第七話
「コーダックの酒瓶だと? 世迷い言を……」
セイリンはリットから手渡されたコーダックの酒瓶を訝しんでいた。
「世迷い言はオレじゃねぇよ。渡してきたスキュラだ」
「知ってるか?」
「そういう言い方もされた。たぶんこれからやるやり取りは、向こうで一通り終わらせてきた。もっと簡潔に説明してくれ」
リットは今にも降ってきそうな夜空を見上げると、柄にもなく少し思い出を滲ませながら酒瓶をあけた。
「海賊の呪いだ。海ではなく空に思いを馳せた海賊の呪い。そう言われている」
「呪いって夢に見るだけだろう」
「海賊を海に繋ぎ止めておくための呪いだ。わかりやすく言えば秘宝とも呼ぶ」
「とうとう呪いでもなくなったか……。まっ、宝は既に我が手中ってな」
リットは乾杯とでも言うように、セイリンに向けて酒瓶を傾けたのだが、なんのアクションも返ってこなかった。
そのまま話は終わりかと思われたが、セイリンは無言で立ち去ると小さなグラスを四つ持って帰ってきた。
そして、それをそれぞれに渡した。
「覚悟は決めたな?」
セイリンの言葉にイトウ・サンとスズキ・サンの二人が頷いた。
「待った。その流れは困るぞ」
尻込みするリットなどお構いなしに、セイリンはグラスを無理やり渡すとコーダックの酒瓶から酒を注いだ。
夕闇に輝く雲のような見事な琥珀色をした酒は、大地のように深くむせる香りがした。
「別に飲まないのなら構わない。勝利の美酒に酔いしれることも出来ない男だとは知らなかったがな」
「気が早えだろう。まだ何も起こってねぇんだからよ」
「だから何かを起こすんだ。好きにしろ。なにかあっても、飲んだ身にしか起こらないものだ。一人ここで飲んだくれて死ぬもよしだ」
セイリンは嫌味に口角を上げると、人魚三人で乾杯し、一気に飲み干した。
帰るにはセイリンのマーメイドハープの力が必要だと知っているリットは、遅れながらも飲み干すしかなかった。
「――それでよ。なにか起こすんじゃなかったのか?」
ほとんどパンツ一枚の格好のリットが、同じくほとんど下着の格好のセイリンに言った。
既に、コーダックの酒を飲んでから三日が経過していた。
その間は、全く今と同じことを繰り返している。
それは、太陽を遮る椰子の木の下で、ハンモックに揺られて波の音に耳を傾けることだ。
「仕方ないだろう……。八方塞がりだ。目指す場所が『一角白鯨の墓場』だとはな……」
「最初から自分で言ってただろうよ」
「私が言ってるのは、そこへ向かうルートだ。リットもあの夢を見たんだろう?」
セイリンが言っているのは、コーダックの酒を飲んだ後に見た夢の話だ。
夢の内容はセイリンの船だったボーン・ドレス号が、陸を走っている夢だった。
それもアリスの楽しそうな笑い声付きだ。
盗まれたボーン・ドレス号がぞんざいに扱われてるだけでも精神にくるのに、敵船で笑いを響かせるアリスを見るのはイライラを通り越して、考えるのも放棄していた。
「見たぞ。白鯨っていうから海の中だと思った。まさか陸を走る船とはな。そういや、雪の上を走る船があるって誰かに聞いたような……どうだったか」
「陸を走るのがダメなら、海を凍らせろというのか? 人魚は天変地異をあやつれるとでも思ったか? 精霊じゃないんだ。不可能なことを言うな」
「オレに当たるなよ。宝が手の届かない陸の上ってんだから、苛つく理由もわかるけどよ」
「宝じゃない。元々私のものだ」
セイリンは空になった酒瓶を乱暴に投げた。
風を切った酒瓶はリットの顔を横切ったが、地面に落ちて割れる前にイトウ・サンがキャッチした。
「こんなとこでガラス割ったら怪我するからダメ!」
これがアリスやテレスなら一喝して終わらせるのだが、相手が自分を海へ連れ出してくれた昔なじみだ。素直に謝ることしか出来なかった。
「まったく……いらん恥をかいた」
「その格好は恥じゃねぇのか?」
「興味があるのか? 存分に見ろ。おっ立ってコンパスが指したら教えてくれ。ダメ元で向かうからな」
セイリンが乱暴に大股を開くと、足の付根まで見えた。人魚の尾びれが腰辺りまで生えている。
「思ったんだけどよ」
「脚に欲情したなら、今度にしてくれ。今はそんな気分になれるわけもない」
「なら、今度にする。で、その脚のおかげで空を飛んだんだろう?」
リットはセイリンが小舟をマーメイドハープで飛ばしていたことを詳しく聞いた。
マーメイド全員が出来るのなら、今頃空はマーメイドだらけになっている。
それが出来るのは、人間の足と人魚の尾びれを持つメロウとのハーフのセイリンだからだ。
詳しい理由はわからないが、コーラルシーライトの鱗を使う奏法も関係しているのは間違いなかった。
「雨の日。それも大雨の日限定だ。下手に飛ぶと、雨がやんだ先で干からびる」
「その力ってよ。他の人魚は別の力に特化してたりするのか?」
「高波を起こすのが得意だったり、造形が得意だったり様々だ。マーメイドハープだって魔力だ。そういうものだろう?」
「それもそうなんだけど。最も根本的なことだ。東の国の伝説は知ってるか?」
「まあ……なんだかんだ縁深いからな」
セイリンはネックレスにしているコーラルシーライトの鱗をリットに見せた。
この鱗は東の国の近くの海底から手に入れたものだ。
そして、セイリンとリットが出会ったのも東の国の海岸。
様々な立ち話も噂も耳にする機会は山ほどある。
なので、リットがこれから言う言葉に、セイリンは目を見開いた。
「オオナマズの伝説も知ってるか?」
「地震か!」
「机上の空論どころか寝る前の妄想だけどな」
リットが思いついたのは大地を揺らして船を進めるということだ。夢の出来事を本当にするのならばだが。
「ナマズの人魚なら地震を起こせる可能性はある! ……が、いればの話だ」
「……が、いるんだよ。問題は消息不明だ。グリザベルからの手紙に書いてあったからな。ずっと会えてねぇって」
「期待させて落とす。女を落とすのに、その落とし方は間違ってるぞ……」
セイリンの落胆のため息は、吹き抜ける浜風より一際大きく聞こえた。
「でも、面白え話があんだよ。アイツとの出会いもハープの練習中でな。いつか海の演奏会を聞きに行くって言ってたからよ、海のオーケストラ会場にでもいるんじゃねぇか?」
リットはお手上げだと冗談を言ったつもりだったが、セイリンに胸ぐらを掴まれ、キスでもされそうなほど顔を近づけられた。
「それを早く言え」
セイリンはリットの胸ぐらから手を離すと、木の枝に引っ掛けていた三角帽を被って船へと向かった。
姿が見えなくなってから、マーメイドハープの音が聞こえたかと思うと、リットの体を波が船まで運んだ。
目的は定まり、いざ大海原へ――と勇んだはいいものの。グラムが完全に見えなくなった場所でぽつんと船は浮かんでいた。
「まいった……」とセイリンが珍しく自分の非を認めている。
「本当にな」
リットは諦めたと言わんばかりにマストに背中を預けて、真っ白な巨大生物が行進する空を見上げていた。
入道雲は船を追い抜きどこまでも自由に飛んでいる。
船がぽつんと浮かんでいるのには理由があった。
肝心の演奏会が開かれる場所がわからないのだ。
「言い訳をさせてもらえば、隠れ家に戻れば座標の書かれた手紙があるはずだ。『ボトルメール』が届いていたからな。行くかどうかわからないものをいちいち覚えてるか?」
「ボトルメールって、バカが適当な地図を入れて海に不法投棄するやつだろう? あれはたいてい偽物だ」
「バカな男め。地図の読み方がわからないから偽物に思えるんだ」
「オレに当たるなよ。反論するなら、オレは覚えてるタイプだ。名前くらいはな。というか……大抵はいつもそこから始まる。酒場に入り浸ってると情報が入りすぎんだ」
「名前などない。楽団があるわけじゃないからな。誰かがマーメイドハープを弾き始めたら自然と集まりだす。そうしてオーケストラになったら、オーケストラに参加できなかった観客の誰かが場所を書いたボトルメールを流す」
「なんだってそんな面倒くさいことを……」
リットが何度手間を掛けるんだと呆れていると、スズキ・サンに釣り竿を投げつけられた。
「セイレーンとかメロウも歌いに来るから、耐性のない種族がきたら危険でしょう」
「人間はそれを見て大海原へ飛び出したんだぞ」
「迷惑。大人しく釣りでもしてればいいのよ」
隣で釣り竿を垂らすスズキ・サンをリットは訝しく見ていた。
「人魚なんだから晩飯くらい泳いで取ってきたらどうだ?」
「誰が魚を釣るって言ったのよ。ボトルメールがないなら、バブルメールよ。さっき体験したでしょう」
スズキ・サンが言っているのは、海底都市バブルで体験した泡による会話だ。
リットは『男人魚は引きこもり。伝達手段は泡』というスズキ・サンの言葉を思い出した。
「もしかして、盗聴するのか?」
「奪うだけだ。海賊らしいだろう?」
セイリンはニヤリと笑うとマーメイドハープをポロンとひと撫でして水柱を立てると、周囲を見渡せる特等席から釣り糸を垂らした。
競うようにスズキ・サンも水柱の上から釣りを始めると、イトウ・サンがおどおどとリットに近づいてきた。
「あの……普通の釣りとは違います。泡を釣るのでお間違いなく。この透明な針は特殊で、魚が引っかかることはありませんから」
それだけ言うとイトウ・サンも自ら立てた水柱の上へ行ってしまった。
リットはまっすぐな釣り針を見ると、こんなものでどう釣れと思いながらも海へ釣り糸を垂らした。
案の定何も引っかかることはない。それはリットだけではなく、セイリン達も同じだった。
もとより時間がかかることがわかった上で、特等席を作ったのだった。
せめて普通の釣り針の形をしていれば暇つぶしにもなったのだが、餌もついていない真っ直ぐな釣り針に食いつくマヌケな魚はいない。
リットはやってられないと釣り糸を引き上げると、ラム酒を一本。栓を抜く音を空に響かせて乾杯すると、喉を鳴らして飲んだ。
ボコボコと口の中の空気と引き換えに、ラム酒が流れ込んでくる。
リットは瓶の中で出来る泡を見ると、ふとあることに気付いてセイリンの立てた水柱に近づいた。
水柱が上がっているなら、海中から海水を押し上げているということだ。
海底の伝達手段である泡も一緒に上がってくる。
リットは過去にも種族の魔法による水柱を何度も見ている。
魔女の魔力では四性質と四大元素が重要だが、特化した種族というのは、人間にとって重要なプロセスを飛び越せる力を持っている。
つまり純粋な水の魔力を使って水柱を上げている。
この水柱の中にある泡は、海底からの魔力ということになるので、全ての泡がバブルメールということだ。
リットは早速見つけた小さな泡に向けて、直接釣り糸を入れて引っ掛けた。
バブルメールは海上で見ると魚の卵のようで、乱暴にデッキに叩きつけられて割れると、『あーもう……おしとやかな人魚はいないのか……』という男の人魚の愚痴が響いた。
関係のない情報だと無視して、次々とバブルメールを採取してると、セイリンが水柱を止めて降りてきた。
「風情のない男め」
「効率的だろう」
「嫌味だ。よく裏技ばかり思いつく……」
セイリンは人魚としては邪法だが、自分は混じり物の海賊だと自分の考えを鼻で笑い飛ばすと、一際大きな水柱を立てた。
高さはないがとにかく太い。
まるで注がれたばかりのビールのようにブクブクと泡立っていた。
「素直に褒めろよ。褒めれば男もこれくらい立つ」
リットがラム酒を傾けると、セイリンも落ちていた飲みかけの瓶を拾って乾杯した。
その傍らでは、『おい……返事がないけど、バカな人魚に殺されたか?』と採取したバブルメールから響いたが、スズキ・サンの尾びれに叩き潰された。
「アイツらって本当に根暗ね……ムカつく」
「その割れかける前に、別のメッセージを上書きできねぇのか?」
「それ、面白い」
スズキ・サンは自分達と関係のないバブルメールに次々と勝手に言葉を付け加えて海に放流すると、これで海が大荒れだと騒いだ。
「頭いいんだな」
リットが言うと、スズキ・サンは腰に手を当ててえばった。
「へへーん! そうでしょう!」
「この辺に投げたら、全部セイリンの水柱が吸い上げるぞ」
「何十個もやる前に指摘しなさいよ……」
スズキ・サンが睨みつけると、リットはニヤッと笑った。
「これで暇つぶしが出来たからな」
リットが採取したバブルメールからは、スズキ・サンが得意げになって演説してるバカな妄想が響いていた。