕は目を閉じた。


生きている。

まだ、生きている。

なぜ?


答えはなかった。あるのは、肩甲骨の下で血が乾いていく音と、

森の奥へと消えていく死の匂いだけだった。


張り詰めていた心臓の弦がようやく緩み、視界が形を取り戻したとき、

僕は後ろを見た。あの体が残された場所を。


見てはいけなかった。けれど、見た。


胸の奥に何かが込み上げた。恐怖ではなかった。もう燃え尽きていた。

憐れみだった。頭蓋の中で何かが檻にぶつかるように、こめかみが痛んだ。

それは、傷ついたような感覚だった。肉体ではなく、もっと深く――自分自身の壊れやすさ。

この世界に属していないという実感。

息ができなかった。臭いでも、痛みでもない。

感じたものに、だった。

ここにあってはならない感情を。


しばらくして、ようやく一歩を踏み出した。

倒れた方はまだ呻いていた。かすかに、か細く。

起き上がろうと身をよじるが、無理だった。

横たわり、息を吐いた――最後の一息。

胸が震え、そして……静止。


僕は近づいた。裂けた肉体から目を離さずに。

筋肉が引き裂かれ、皮膚は千切れ、糸のように垂れていた。

本能が叫んでいた――近づくな、止まれ。死体でも、動くかもしれない。

でも、動かなかった。


僕はそっとしゃがみ込んだ。

指が震え、肩にマントを引き寄せた。

意味のない、反射的な動作。

その布が、見たものから、臭いから、理解から――僕を隠してくれるとでも言うように。

汗の下、冷気が背中に突き刺さる。

分かっていた。もう、行くべきだ。

ここから、消えるべきだった。


でも、僕はその場にいた。

あと、ほんの少しだけ。


……匂いが、奇妙だった。

腐敗でも、死臭でもなかった。

甘さ。ぬくもり。

太陽と肉に漬け込まれたワインのような匂い。

ここでは、死が「生」の匂いをしていた。

鉄のような、血と肉の匂い――双星の下で冷めていく命の匂いだった。


僕は顔を近づけた。

顎はねじれていたが、壊れてはいなかった。

頬には裂け目。唇は歪み、歯は不揃いにぎっしりと並んでいた。

そして、目が……


濁って、焦点は合っていない。

でも、まだ「生きていた」。


僕は反射的に身を引いた。

恐怖ではなかった。

心の奥が引きつった。

終わってもなお消えない痛み。

この存在は、すぐには死ななかった。

それでも感じていたのだ。


葉の隙間を風が通り過ぎ、匂いを揺らした。

高い枝の間から、一筋の光が射し込んだ。

それは苔の上に落ち、小さな樹皮の線を照らした。

温かく、優しい――

まるで、「世界はまだ生きている」と囁くようだった。


僕は吸い込んだ。深く、鋭く。

空気が鼻を突き刺し、その瞬間、何かが僕の中から離れていった。


立てる。

行ける。

この場所の一部でなくてもいい。


僕は立ち上がった。ゆっくりと、重く。

前を見た。木々が連なるその先へ。


――初めて、それらが敵には見えなかった。

ただの森。ただの道だった。


「生きる……この世界を、理解するために。」

僕は呟いた。小さく、けれど自分の耳に届くほどに。


足取りはおぼつかなく、まるで初めて歩くようだった。

僕は歩き出した。草むらを、血と肉を、冷えた死体を後にして。

死の息吹を、背後に残して。


そして前には……

「生」の音があった。

知らない。異質。


でも、もう怖くはなかった。

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