第八話
静かな旋律が流れたかと思うと、スタッカート気味のリズム良い音符が弾けだす。
なんともマヌケな演奏会が開かれているのは、どこの海でもない。リットが乗っている奪った商船の上だった。
バブルメールにより、人魚の演奏会の場所が特定出来たのだが、面白がったリットが採取したバブルメールを適当に割るせいで、演奏の一部だけが大海原に消えていくのだった。
「やめろ……頭が痛くなる」
セイリンがハープを弾くのを辞めると、船底が海面に叩きつけられた。
現在船は波の上を走っているのではなく、マーメイドハープで下から水柱を打ち上げてトビウオのように海面上を移動していた。
それなのでセイリンがハープの演奏を辞めると、リットだけが被害を受けることとなった。
「こっちはケツが痛えよ……」
リットは甲板の床に叩きつけられたが、人魚の二人は楽しそうに海へ飛び込んで避難していた。
「いいか? なぜ楽譜というものが存在するか考えてみろ」
「覚えられねぇからだろ」
「違う。いや、違わないが……もっと空気を読む男だと思っていたが?」
「海に叩き落としたのはそっちだろう」
「ご希望ならば、逆さまに落とすことも出来るぞ。臨場感を出すために波を人間の手に変えてやろう」
セイリンが脅しで細い水柱を五本上げると、リットは勘弁してくれと慌てた。
「あのなぁ……説明したがりの魔女はいねぇんだ。なんの魔力がどうのこうのなんて聞きたかねぇよ。これは不思議なチカラが働いている。それで十分だ」
「誰も魔法の話をしていないだろう。楽譜の話だ。いいか? ボイスメールは地図みたいなものだ。だからだ、わざわざ水柱を打ち上げながら進んでるのはな。それを虫食い楽譜で演奏させてみろ。……不快だ」
「不快くらい酒で誤魔化せ――と言いたいところだけどよ。曲によって効果が違うのに関係してんのか」
「知っているなら邪魔をするな」
「思い出したんだよ。水を形作るのには『波綾のノクターン』だってな」
リットが思い出したのは、今となっては懐かしいヨルムウトルの事件だ。
色々合ってフェニックスを作ることになったのだが、その時オイルをフェニックスの形にするのにマグニというナマズの人魚が演奏していた曲が『波綾のノクターン』だった。
「本当に……よく知ってるな。ムカつく男だ」
「どっちだよ。知ってたほうがいいのか、知らないほうがいいのか」
「むやみやたらに首を突っ込むと、どうなっても知らんぞ」
セイリンは再びマーメイドハープを弾いて船を走らせた。
「そう思うんだったら、空を飛ぶ船だなんて変なもんに乗せんなよ。こんな話は……酔っ払いにだって信じてもらえねぇよ」
リットが海に投げ出されないようにマストに抱きつくと、その情けない姿に満足したセイリンは口元に笑みを浮かべた。
「これで酔っぱらいにも信じてもらいやすくなっただろう。女と間違えてマストを抱いたとな」
「帰ったら人魚よりマストのほうが魅力的だったと伝えてやるよ。間違っても海に幻想なんて持たねぇようにな」
「それがいい。人魚だけの演奏会なんてかわいいものだ。せいぜい海の怪物と間違われるくらい。セイレーンの歌が混ざれば、人間は簡単に死ぬぞ」
セイリンの声色は真剣だった。
これから人魚の演奏会がある海域へと向かうのだが、どんな種族が集まっているかわからない。人間のリットは色々と影響される可能性が大きかった。
「珍しく心配してるのか?」
「それもあるが……いや、そうだ」
歯切れ悪く適当な肯定を見せたセイリンを訝しく思っていると、リットの肩をスズキ・サンがつついた。
「自戒を込めてるのよ。ね? セイリン」
「うるさいぞ。スズキ・サン」
悪ノリを始めるスズキ・サンに睨みをきかせたセイリンだったが、イトウ・サンまで混ざってくるとお手上げだった。
「セイリンは半分人間でしょう? 前に一緒に『演奏海』に行った時は号泣して大変だったんだから」
「セイレーンは歌は感情に作用するんだ。仕方ないだろう。半分人間で半分メロウの私だから号泣で済んだんだ。人間のリットなら海に身を投げてる」
リットはジョークだと思いセイリンの言葉を笑ったが、一緒になって笑っていると思った人魚二人は真顔になっていた。
「リット……本当に自殺するわよ。歌声に惹かれた船が難破するなんて腐る程聞く話でしょう。陸まで届く海のうわさ話っていうのは、呆れるほど頻繁に起きてるからよ」
スズキ・サンの話は事実だった。
海難事故による人間の死はほぼ確実だ。
それでも噂が広がるのは、全くの作り話か数少ない良い残りの証言であり、この海の上では簡単な答え合わせだった。
「まあ双方からの言い分を合わせりゃ、答えは同じところにあるってやつだな」
「なにを当たり前のことを言ってるのよ……」
「陸に生きる人間は、海からの答え合わせは出来ねぇんだよ。だから冒険者ってのがいる」
「もう既に答え合わせは済んでるでしょう。私達が何隻の船を襲ったと思ってるのよ」
スズキ・サンは腰に手を当てて偉ぶった。
海賊なので、悪いことをしてるとは思っていないので当然だ。
「色物の海賊に襲われたとしか思ってねぇよ。賊の恐ろしさってのは、海の恐ろしさとは別だ」
「なにそれ……海に生きる種族は災害扱いってわけ?」
「知らねぇのか? ありゃ自然災害って言うんだぞ……」
リットは遠くに見えるクラーケンのタコ足のような水柱に背筋を凍らせた。
今船を持ち上げている水柱とは明らかに質の違う魔法だというのは、様々な経験があるリットだからわかるものだ。
魔法に縁のない人間は口を揃えて化け物と呼ぶだろう。
「あれが『演奏海』よ。酷いもんでしょう……あれって人魚の鬱憤晴らしよ。みんな海賊やればいいのに」
スズキ・サンはマストに抱きつくリットの背中を軽くぽんぽんと叩くと、うねる水柱のタコ足が作る洞窟のような波の壁へ向かって針路を取るように、セイリンのマーメイドハープの音に自分の旋律を合わせた。
高波は空を飛ぶカモメを飲み込み、そのカモメは高波を泳ぐサメに食べられ、僅かな血しぶきはすぐに波と混ざり消え、鳴き声さえも残さなかった。
「空中でサメと目が合う日が来るとはな……まさか話しかけてこねぇよな」
リットの真剣な眼差しに、セイリンは思わず呆れた。
「人魚の魔法をなんだと思ってる……」
「前言撤回する。魔法が不思議な力なんて言葉じゃ納得いかねぇ……。なんだこりゃ」
リットはまるで戦場だと、水流の暴動とも言える動き方に怯えていた。
セイリンはリットの自由に気ままな行動による結果を期待していたので、このままでは困ると説明をすることにした。
「人魚の曲が特別なのは知っているな?」
言いながらセイリンはネックレスにしている鱗を小さく反射させた。
「コー・ラル・シーライトが作曲したってんだろう。よくは覚えてねぇけど、曲によって効果が変わるってな」
「それだけ知って何を怯えている」
セイリンはマーメイドハープの基本を知っているなら怖がる必要はないと諭した。
「この状況。オマエの海賊船よりビビってる」
「それはムカつくな……」セイリンは少し考えてから「まあいい……マーメイドに義理があるわけではないしな」と続けた。「コー・ラル・シーライトの曲が元となり、様々な海域でアレンジされている。全く別の曲になっているものもある」
陸で言う言語の訛りのように、音楽も人魚によって伝え方が違うのだ。
その結果。魔力の暴走が起きているのだ。
今は持ち寄った楽譜をそのまま演奏しているような状態。
演奏海はジャズのようにその場その場で即興演奏をし、その瞬間でしか聞けない曲を奏でる。
人魚達の息が合うまでは、この荒れた海の状態が続くということだ。
「なるほど……こりゃ人間が操る船なんてひとたまりもねぇな」
リットから大きな怯えは消え、いつのもの状態に戻っていた。
情報を与えられ、考えた結果。人魚が操る船の上は陸よりも安全だと気付いたからだ。
「そういうことだ。残念ながら海が落ち着いたときには海の藻屑だからな」
セイリンは演奏海に参加する為にマーメイドハープを合わせると、船は水柱を一気に上っていった。
空から見下ろす光景は、海から見上げる光景とは全くの別物だった。
あれほど恐ろしく思えた水流は、神々しく輝いている。
波が形作るのはまるで光の神殿のようで、人魚達はガラスのハンモックに揺られるようにして歌っている。
波は壁を作り歌を閉じ込めると、輪唱のように何度も反射して響かせた。
前後左右どころか上下もなく、リットは文字通り全身で音楽を感じていた。
その爽快な光景に残っていた小さな怯えも完全に消え去ると、思うことは一つだった。
「これには酒だな。乾杯でもするか?」
リットが酒瓶を取り出すと。セイリンがこらえきれず笑った。
「リットに出来るか?」
「さては揺らす気だろう」
リットは乾杯の瞬間にセイリンがマーメイドハープで水の流れを変えると思っていた。
「いいや。乾杯をしようではないか」
セイリンは意地の悪い笑みを浮かべると、マーメイドハープを置いて代わりに酒瓶を手に取った。
スズキ・サン、イトウ・サンも続くと、リットは怪訝に思いながらも三人と同じように酒瓶を持ち直して乾杯するために傾けた。
そこまでは何も問題はなかった。
問題はコルクの栓を抜いた瞬間だ。
コルクの栓が抜けた瞬間。中身のお酒はマーメイドハープの影響を受け、すべて波に飲まれてしまったのだ。
「おい……酒に逃げられたぞ――まだ酔ってもねぇのによ」
リットが海と一体化する酒を見送る情けない顔を見ると、たまらず三人は笑いを響かせた。
「今の顔最高ね! アリスが見たら馬鹿笑いするわよ!」
スズキ・サンは船の上で転げ回って笑うと、わざわざリットの隣へ座り直し、これ見よがしにコルクの栓を抜いた。
人魚にはここでどう水がに影響をするかなど、人間が陸で空気を読むのと同じくらい当たり前にわかる。
中身のお酒は瓶から勢いよく飛び出たが、ワイングラスのような形を作って留まった。
イトウ・サンも同じくお酒そのものでワイングラスを作ると、二人で乾杯した。
そしてキスをするように唇を近づけると、空中に浮かぶお酒をすすり飲んだ。
恨みがましく睨みつけるリットに、セイリンは思わず笑ってしまい「そんな目をするな。今飲ませてやる」と柄にもなく優しさを見せた。
「まさかオレにも、酒で出来たグラスにキスして飲めって言うんじゃねぇだろうな……」
「ご要望とあればそうしてやってもいいが……」セイリンは自分が持っている酒を少し飲むと、リットに投げ渡した。「飲んだ分海水で栓をしてある。傾ければ酒が出てくる。要は普通の飲み方でいいということだ。感謝しろ、私がいたことにな」
「そういうことか……素直に礼を言っとく。ありがとよ」
リットはまた酒が逃げていかないかと心配になりながら、酒瓶を少しだけセイリンにかたむけて乾杯した。
今度は酒が逃げることなく、リットの喉はひだまりを飲み込んだように温かくなった。
少し前までセイリンはマーメイドハープを弾くことが出来なかったので、この飲み方をしていたというわけだ。
つまりセイリンがいなければ、この状況でリットは本当にお酒が飲めなかった。
素直に礼を言うには十分すぎる理由だった。
そして酒を一本飲み終える頃には、人魚達の息合わせの為のリハーサルも終わっていた。
これから始まる演奏前のわずかばかりの静寂。
リットの目に映る光景は、水で造形された小さな島だった。