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第二十五話

 空は消し炭のように真っ黒な雲が広がり、自らを沈下するようにサァサァと雨を降らせた。

 月は疎か、星の瞬きさえも緞帳の闇に吸い込まれる。

 そんな切なさと悲しさが染まる空の下では、賑やかな明かりと負けないくらいの騒々しい酔っぱらいの声が響いていた。

「そういえば……こんな夜だったな。誰かさんが姿を消したのは」

 カーターは洗い終えたグラスを拭きながら、横目をちらっとリットへ向けた。

「遠慮すんな。親友が帰ってきたんだ。存分に奢れ」

「つい昨日だろ。そらとぶお船に乗ったお話をして、酔っぱらいに奢らせたのはよ」

「昨日にバレたんだよ。まぁ……三日連続で奢らせたんだから上出来だな」

 リットがナッツを口に放り込むと、流し込もうとしたコップの中身が増えていることに気付いた。

 当然目の前のカーターが注いだからであり、落ち込んでもいない客に彼がサービスする理由は一つだ。

「本当はどうなんだよ。ノーラにも行き先を告げずだぞ。オレは女と情熱の日を過ごしたことに賭けたんだ。嘘でも相手の女を探し出すぞ。負けたら、ローレンが女を酒場に連れ込むたびに、高級ワインを出さなきゃいけなくなる」

「正直に話しただろう。人魚の船が空を飛んで、演奏会を開いたら、島の歴史を変えたんだ。そして、酒のせいで記憶は曖昧ときたもんだ」

「随分都合の良い夢だな。子どもが作るおとぎ話だってもっとまともだぜ」

「オレもそう思う」

「泡沫の夢ってのは、もっと儚くて情熱的なもんだぞ。酔っ払いが寝て起きて繰り返して記憶をなくすことじゃねぇ」

「オレもそう思う」

「だいたいなんだって人魚が空を飛ぶ必要があるんだよ。もしも本当だとしたら、今頃空は魚だらけだ」

「オレもそう思う」

「さっきから同じ言葉で返しやがって……まさかもう酔ったのか?」

「ここは酒場だぞ。酔ってるに決まってる。……これでもな、余計な部分は端折って簡潔に伝えてるんだ。これで理解されなきゃお手上げだ」

 リットはコップの中身を半分ほど一気に飲むと、ウイスキーの芳香が残る口にナッツを放り込んだ。

「かいつまんで話すから伝わらねぇんだ。ほら、言えよ。どんな女が出てきても驚きはしない。オレとオマエの仲だろ?」

「ならよかった」

 リットは万杯まで注げとコップをかかげると、ため息混じりに注がれた酒を手にこぼしながら飲んだ。

 そして、アルコールでふわりと軽くなった頭で、夢物語のような現実の出来事をカーターに話したのだった。

 カーターは「なるほどな」と深く頷いた。次いでため息を吐ききると「人魚の海賊の話は前に聞いたからまだしもだ……。ゴーストの海賊だぁ?」と声を裏返した。

「話を聞けよ……。元人魚のゴーストの海賊だ」

「余計信憑性にかける。まだ天使が空から落ちてきたほうが信じられる。この目で見たしな」

「見せてやりてぇよ。こんな雨の日はもしかしたら、さらいに来るかもしれねぇぞ? こわーい海賊船がな」

 リットが言うのと同時に雷が鳴った。

 その轟音はすぐ近くに落ちたかの夜に響いたので、カーターは思わず窓に駆け寄って空を見た。

 空は相変わらずの黒い雲。だが、いつしか雨は止んでいた。

「びっくりしたぜ……まさか本当に海賊船がやって来たのかと思った」

 カーターがびっくりしたのには、ある理由があった。

 それはリットが姿を消す前後に流行っていた噂話のせいだ。



 黒雲と呼ぶにはあまりにも広範囲な雨雲が空を支配していた。

 夜を美しく照らす月明かりもなければ、頼りなく瞬く星明かりもない。

 地上の闇と一体化し、無限に闇が広がっている。

 時折雷鳴が轟いて、空に角のような光のヒビを入れるだけだ。そのヒビも一瞬で消えてしまい、再び闇に落とされる。

 大嵐の夜は世界中どこでも同じ。まるで地上が海になったかのような荒々しさに襲われるものだ。

 旅の途中。一人の若い男は判断を間違えて林を彷徨っていた。

 足は何度もぬかるみに取られ、疲れきって棒のようになってしまった。

 だが、ようやく風がしのげそうな岩陰を見つけた。

 雨は当たるが、テント用の布で屋根を作ればいい。

 男はカバンを肩から下ろすと、素早く屋根を作り、体を乾かそうと思い準備を始めた。

 しかし、雷が空を照らしたことにより、男は風邪を引くこととなってしまった。

 空に蔓延る真っ黒な雨雲。

 それを切り裂く雷。

 まぶしすぎるほどの光が黒雲を照らした。その一瞬の出来事。

 雲を割る雷の隙間に、空を泳ぐ船を見つけてしまったのだ。

 熱が出たことによる幻覚の可能性もある。まばゆさが作り出した幻視の可能性もある。

 だが、男はそれが船であることを疑わなかった。



 そんな噂話とともにリットが消えたのと、再びリットが現れたタイミングで空を切り裂く雷が鳴ったせいで、カーターの心臓は必要以上に激しく動悸したのだった。

 噂の正体を知っているリットは「この雨じゃ無理だろうよ。止み際の雷かもな」と余裕の態度を見せると、少し夜風に当たろうとカーターの隣に立って、窓から少し身を乗り出した。

 窓枠からの景色は酒場に入る時とは全く違っていた。

 雲を引きちぎるようにして現れた月は、濡れた草花を艷やかに照らし、これから寝苦しくなると知らせた。

 むせるような夏の土の匂いを運んだ風が頬を撫でると、リットは寝苦しい夜に苦しまないうちに帰ろうと酒場を後にした。



「まぁーた消えたかと思いましたよ」

 家に帰るなり、ノーラは頬を膨らませた。

 不満にというわけではなく、パンパンに詰まったパンのせいだ。

「そうそう連れ去られてたまるかよ。いいから早く食えよ。カビが生えるぞ」

 リットはテーブルに置かれたパンの山にうんざりしていた。

 リットがいない間。当然ランプ屋は休業だった。オイルを売るくらいならノーラにも出来るのだが、心配したイミル婆さんがノーラの面倒を見るのと同時に、ここでパン屋の支店を開いていたのだ。

 同じパン屋が町に二つあったところで売上が変わるわけはなく、その殆どはノーラが自分で消費することとなった。

 そうしてリットが帰ってきたところで、売れ残りを押し付けられたのだ。

「任してくださいなァ。まさしくそれが天職ってやつでさァ」

 ノーラはパンを乱暴にちぎると、ギトギトになるまでジャムを塗って口に押し込んだ

「もっと味わって食えよ。それは善意の貰いもんじゃなくて、善意を装った悪意によって買わされたもんだぞ」

「旦那ァ……」

「わーってるよ。八つ当たりだ。なんだこの暑さ……」

「それは今が夏で、さっきの雨のせいで蒸してるからですよ」

「状況を説明しろって言ってるんじゃねぇよ。なんとかしろって言ってんだ。火の扱いはお手のもんだろう」

「いっそ家でも燃やします? 冷汗を掻いて涼しくなりますよ」

「こんだけ暗いんだ。燃やせば空からは目印になるな。いっそ天使から通行料でも取るか」

 リットが窓に目を向け、雲を晴らせた月に投げかけるように言うと、空はガラスのようにひび割れた。

「大きかったっスねェ。もう一雨来るかもしれませんよォ」

 突然の雷にノーラがテンションを上げるが、リットは今更なんだと逆にテンションを下げた。

「さっきもどでかいのが一発鳴っただろう」

「鳴ってませんよ。鬱々とした雨の音ばっかりでさァ。景気よく雷が鳴るなら、チルカも騒ぐってなもんスよ」

「酔っ払いのトイレの音だとでも言うつもりか? 酔っ払いが雷みたいな音を出すのは、翌朝の話だ」

「変なことを言う旦那に向けて、天罰の雷かもしれませんよ。旦那の悪名は空にも響き渡ってますからねェ」

「んなわけ――」

 ――あるか。と続けようとしたリットだったが、リットが窓に目を向けた瞬間。再び雷が鳴った。

「ね?」

「タイミングは良すぎるな。まさかマックスじゃねぇだろうな」

 リットが窓から身を乗り出したタイミングで、ちょうど裏庭へ落雷し、寝ていた妖精たちが騒ぎ出した。

「ちょっとちょっと! ヤシの実が降ってきたわよ!!」

 チルカが拳で何度も窓ガラスを叩くので、リットは何事かと裏庭へ向かった。

「こりゃ……浮遊大陸の植物じゃねぇか」

 今降ってきたものは、リットが孤島で妖精の白ユリのオイルを送ってもらった時と同じ植物。

 そして、中に入っているのも同じく妖精の白ユリのオイルだった。

「これ繊維質でいいじゃない。ベッドの材料に使っちゃおう」

 害がないとわかったチルカは、早速浮遊大陸の植物を活用しようと、一部を切り取って自分の寝床にしている食器棚へと運んだ。

 リットもチルカには興味がなくなり、なぜ今妖精の白ユリのオイルが再び送られたのか。その意味を考えていた。

 だが、考えという考えが浮かぶ前に、リットは目の前の現実に思考を飛ばされてしまった。

「……ゴーストシップは海で出ろよ」

 リットの目の前に現れたのはユレインだった。

 川釣りをするような小さなボートに乗っており、周りには誰もおらず一人だった。

 気付けばノーラの姿もなく、リットは窓を挟んでユレインと二人きりになっていた。

「見たらわかるでしょう? ゴーストにとってここがホームなの」

 ユレインは周りを見たわすように布に巻かれた人差し指を振り回した。

 雨雲に月や星を隠された暗さだけではない。雷が落ちた瞬間のような白飛びの世界が広がっていた。

 だが、それは見た目だけであり、置いている家具や配置はリットの家そのものだった。

「……クーの言ってた世界だな」

「知ってると思った。ここは時間があってない世界。生命が有って無い世界。魔法が魔法になる前の世界って表現が一番の近いのかもね」

「安全なんだろうな……」

「セイリンにキスされてるでしょう。なら大丈夫。リットは半分死んでる状態だからね」

「おい……聞いてねぇぞ」

 リットは急に背筋が凍るのを感じ、手を擦りわせてみたり、頬を叩いてみたり、自分がここに存在敷いているのを確かめた。

「そりゃそうでしょう。人魚は自分が使った魔法の後先は考えないの。演奏海だって、遠くの浜で高波になったり津波になったりするけどさ。関係ないってやつ。海に連れて行かれなかった恋人とかね」

「最後の言葉を否定するのに時間を費やしたいけど、人生最後の時間を勘違いの恋愛で潰されたくねぇ。酒でも出してくれ……」

「察しが良いじゃん! ほら、飲んで飲んで」

 ユレインが上機嫌で差し出したのは、海藻にまみれたコーダックの酒瓶だった。

 リット達が飲み干して空になったはずなのに、中身はすっかり酒で満たされていた。

「死んでるのにまた殺すつもりか?」

「これはこっちの世界でのコーダックの酒瓶だよ。人魚の呪いを解くアイテムだよ知らないの?」

 ユレインはコップを二つ。リットの分にだけ酒を注いだ。

「知るかよ。それのせいで散々な目にあったんだぞ」

「そうだよ。リットはこのお酒を飲んだせいで、今自分がどこの時間にいるのかがわからなくなってるってこと」

「それって、セイリンが言ってた角が供養塔に変わった理由か?」

「そうだねー。『ゴーストの時間』って奴を利用したの。おっと……聞かれても答えないよ。世界を変えちゃうような力だからね」

「よくも巻き込んでくれたもんだ」

「そのことなんだけどさ……多分リットって利用されてるよ」

「どうせダークエルフだろう? コーダックの酒瓶を売りに来たのがダークエルフって言ってたからな」

「騙され慣れてるんだ。まっ、だからこそ知ったんだけどね。リットを利用する方法を。深くは言わないけどさ。ランプってあの世とこの世をつなぐ光だったりさ、クラゲって不老不死って呼ばれてたり。色々あるんだよね。――さあ、そのお酒を飲む前に、こっちも返してもらって良い?」

 クーが関係しているなら、呪いの解き方も本当だろうとリットが注がれた酒を飲もうとした時、ユレインは酒を奪い返し、空のコップを差し出した。

「ちょっと……ただで呪いを解くと思った?」

「じゃあなにしに来たんだよ。こんな変な力まで使ってよ。海賊船も、ゴーストシップも、出るのは家の横じゃなくて海の上だぞ」

「夢の中で受け取った妖精の白ユリのオイルを貰いに来たの」

「夢の中でって……これのことか?」

 リットはいつの間にか自分の手に握られていたランプを見せた。

 それは泥レンガを固めるのに使った、浮遊大陸から送られた妖精の白ユリのオイルが入っている。

 そして、もう一つ重要なことがあった。

「フェニックスの炎は消しちまったぞ」

「フェニックスの炎は消えない。知ってるでしょう」

「焦げ跡が光るくらいだ。燃えてるわけじゃねぇだろう」

「この世はすべて二面性だよ。雨があれば晴れがあるし、生があれば死もある」ユレインが持っていた空のコップは、いつの間にかリットの持っていたランプと入れ替わっていた。「ついでに言うと、それが現実の世界の太陽の光だよ。しっかり浴びてね」

 ユレインは自分がリットへ姿を現す前に落ちてきていた、浮遊大陸からの届け物へと指を指した。

「妖精の白ユリのオイルか……オレが頼んだんじゃなくて、ただの忘れ物ってことになってるな」

「あれ? そういう記憶もあるんだ……もしかして、過去に時空超えた経験とかある?」

「ねぇよ。あったらこんなとこにいねぇだろ」

「そうか……そうだよね。まぁ、リットに興味を出させないように言われてるからもう行くよ! 錨を上げろ! 常夜へ針路を取るぞ!」

 ユレインが号令すると、窓の向こうは一面真っ黒な海へと変わった。

 見覚えのあるボーン・ドレス号は、見覚えのない『ボーン・ドリス号』へと代わり、新たなゴーストシップとなったのがわかった。

 なぜなら、酒場よりも陽気なゴーストシップの船員の声がそこかしこから聞こてきたからだ。

「準備は万端だ! いつでも良いぞ! 船長!」

 影と違いがないゴーストが勢いよく言うと、「あいあいさー!」とユレインが無邪気に返事した。

「拾われ人魚っ子に戻ってるよ。船長」

「うるさいわよ。今はカッコつける場面なの」

 ユレインがふてくされると、代わりに人間のゴーストが声を大きくした。

「あいよ。なら時代は大荒れ、太陽の代わりに輝く戦火。新生アビサル海賊団! あの世とこの世の狭間に揺れよ!」


「もう……あなたが船長やったらどうかしら?」

「船長……。口調が戻ってるって」

「知らない……ゴーストらしく消える。黙って」

「これが黙ってか」男はひとしきり笑うと「ありがとな。うちの船長の面倒を見てくれて」とリットに向かって手を振った。

 それが溺れた人魚のユレインを助けた時の船長だというのがわかったのは、リットに直接その思い出が流れ込んできたからだ。

 そして、その思い出が消えるのと同時に、リットは元の世界へと戻っていた。

 手にはまだ手つかずのコップと、いつの間にか手紙も握らされていた。

「なんスかァ? それ」と、なんの事情も理解していないノーラは、リットの手から手紙を奪い取った。「招待状って書いてありますよ」

「あの世へか?」

「セイリンからっス。演奏会を開いたから聞けってことらしいっス」

「演奏“海”だろ? 人間にとってはあの世だ」

 リットが呆れるのと同時に、手に持ったコップがぶくぶくと泡立ち始めた。

 きめ細やかな泡は割れるとシュワシュワ音を立てるんではなく、ハープの音が響き始めた。

「旦那のあの世ってビールみたいっスね」

「なるほど……洒落た招待状だ。これなら人間でも安全に聞ける」

 リットは音の出るコップを窓際に置くと、ウイスキーではなくラム酒を棚から取り出し別のコップへと注いだ。





 空から雨の気配は一切消え、ビールの泡のようにきめ細やかな星々が輝いている。

 そしてコップの中では、人魚の卵から発せられる泡のように、夜が明けるまで海賊の歌が明るく響いていた。

 白紙に残らないセイリンの五線譜は、どこかでまた新たな物語を作るような。そんな雄々しく自由な海賊の音色だった。

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