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第三話

「文句を言ってたけどよ。存外……船旅ってのは悪くねぇな。今ならマグダホンが船を欲しがった理由が理解できる」

 リットはお手製のハンモックに揺られながら、ゆっくり身体を通り抜ける潮風と、帆に遮られた柔らかな日差しを浴びてのんびりしていた。

 今は無風状態であり、イトウ・サンとスズキ・サンの二人が泳いで船を引いていた。

 小型の商船だとしても、さすがに二人だけの力では、イサリビィ海賊団の時のような猛スピードは出ない。それでも停滞することを考えれば、十分過ぎるほどのスピードだ。

 小型船を動かすのは人魚の力だけで十分であり、リットのやることはカモメがたまに落とすお弁当をモップで拭き取るくらいだ。

 商船に乗った時とも、海賊船に乗った時とも違う。ほぼやることがない状態だった。

 セイリンは狭い船長室に閉じこもったきり顔を出さない。

 昼間から飲んだくれるには申し分のない心持ちだった。

 親指に飛ばされた酒瓶のコルクは、一度小舟のヘリに当たって海に落ちるが、軽すぎて水しぶきは舞わない。

 掲げた酒瓶が太陽に反射するとリットは目をつぶったが、その表情に険しさはない。極上の笑みで、ゴクリとラム酒を一口喉へと流し込んだ。

 熱い吐息が潮風と混ざると、いつもより酔いの回りが早くなっている気がした。

 二口目が喉を通り過ぎたあとは、もう眠気が襲ってきた。

 日差しという毛布。波という揺りかご。

 リットはあやされるまま眠りに落ちるはずだった。

 現実と夢の間。水平線のような曖昧だが確かに感じる心地良さ。

 夢への扉をノックされれば、すぐにでも意識はまどろみの中へと消えていく。

 だが実際にノックされたのは、現実へと続く扉だった。

「いいご身分だな」

 まぶたを腫らしたセイリンは、人間の方の足でリットの背中に蹴りを入れた。

 衝撃は軽いものだったが、自らの体重で転げ落ちるには十分すぎるほどの揺れだ。

「船が盗られて泣いてるのは自己責任だろ。オレに当たるなよ」

 リットは酒瓶が割れなかったことにほっとすると、ハンモックを結びつけているマストに寄りかかった。

「ロウソクの明かりの中で一晩地図とにらみ合ってみろ」

「恋でも生まれたか?」

「全くそのとおりだ。今すぐにでも八つ裂きにしてやりたいほど恋い焦がれている」

 セイリンは真顔になると、その一瞬のうちにナイフを樽へ突き刺した。

 中に入っていたのはライムであり、滴り落ちる血のように、果汁がぽたぽたと甲板を汚した。

 誰がどう見ても、船を盗まれたことに対して苛立っているのがまるわかりだった。

「それであの二人は仲良く水泳中ってわけか」

 無風といえども、必死こいて船を引っ張るような事態ではない。

 昨夜はまだ酔いが残っていたので気付かなかったリットだったが、セイリンの様子はとてもまともとは言えないものだった。

「ジョークに付き合える状態だと思うか?」

「フラレて落ち込んでる相手にはジョークの一つでも言うもんだ。陸の酒場じゃな、そういうルールなんだよ。船がどうした。船なんてもんは港の数より多いじゃねぇか」

「そういう問題ではない。海賊が船を盗まれるのが問題なんだ」

「だからそっちの問題だろ」

「だから八つ当たりしているんだ」

 セイリンはリットが持つ酒瓶を奪い取ると、それを一気に飲み干し、空いた瓶を海へと投げ捨てた。

「おいおい……。八つ当たりをしろよ。酒を奪うな」

「元々奪った酒だ。それよりも……選べ」

 セイリンは外套の内ポケットから地図を二枚取り出すと、リットの顔に貼り付けた。

 日差しにうっすら汗をかいた額に、それはもうぴったりとくっついていた。

「知ってるか? 地図ってのは陸だから価値があんだ。海賊なら海図を読んだらどうだ」

「よく見ろ。それが陸の地図に見えるか?」

「見えるから文句を垂れてんだよ」

 リットは何度も地図を見た。これまでの冒険で何度も地図を見てきたし、なにより冒険者であるクーに地図の読み方を習っているので、間違えるはずはなかった。

「それは海底の地図だ」

「だからよ……。わかるかよ」

 セイリンは野暮ったいと苛立った。先程樽に刺したナイフを抜き取ると、リットが広げた地図に向かって振り下ろした。

「わかるか? ここが現在地だ。この下に山がある。海の中のほうが陸だらけだ」

「なにを言ってんだよ……」

「うるさい男だ……。黙らせたほうが早いか」

 セイリンがマーメイドハープの弦に触れて音を出すと、ため息のように気だるく音色が鳴り響いた。

 そして、散歩に行くかのような自然な動作でリットに近寄ると、ためらうことなく唇に唇を合わせた。

 突然のキスにリットが驚くことはなかった。

 それより驚くことが、すぐそこに迫っていたからだ。

 ありえないことに、高波が両手を広げて両サイドから船を飲み込もうとしていた。

「この高波はクラーケンか!?」

「もっと聡い男だと思っていたが……」

 セイリンがため息を落とした瞬間。

 船は高波に飲み込まれて沈んだ。

 リットが違和を感じたのはすぐだった。

 波に飲み込まれ、水に閉じ込められたというのに、セイリンのため息は続けて聞こえていたのだ。

 だが、パニックになり酸素をすぐに使い果たしたリットは、すぐに思考が停滞してしまった。

 我慢に我慢を重ね、もうダメだと呼吸を求めると、驚くほどあっさり空気が肺を満たした。

「死ぬかと思った……」

「器用な奴だな。口も鼻も塞がず窒息しようとしてるんだからな」

 リットをからかい、予想通りの反応が返ってきたことに満足したセイリンは、憑き物が取れたような顔をしていた。

「説明しろよ。まさか本当は船の上でオレを殺して、ゴーストになったオレを海底に引きずり込んだってわけじゃねぇだろうな」

「どうしてそう思う」

「ユレインがゴーストだからだよ」

「なるほど……。頭は回りだしたようだな。だが、そうややこしく考えるな。これは男女の口付けだ」

「男女の口付けが一番ややこしいって知ってたか?」

「人魚のおとぎ話など、何度も陸で聞いているだろう。人魚のキスは、水中で呼吸できない種族を海底へ連れて行くための手段だ。惚れた腫れたなど勝手な物語をつけたのは陸の種族だ」

「人間は話に尾ひれをつけるのが好きだからな。それにしても……」

 リットは光が遠くなっていく風景に恐怖を感じていたが、闇に飲まれていたテスカガンドにいた時のことを思い出すと、恐怖は穏やかに溶けていった。

 それと同時に呼吸という不安も混ざって消えていった。

「心配するな。私がいるだろう」

「頼もしいこった……」

 リットの言葉は皮肉ではなかった。

 セイリンは半分が人魚メロウであり、もう半分は人間のハーフなので、他の人魚のように水中呼吸が堪能ではない。

 呼吸に限界があるということはリットと同じなので、考えなしの無茶をやらかしたわけではないとわかったので安心したのだった。

「からかってスッとしたのはいいが……行き先は決まってしまったな」

 セイリンが出した海底図は二枚。

 奇しくも前日話題に出ていた『バブルス』という海底都市へと向かうための海底図だった。

「行き先はどうでもいい。どうせ海底のことはわからねぇからな。それより、海底図の読み方を教えろ。それが目下一番の不安だ」

「潮の流れを考えろ。そうすれば自ずとルートが見えてくるだろう」

 セイリンは適当に言っているわけではない。海の中は複雑に海流が混ざり合っているので、陸の地図のように指でなぞって考えるわけにはいかない。

 それに船は前後左右ではなく、真下に進んでいる。

 真下へと向かうための地図など、リットは一度も今まで読んだことはなかった。

 だが「なるほど……わかった」と自信満々に呟ける理由があった。

「適当な男め……」

「適当じゃねぇよ。これから先は右下」

 リットが言うと、遅れて船体が傾いた。

「勘か?」

「勘じゃねぇよ。今度は真下だ」

 リットが次々と船の進行方向を当てるので、不思議に思ったセイリンだったが、その視線の先に見える二人の人魚の後ろ姿を確認すると、イトウ・サンとスズキ・サンを見てリットが判断していたとわかった。

「まったく……順応の早い男だ」

「ありがてぇことに真っ暗だからな。万が一の巨大生物に怯える心配もねぇ」

「まぁこっちも同じようなものだ。ハーフでも人魚だとしても、暗いことには変わりない。慣れているか慣れていないかだ。海を女だと思え」

「そう思うと途端に怖くなった」

「アホめ……鼓舞してやってるんだぞ」

「じゃあ海を女だと思えなんて言うなよ。オマエがさっきなげた空き瓶。海が女なら、文句を言われるのはなぜか男のオレだ」

「バブルスへの通行量だ。陸のガラスは海底で人気だからな。なんせ人間が来ない」

「そりゃ住所を書いた招待状を貰ってねぇからな」

 リットはようやく皮肉で一発返せると清々した顔をしていたのだが、セイリンは何を当たり前のこと真顔で返した。

「バブルスは何度も招待状を出してるぞ」

「じゃあドレスコードに引っかかったんだろうな。陸の種族は鱗がねぇからな」

「まさかジョークの類だとでも思ってるのか? アリスが空き瓶に手紙を入れて流してるのを見たことないか? あれはバブルスのマネだ。違うところは、アリスは敵船に向けてだが、バブルスは海底図も入れて案内しているところだ。招待状以外なんでもないだろう」

「それな……地上では宝の地図って呼ばれてる」

「アホか……宝の地図じゃなくて海底図だ」

「海底図なんて読めるかよ。地上には海底がないんだ。なんでかわかるか? セイリンにはわかんねぇだろうな。難問中の難問だ。地上で五年は生きねぇとわからねぇ」

「何を言ってる……」

「五歳児でも地上に海底はないってわかるって皮肉だ」

「どうりでマーメイドハープが人魚にしか売れないはずだ。『ジーン』が嘆いてた」

「マーメイドハープなんて、そもそもお宝みてぇな……」

「言葉が止まったな。考えていることはわかるぞ。だが無理だ」

「まだなんも言ってねぇだろう」

「私は海賊だぞ。その目を見れば何を考えているかわかる。マーメイドハープはすべて男の人魚が手作りしている。その全てに制作者がわかるシンボルがある。流出がバレた場合。報復の手段はいくらでもある。これは忠告だぞ。リットが関わった魔女の呪いのように、人魚にも呪いがある。違うのは人魚は魔女ほど優しくないということだ」

「あのなぁ……魔女が優しいもんかよ……」

 リットは『闇に呑まれる』という現象を起こした魔女の呪いを思い出して、顔を苦痛に歪めた。

「優しいだろう。解決できたんだからな。人魚の呪いは相手を苦しめるためだけに存在する。解決なんかさせる必要がない」

「さっきのキス……まさか呪いだなんて言わねぇだろうな。いかにもな人魚伝説ぽいけどよ」

 リットは闇に飲まれるという魔女の魔法から考えて、呼吸ができるようになる人魚のキスには、同じようなしっぺ返しが来ると思った。

「魔女じゃなくて人魚の魔法だ。魔女との付き合いが長いようだが、今は培ってきた知識を全部捨てろ。海底では役に立たん知識だ」

「ノーラじゃねぇんだぞ。いちにのさんでポカンといくかよ。第一半分人間だろう。呼吸の効果も半分ってこたねぇだろうな」

「そうすれば、私もリットも仲良く海の藻屑だ。まぁこれも人魚伝説らしくていいだろう」

「伝説ってのは、死ぬから伝説になるって知ってたか?」

「ならちょうどいい。幽霊船に喧嘩を売るにはもってこいだ」

「その詳しい話は、いつしてくれんだ……」

「今は話せない」

「なんでだよ」

「バブルスに近付いてきたからだ」

「おい、逃げるつもりか?」

「逃げてはない。向かっているだろ」セイリンはジョークめいて言ったあと、すぐ真面目な声色に戻した。「いいか? バブルスではどんな小声でも街中に広まると思え」

「人間は噂の的ってか?」

「恥をかくのは勝手だが、巻き込むな」セイリンはしっかり脅しを入れると「どうせ暇だろう。見張りでもしておいてくれ」と言い残し、船長室へと戻っていった。

 やってられるかとリットもどこかへ行こうとしたが、マーメイドハープの魔法で作られた水錠が足を甲板に固定していた。

 水流に流れていかないようセイリンが施したものだとわかっているで、文句を言えるはずもなく、真っ暗な海に時折輝く生物発光の不思議な光を眺めていた。

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