第九話
水流が水龍を作り、塩辛い雨を降らせたかと思うと、その小さな雨粒は次第に集まり、大きな雨粒となる。
そうして、中に閉じ込められた魚ごと、再び海へと落ちていくのだ。
まるで劇のような華やかな演奏は、耳だけではなく目も楽しませた。
リットも場を壊すような言動はせず、口はお酒を飲む以外は動かすこともなかった。
少なからず、目の前の光景に感動していたせいもある。地上では絶対に見ることの出来ない光景。
口頭伝承によくあるように、人間と人魚の関係は遠いようで近い。
魔力の器が小さい人間でも、人魚の魔力は影響しやすい。ゆえに悲恋の話ばかりがある。
空飛ぶ船が落ちてきた時。リットがセイリンのマーメイドハープの音で吐いたのもそのせいだ。
以前ナマズの人魚のマグニの演奏を聞いたことがあるが、彼女がまだ未熟だったため影響を受けなかったのだ。
セイリンに魔法のキスをされていなければ、一生を船の上で過ごしても立ち会えなかった演奏海だ。
リットはただ音に身を任せようと目を閉じた。
閉ざされた視界は、光り輝く色とりどりな世界よりも聴覚を刺激し、目を開けていれば見えない”想像”という世界を無限に広げる。
音楽が鳴り響く限りは、世界が終わることはない。
それはセイリンがかけた魔法が解け、人魚の魔力を影響を受け始めた兆候だったが、本人どころかセイリン達も音楽に聞き入って気付くことはなかった。
リットが少し喉が乾いたなと感じ始めた時。
急に音楽が止み、乗っている船が距離を取った。
異変を素早くキャッチしたイトウ・サンとスズキ・サンが、マーメイドハープを弾いて落ちてくる急流を回避したのだった。
セイリンはまず小さく舌打ちをすると、高波に落ちる影を見て今度は大きく舌打ちし直した。
「いるんだ。ああいったガキがな」
「なんだよガキって。クラーケンの子供でも乱入してきたのか?」
リットは暴風のような波対波の衝撃に負け、船長室があるドアに貼り付けにされていた。
「テンションの上がった人魚が、勝手に参加してきて演奏の和を乱したんだ。演奏が崩れるとこうだ。事前のリハーサルも無駄というやつだな」
「地上も一緒だ。飲みすぎたバカのせいで、興をそがれるってのはな。白けるのも一瞬。またすぐに盛り上がるところまで同じだ」
リットはこぼれて空になってしまった瓶の代わりに新しい酒瓶を手に取った。再び演奏海が始まると思ったからだ。
しかし、再開された演奏はワンフレーズだけ。すぐに悲鳴へと変わった。
「おいおい……人魚の演奏ってのは雨雲まで引き連れるのか?」
現在。リット達の頭上には大きな黒い影が、ここだけを浸すように存在していた。
「精霊じゃないんだから出来るわけないでしょう。よく見なさい!」
スズキ・サンはマーメイドハープを弾いて必死に影から距離を取ろうとするが、周りの人魚もパニック状態で弾いてるせいで、魔力が乱れ、大型のハリケーンのような状態になっていた。
「影で見えねぇよ……」
「ランプ屋なんじゃないの!」
「あのなぁ……ランプってのは雨雲を晴れさせるって……」
リットは言葉を途中で止めると、そのまま全身を硬直させた。
誰かが打ち上げた水柱に太陽が反射して、黒い影の底に光を当てたからだ。
それは陸で生活するリットには目に馴染んだ模様だった。
「どう! 見えたでしょう!!」
「……木? いや木材か?」
「バカ! 船よ! 船!」
「船は空を飛ばねぇよ……」
リットは空を飛ばせる人物が何人もいたら世界がややこしいことになっていると説明したのだが、空から聞き覚えのある声が聞こえてくると、それが船だと認識した。
そして船で高笑いを響かせる人物に「あのバカが……」と呟いたのはセイリンだった。
「ご機嫌麗しゅう、皆の諸君! なだらかな演奏海に海の華を添えにやってきてやったぞ!」
そう船から顔を出したのはタコのスキュラである『アリス・ガボルトル』だった。
「ずいぶん楽しそうだな……副船長」
セイリンの怒りに冷えた声は、耳の穴から入り心臓にナイフを突き刺したかのような迫力があった。
「げっ! セイリン! ……船長。いや……かしらぁ……」
まさかセイリンが演奏海にいるとは思っていなかったアリスは、バツが悪そうにすぐに引っ込んだ。
変わりに顔を出した人物へ向かって、セイリンは更に殺気を込めた声で言葉を送った。
「返してもらおうか。私のボーン・ドレス号を『ユレイン・クランプトン』!」
「それは海賊船を奪う時にはっきり言ったはずだよ。この船じゃないとダメなんだ。理由はわかるよね? それともまだわかってない?」
ユレインの口調は明るいものだったが、セイリンのものよりも迫力があり、ここにいる人魚の誰がもが、言葉を飲み込み喋ることが出来なかった。
ただ一人リットだけが「おいおい……流行ってるのか? 船は空じゃなくて、海に浮かばせるもんだ。じゃねぇと、雨が小便になっちまうだろう」
「あら……どうやって見つけたか知らないけど、リットはそっちに取られちゃったか……」
ユレインがマーメイドハープを弾くと、怪しげなメロディーが流れた。
「なんで空を飛ぶ海賊同士が仲間割れしてんだよ」
「空を飛んでるから争ってるの。それに空を飛んでるのそっちだけ。こっちは”ゴースト”らしく海獣を操ったりなんかしちゃって」
ユレインの独奏が続くと、ボーン・ドレス号をなにかが持ち上げるのが見えた。
「リヴァイアサンだー!」
叫ぶ人魚達に、ユレインは「もどきだよ……。人間みたいに騙されてどうすんのさ」と呆れたかとも思うと、すぐにハープを弾き直し曲を変えた。「それじゃあ、先に行って待ってるよ。『一角白鯨の墓場』でね!!」
ユレインが最後に大きな音でハープを奏でると、船を支えている全容が見えた。
青白い鱗に包まれ、時に緑に発光する巨体は、クラーケンの触手だった。
触手は波を割ると、独自の高波を作り、空を飛んでいるかのようにボーン・ドレス号を運んだ。
「なんだっけな……あの波……タコ波だっけか?」
リットは昔どこかで聞いたことがあるような。見たことがあるかのような高波を見て。過去が現在か夢かわからないものを思い出そうとしていた。
「この惨劇を見て、よくもそんな呑気なことが言えたな」
既にリットが乗っている船は演奏海があった場所から距離を取っていた。
タコ波に流されたのもあるが、セイリンが冷静にボーン・ドレス号から離れたのだった。
「人間がこの状況にさらされてみろ。全員が口を揃えて、あー助かったって冷静になってる場面だ。で、これから絶望すんだ」
「アホか……」
「賢いだろ。知ったかぶりはしてねぇんだからよ」
リットは文句があるなら、そろそろ詳細を話せと皮肉を言った。
「わかった……。まず『一角白鯨の墓場』についてどれくらい知ってる?」
「総攻撃を仕掛けるって物騒な話は聞いたぞ。そして、それは本当だと今理解した」
演奏海などと名前はついているが、攻撃対象があるのならばマーメイドハープの演奏は魔法を使った戦争と変わりない。
リットは今更恐ろしさに背筋を凍らせていた。
「総攻撃を仕掛けようとしてるのはユレインだ。私はそれを止めようとしている。 一角白鯨の墓場は男人魚が多く、マーメイドハープの職人が山ほどいる。墓守と同時にハープを作っているんだ。ここまでは説明したな」
「今聞けば、先に行った海底都市の『バブルス』と似てるな」
「そうだ。だからバブルスに連れて行ったんだ。予行練習のためにな」
セイリンの言う予行練習とは、リットが人魚の魔法にかかるか、深海への適性はあるかということだ。
リットにとっては幸か不幸か、人魚の魔法はよく効き、深海でもランプを作るほどの適応できてしまった。
「本当にわざとオレを攫ったんじゃねぇのか?」
「ショートカットしただけだ。陸を迂回するより、陸を飛び越えたほうが早いからな。そこにいたのが、見知った人間。それなのに……ユレイン船長め……。あんな反則技を使うとはな」
「お互い様だろうよ」
「こっちは人魚の力。あっちはゴーストの力だ」
「それで目的は?」
「同胞の開放だ。一角白鯨の墓場は海にさまよえる魂の行き着く先。かつてのユレインの仲間は既に死んでいる。わかりやすいだろう?」
ユレインは海賊時代の仲間を再びゴーストとして迎え入れようと、大本の一角白鯨の墓場に狙いを定めたのだ。
船長や船員との”死後の約束”の意思を届けるためだ。
「今度は世界最初の人魚の海賊じゃなくて、ゴーストシップとして仲間を取り戻すってわけか……」
「あそこには戦友も眠っている。バカな真似をされたら困る」
セイリンは船が穏やかな海面に揺れているのを確認すると、飲み直すための酒を取りに船内へ戻っていった。
「セイリンはなんか恨みでもあるのか?」
「逆です。セイリンはユレインの物語を聞いて、尊敬していたんですよ」
イトウ・サンは弾き終わったマーメイドハープのメンテナンスをしながら言った。
「だからイサリビィ海賊”団”ってわけ」
スズキ・サンがからかって言った。人魚の海賊は南の人魚の海賊であるアビソル海賊団も含め、団がついているのは、先駆者であるユレインを尊敬しているからだ。
「アリスがあっちについたのは? どういうことだ?」
「一斉攻撃って言葉に引かれたバカだから、興奮して我を忘れてるのよ。ユレインはゴーストだけど、アリスはスキュラ。スキュラが一角白鯨の墓場を攻撃したなんて知ったら、一生海で過ごせなくなるわよ。船の上で干物になるしかなくなるわ」
「他の人魚もいるだろう」
「だから、私達が三人でも必死になって追いかけてたの。その最中にセイリンが急に空を飛ぶって言い出して、リットを拾った。それからはそっちが見て聞いてきた通りよ」
「なるほど……平たく言えば女の喧嘩に巻き込まれたってわけだ」
「せっかく色んなものを混ぜ込んで説明したんだから、平たくするんじゃないわよ」
「ようやく凪いだんだ。平たくていいだろう。これ以上高波にさらわれたら酔うぞ。酒じゃなくな」
リットは先程までの演奏海が嘘のように静んだ海を眺めていた。
クラーケンの登場により、なし崩し的に演奏海も終わってしまったのだ。
しかし、そんな海にある声が響いた。
「演奏会の終わりは独唱でもあるのか?」
「違う悲鳴よ! どこ?」
スズキ・サンが海を覗き込んだので、慌ててリットも同じように覗き込んだのだが、変わらない海面を見て途端に冷静になった。
「あのよぉ……普通は海の中から悲鳴は聞こえないんじゃねぇか?」
「そうね……。ほら……あれよ……さっきまで演奏海でバブルメールもいっぱい作られてたから。そういうこと! そういうことなの!」
思惑が外れた恥ずかしさを隠すように大きな声を出すスズキ・サンだが、それよりも大きな悲鳴は空から落ちてきた。
「あーああああーああ? ……ああああああ!」とその場の感情に合わせて響き渡る悲鳴は、大変さより間抜けさが勝っていた。
そのせいか、甲板にいる三人が真っ逆さまに落ちていく影を見送った。
影が海面に叩きつけられ、水柱が立つと悲鳴は止まった。
変わりに大量の泡と一緒に「パンパカパーン!」という明るい声が響き割った。「海が大きな水たまりで助かったよ! これが地上だったらカエルみたいにビータン! つぶれちゃうね! げろげーろ!」
海に落ちてきた人物は何事もなかったように、甲板に飛び上がってくると、自分自身に向かって何度も拍手を響かせた。
その仕草にイトウ・サンは思わず「アシカさんですか?」と聞いた。
「アシカじゃないよマグニだよ!」
マグニは大変な目にあったと腰を落ち着けると、「リットじゃん!!」と指をむけた。
「おい……連絡が取れなくなったと思ったら、まさかユレインのとこで海賊やってたのか?」
「海賊? 僕は演奏海に来ただけだよ。せっかく上からかっこよく登場しようとしたのに、まねしんぼされちゃった。あれなに?」
「最初に邪魔をしたのはオマエだったのか……でも、まあ運が良かった。探してたのはマグニだったからな」
「運がいい? 僕はマーメイドハープが弾けるようになってからは、毎回参加してるんだよ。だからここに来れば僕に会えるってわけ」
マグニは自慢げにお腹と胸を張った。
「おどろいた……鱗のない人魚って始めてみたわ」
スズキ・サンはマグニの体にぺたぺた触れながら言った。
「凄いでしょう。僕は鱗の代わりに粘液があるんだ。だから、ほらね。すいーっと」
マグニは氷の上をすべるように、甲板を自由に滑って移動した。
いちいち身体をくねらせるスズキ・サンとイトウ・サンとは全く違う陸での移動方法だった。
海水ではなく、粘液で滑る移動はとても便利であり、三人が黄色い声を上げながら甲板の上を滑って遊んでいると、酒を持ってきたセイリンが「いつからこの船はガキの預かり所になったんだ」と頭を抱えた。