第二十三話
「なんだ……また海の底かよ……。人魚ってのは陰気過ぎねぇか?」
目覚めたばかりのリットは闇に似た深海の風景を見て、セイリンにキスをされるとろくな目に合わないと途方に暮れたが、真っ白な窓が開いたものだから驚き、目を見開いた。
真っ白な窓だと思っていたものは巨大な目であり、驚いて尻餅をついたリットに向けてギョロッとした黒目が動いた。
「あまり呑気なことを言ってると、クジラの餌にするぞ」
セイリンが苛立ちに任せて吐き捨てるように放った言葉で、リットは目の前にいるのが生物であり、それが白鯨だと理解するのにそう時間はかからなかった。
「待てよ……このサイズってのは一角白鯨の墓場の角と同じくらいじゃねぇか?」
「そのものだ。ユレインめ……なにを考えている」
セイリンが落ち着いているのは、白鯨の角が島に刺さった状態だからだ。
敵意を持っても、攻撃することは出来ない。もう既に瀕死の状態だった。
だが、その体の大きさから見ると、それがたとえ死体だったとしても迫力に負けていただろう。
「島というより、島を支える岩盤そのもみてぇな大きさだな」
リットは数歩下がって、白鯨の全体像を見ようとしたが、これ以上後ろへ行くと船から落ちて深海へ真っ逆さまだ。
「ビビってるのね」
スズキ・サンは船の縁にリットがしっかり背中を付けているのを見てからかった。
「デカすぎて現実味がねぇ。つーかよ、コーダックの酒瓶の中だっただろう。脱出したのか?」
「現実に戻って、また夢の中よ」
スズキ・サンはため息を付くと、リットの隣に並んで同じように船に減りに背中を預けた。
「酩酊してんのか?」
「そういうものなのよ。荒れた海の潮の流れだと思って諦めなさいよ」
「人間が荒れた海で諦めたら死ぬってことだぞ」
「違うの? 今の状況と」
「……違わねぇな。待てよ……夢の中ってことは死ぬことはねぇってことだよな」
「説明がつかないから夢の中って言ったけど、どうなってるかわからないわ。セイリンの支配下にある船からは出ないほうがいいわよ。たぶん助けられない。私達人魚でもね」
「クジラの死に様を見てけってのか? ユレインはゴースト生活で随分嫌な奴になったらしいな」
「なに考えてるかわからないわよ。ゴーストになった仲間を探すって話だったのに、やってることは人間を驚かせるだけよ」
「なるほどな」
リットはこの場所で役立たずだとわかったので、尻までしっかり船につけてくつろぎの体勢になった。
その妙に落ち着き払った態度が気に入らなかったスズキ・サンは、歴史の寝息とともに嘘の寝言にまみれた白鯨の話をするが、どれもリットの心には響かなかった。
「普通人間は海洋の噂話にはビビるものよ」
「人間の魂も吸い上げられちまったってことだろう。だからユレインが海賊の時代に世話になった人間の魂の解放のために白鯨の角を破壊する。ってことは、これは呪術の類か?」
自分の思った通りの反応がないことに不機嫌になったスズキ・サンは「知らない」とそっぽ向いたで、代わりにイトウ・サンが口を開いた。
「その可能性は高いかもしれません。一角白鯨も、東の国のオオナマズと同じで霊獣の一種ですからね。海の噂話にはジュエリーのほうが詳しいのですが……」
イトウ・サンが当たりをキョロキョロ見回しても、ジュエリーの姿は相変わらずなかった。
「噂話って言えばよ。このでかいクジラの図体はどこいったんだ? 残ってるのは角だけだろう?」
「腐って落ちたんでしょう。一緒に深海の底へ行ったんだから。最後がどうなるかくらいわかるでしょう。なんの泥で船を作ったと思ってるのよ」
再びスズキ・サンが口を挟むが、リットの反応はまたも淡白なものだった。
「なるほどな」
「さっきからなるほどなるほどって、なにかわかったなら言えばいいのよ。思わせぶりなのは宝の地図だけで十分」
「鹿の角って毎年新しく生え変わるって知ってるか?」
「知ってるわけないでしょう。海には鹿も馬もいないの。もしも、いるって騒ぎ立てるやつがいたら、そいつのことを馬鹿って呼ぶのよ」
「鹿と同じタイプの角だったら。白鯨はここで本当に死んだのか?ってことだ」
「自切ってこと? 海の生物でも巻き貝の一部とか、リュウグウノツカイとか、自切する生物もいるけど、大抵は再生しないわよ」
「霊獣だって一生生きるわけじゃねぇだろう。オオナマズだって成長すりゃ龍になるんだ。ただのクジラに戻ることもあるんじゃねぇのか? フェニックスは転生を繰り返してるけどよ。それが代替わりだろ。ふと思ったんだよ。オレが留守の間。代替わりしてるのはノーラだ。ランプ屋じゃなくて、絶対に別の店になってる……」
「最後の余計な私怨のせいで、肝心なことが頭に入ってこないんだけど……」
「一角白鯨は角だけ残して、ただのバカでかいクジラになったってことだ」
リットはフェニックスの羽根のように、霊獣から抜け落ちた体の一部にも魔力が残ってることを知っている。
角が魔力そのものだとしたら、身体はそれを制御する魔法陣だ。
身体(魔法陣)から離れた角(魔力)は、制御を失い暴走する。
本来ならば水棲種族の魂だけを囲うものが、海で命を失ったもの全部に作用するようになった。
その事実を知ったユレインは海を股にかけるのではなく、大本を破壊することを選んだ。
というのが、リットの見解だった。
「じゃあなに? ここで白鯨が死ぬのをただ見てろっていうの?」
「死ぬんじゃなくて逃がすんだろう。ジュエリーはいねぇけど、マーメイドハープを使えるやつが四人もいるんだ。それも一人は普通のマーメイドハープの演奏と違って、破壊がメインと来たもんだ」
リットに視線を向けられたセイリンは、ようやく白鯨から視線を外した。
「破壊がメインではない。そういう音色になるんだ。御すより制したほうがやりやすいだろう。海と一緒だ。まさか上の島を破壊するつもりか?」
「んなこと出来たら、もう一生人魚と関わらねぇよ……。死にかけってことは、存分に悪あがきで暴れた後ってことだろ、角の根元にヒビでも入ってるんじゃねぇか?」
リットが言うのと同時に、イトウ・サンがマーメイドハープを弾いた。
すると、海中と交わることのない水玉ができ、それがレンズの役割を果たして角の表面を拡大した。
リットの指摘通り、角の根元にわずかなヒビが入っているのが見えた。
「何百何千それ以上かどうかわからないほど、長い年月おっ立ってても風化しないほどの頑丈さだぞ」
「男なら尊敬するべきなのかもしれねぇが、出る杭は打たれる。立ち過ぎは折られる。そろそろジジイになって落ち着けとでも言うか?」
「話し合いが通じるならこんなことをしていない……」
セイリンは短いため息の後、海賊の人魚二人に指示を出した。
マグニはまだ出会って日が浅いので、繊細過ぎる攻撃に加わるのは危険だと判断したので、海賊の三人がそれぞれ、砲弾、火薬、大砲の役目に分かれて演奏することとなった。
「さっきまでのワクワクでドキドキの冒険が嘘のようにつまらなくなっちったねー」
マグニはやることがないので、暇そうにお腹で狭い甲板を滑っていた。
その姿はまるで氷の上を滑るアザラシのようだった。
「目の前の巨大なクジラがさっきから目に入ってるだろう」
「たしかに大きいけどさ。大きさで言ったらクラーケンのほうが大きくない? 触手を広げたら、それこそ超巨大だよ。それに山みたい。ヨルムウトル城がある山のほうが大きいし、迫力があるよ」
リットとマグニが呑気な会話を繰り広げる横では、セイリン達が必死に水の砲弾を角の根元に向かって何発も撃っていた。
だがなにも変わらず。言われれば、ヒビが深くなったように感じる程度のダメージしか与えることが出来なかった。
それでも他にやることもないので、セイリンは鬱憤晴らしにもにた気持ちで攻撃を続けた。
そんな無駄な攻撃の音を聞きながら、リットは眠っていたときのことをマグニから聞いた。
一度元の岩肌の上を走る貝の泥舟に戻ったが、再び別の場所へ飛ばされたと。
「こんなのクーの案件だぞ……」
リットは別世界を移動するクーの存在を思い出して深い溜め息をついた。
クーが関わっているとは思わないが、あっちの世界との扉をつながる現象が起きているので、間違いなく『コーダックの酒瓶』は『神の産物』ということになる。
お酒だということもあり、リットの警戒心が緩んでいたのだ。
「副作用が寝るだけってのが救いだな……。目的を持たないやつが飲み干してもなんの意味持たねぇから。そういう意味ではイーブンなのかもな」
「いっそクジラも作っちゃう? フェニックスの時みたいにさ」
マグニがポロンと昔を思い出してマーメイドハープを弾くと、たまたまセイリン達が奏でる和音に重なり、曲に参加することになってしまった。
その結果船底にこびりついていた泥が、セイリン達の水玉の砲弾に混ざり、威力を増して角の根本へ飛んでいくこととなった。
ヒビから僅かな酸素が流れ、海面に向かって細い線を作ったかと思うと、それが突如として海にヒビを入れた。
それは前回と全く同じ現象だった。
風景が粉々に割れて現れたのは青空だった。
「もう! 一人にしないで!」と叫んだのはジュエリーだ。
ジュエリーが泥舟に乗っているということは、ここが現実世界だということを示していた。
「そんなことより……どうなってんだよ」
リットの目の前は青空から、草花が蔓延る草原に変わっていた。
それは確かに岩肌だったもの。
そして白鯨の角は、角ではなく塔になっていた。
それがわかるのは外周を地から天まで届く階段が続いているからだ。
「また別の場所か?」
セイリンが空にあるはずのボーンドレス号を睨んだが、そこにあるのは大きな入道雲だけ。
空を飛んでいたはずのボーンドレス号の姿はない。
それどころか、リット達が座っているのも泥舟ではなく、大きな岩の塊だった。
「なに言ってるの。セイリンが言ったんでしょう。供養塔に行くって、だから孤島から出てきたっていうのに」
ジュエリーは心配そうにセイリンの顔を覗き込んだ。
混乱するセイリンをよそに、リットは草原を先に歩いていた。
なぜなら草原には道があり、それが供養塔まで続いていたからだ。
「岩肌だったことには変わりねぇな……」
リットは土の下にある硬い感触から、時間をかけて岩肌から草原へと変わったのだと理解した。
大雨が降れば土は流れ落ちていく。だが、長い年月をかけて草花が根を張り、土を取り込んで草原に変わったのだと。
問題はなぜ今それが起きたのかだ。
闇に呑まれる現象を解決したケースとは、また違った感じがする。
まるで歴史そのものが変わったような感じだ。
「白鯨の角が供養塔に使われてるみたいだね」
リットについてきたマグニは、さっきそうしたように水玉でレンズを作って、まだ遠くにある角に入口が掘られているのを見せた。
人魚やハーピィなどの姿も見え、禁足地ではないことを示していた。
それどころか、こっちの姿に気付いた人魚が、勝手がわからないのなら、目当ての人魚の墓まで案内すると言い出したので、リットはもしかしてと思って「ユレイン」の名前を出した。
すると驚くことにユレインの墓が存在していた。
しっかり過去の伝説に触れられており、正真正銘ユレインの墓だった。
「どういうことだ……別の場所にあったはずだ」
リットは孤島上にあるユレインの墓にも、その象徴である三角帽子が沈められた海の穴にも行っているので、ユレインの墓は他にはどこにもないと思っていた。
人形は変な人を見る目でなにも答えずに、案内は終えたと持ち場へと戻っていった。
「まだ夢かな?」マグニがリットの隣で首を傾げると、ひん曲がった視線の先にある封筒があるのに気付いた。「これ『演奏海』のお知らせだってさ」
「何年前のだよ……。つーか今はいつなんだ」
「今は今だよ。見て、手紙のマーク」マグニは不思議な波模様へ人差し指を向けた。「これは海の時間を表現してるの。陸と海では時間の感じ方が違うからね。で、これを読み解くに、演奏会が開かれるのは……なんと十日後」
リットとマグニが真実に近付いている頃。
またセイリンも真実に近付いていた。
「なるほど……。あの供養塔は人魚が作ったのか」
人魚は島の下にある穴から直接供養塔に入ることができるようになっていた。
突き刺さった角の根元に入口があるのだ。
このクジラの角が塔になった成り立ちを管理の人魚から聞いたセイリンはため息を落とした。
そして、離れた場所にいるリットと同時に同じ言葉をこぼしたのだった。
「ユレインにやられた……」