第十七話
人の手では決して登ることの出来ない高さの断崖絶壁の孤島。周囲には海しかなく、船が通ることもまずない。
波に打ち付けられてワイングラスのようにえぐれた岩肌を眺めながら、リットは呆気にとられていた。
「どうやって登りゃいいんだよ……」
「マグニのマーメイドハープで行けばいいだろう。何度も体験してきたことに文句を言うな」
セイリンの言葉はご尤もだったが、リットにも言い分があった。
「何度も体験してねぇよ。なんだよ……ありゃ……雪崩か?」
現在船が停泊しているのは、絶壁がすべて見上げられるほど離れた場所。
海底へ引きずり込むように白波が立っているせいで、船ではこれ以上近づけないのだった。
「南の海だぞ。雪崩なんて起きるわけがないだろう。あれは波だ」
「嫌味の一つくらい聞けよ。これからオレはお気楽能天気人魚と、人見知り偏屈アメフラシとこの上へ行くんだぞ。なにがあるのかも知らねぇのにな」
「それを調べに行くんだ。南の海の天気は変わりやすい。嵐で削れ、人魚では行けないような島がいくつかある。そのうちの一つだ。ハーピィーの話では、人間の集落があるらしい」
「ハーピィーうわさ話ほど厄介なものはねぇよ……。いや、あった。妖精のうわさ話だ」
「久しぶりの陸だろう? 妖精でもエルフでも好きに探せ。定期的に船を寄せる。帰る時は気合で見つけろ」
セイリンが合図をすると、マグニがマーメイドハープを弾いて、自らとリットとジュエリーを水柱に乗せて絶壁の上まで運んだ。
崖に巣を作る海鳥が暴れ、舞う羽とともに陸上に降り立った。
「もう……むちゃくちゃなんだから……」
ジュエリーは体についた草と羽を払うと、豆粒くらい小さくなった船を睨みつけた。
「無茶苦茶なのはこっからだ。本当に人が住んでるんだろうな」
リットはジュエリーとは反対側――つまりは島の中心部を見ていた。
人間が通った道は獣道よりもわかりやすい。身だけではなく、道具も運ぶ必要があるので、必然的に広がっていくからだ。
だが、そんな道は見当たらなかった。
草木が生い茂っているので、マグニとジュエリーが干からびることはない。
浮遊大陸のように溜め込む植物でもない限り、植物の生えている方へ進めば水源はある。
そして、人間の生活も水に寄り添って広げられるもの。
リットは不審に思いながらも、雑草の上を颯爽と滑るジュエリーと、その背中に乗ってマーメイドハープを奏でるマグニの後を続いた。
しばらく歩くと、リットの杞憂が証明されるように、生活のニオイがする煙が風に乗って流されてきた。
「なんか臭い……」
マグニはマーメイドハープを弾く手を止めて鼻をつまんだ。
「レンガを焼いてるニオイだ。臭えのは、その土地の土の臭いだろうよ」
「リットって、変なことに詳しいよね」
「詳しくはねぇよ。それだけ人間の生活に寄り添ってる臭いってこった。オマエの魔法と一緒だ。わかるけど、理屈は考えたことはねぇ」
「なるほど。一緒だ。おなかまーおなかまー!」
マグニがリットの手を取ってぶんぶん振っていると、「人魚だーーっ!」という若い男の声が響いた。
そして、マグニと目が合うと一目散に走っていった。
リットは「なるほど……」と男の背中を目で追いながら頷いた。
「なになに? 僕なにか悪いことした!? リットと握手するのが悪いってことなの!?」
「わかったのは、あっちの方向に村があるってことだ。頼むぞ」
リットはマグニを押しやって、無理やりジュエリーの背中にしがみついた。
端から見たら、二人が一人を押しつぶそうとしているような格好なので、ジュエリーから文句が出ないはずもなかった。
「もう……重い……。女の子にしがみつくなんてサイテー」
背中に乗って顔が見えないこともあって、ジュエリーは隠すことなく不満を垂れ流した。
「オレは女にしがみついて育ってきたんだよ。何度も木のてっぺんに置き去りにされてな」
「リットって奇異な人生送ってるよね」
マグニはグリザベルから聞かされていたことも踏まえて、リットの行動力に呆れていた。
「そっちも変わんねぇだろう。絶海の孤島だぞ。浜があるならともかく、どこにもねぇ。……いや、変わるな。どんな奇異な人生を送ってきたか教えろよ……」
「ぼ……僕に言わないでよぉ……」
リットとマグニは目を合わせて、同時に困って眉を下げた。
天を衝くような口笛。潮騒のように途切れない拍手の音。
そして、考え事をさせないような騒音と変わらない大歓声だった。
あまりに音が鳴り止まないので、マグニは「うるさーい!」とマーメイドハープを弾いて、人間たちに水を浴びせた。
これで頭が冷えると思ったのだが、効果は逆だった。
やんややんやと拍手喝采がわいた。
さながらディアナ王国の婚約周年祭のパレードのようだった。
それほど希望に満ちた喧騒が広がった。
リットも圧倒されてしまい、あれよあれよと歓迎を受け、なにもわからないまま翌朝になっていた。
「起きてる?」
ジュエリーが落ちている枝でリットの頬をつつくと、マグニがそれじゃあダメだと小鳥のように舌をチッチと鳴らした。
「リットにはこれが一番だよ」
マグニはマーメイドハープを鳴らすことなく、木桶の水をリットの顔面に向かってぶつけた。
お酒で眠りが浅いリットの耳になんとなく二人の声が届いており、水が顔に当たる前に冷気でそれに気付いたが、よけることも出来ず、ずぶ濡れで身体を起こすことになった。
「まったく思い出せねぇ……」
リットは濡れた髪の毛を絞るように手でかき上げると村を眺めた。
どれも同じレンガ造りの家で、その出入り口は島の中心に向かっていた。
広く眺めると、村はすり鉢状に広がっており、その中心は穴のように深くくぼんでいた。
複雑な道はレンガで縁取りされており、村の外まで続いていた。
「なるほど……雨水がここに溜まらねぇよう、緊急時の水路になってるわけか。でも、なんで中心に向かって流さねぇんだ?」
島の中心がくぼんでいるのなら、逆らわずに中心に向かって水を流すのが普通だ。
「もしかして……下まで運べって言ってる?」
ジュエリーはうんざりして声のトーンを落とした。
なぜなら、今しがたリットを背中に乗せて村の周りを一周してきたところだったからだ。
匍匐前進した女性に覆いかぶさっている男性という構図にしか見えないので、奇異の目に晒されることとなる。
視線により緊張するジュエリーには耐え難いものだった。
「セイリンに面倒見るように言われてんだろう」
リットはハンモックのようにジュエリーの背中に身を預け、人ごとのように空を見上げていた。
ジュエリーがゆっくり地面を這いながら下っていくので、空は高くのんびりと広がっていく。
「脅されてるのよ。リットの手伝いをしないと、元の島まで帰せないって」
「あのなぁ……気付けよ。誘われてんだよ海賊に」
「なんで? 一度断ってるのよ」
「断ってるからだ。何でも欲しがる海賊やってんだぞ。こう見えてもセイリンとはそこそこ長えんだ」
「どう見えてると思い込んでるか知らないけど……大差ないわよ。自分勝手の夢想家。でも、その夢は自分の中でしか見ないタイプ。違う?」
「誰が心理テストしろって言った……。問題はイサリビィ海賊団流の取り引きとか言ってるやつが、持ち出さずに後生大事に島に閉じ込めようとしてることを言ってんだよ」
「セイリンは納得して島を出ていったのよ。お互い意地でもなんでもなくね。だからたまに会いに来る、ちょうどいい関係になったんじゃない」
ジュエリーは女の友情をわかっていないと、バカにしたようなため息を落とした。
その動作はリットへ直接振動となって、嫌味なほど伝わってきていた。
「時代が変わったってことだろ。歳を取ると欲しいもんが変わってくるって、知り合いの婆さんが言ってたぞ。あんなに欲しがった知恵や金はもういらないってな。欲しいのは健康だとよ」
「私がセイリンの健康ってこと?」
「そう飛躍する……いや、そんなもんかもな。今まで人魚の海賊で自由にやってきたんだぞ。それが今やゴーストシップに海を牛耳られそうになってる。相当イラついてる。なりふり構ってられねぇくらいにな」
「確かに……。親友のキスシーンをこう何度も短期間で見るとは思わなかったわ……。島に籠もってる田舎娘には刺激が強すぎ」
「たかがキスだろうが」
「キスして海の底に引っ張っていくっていうのが悲恋でいいんでしょう。水棲種族の常識」
「オマエらの心の健康どうなってんだよ……」
「そうねぇ……。少なくともここまで闇は広がってないと思うわ」
ジュエリーが目の前の光景に絶句していると、筋骨隆々の人懐っこい青年が話しかけてきた。
「よう! 変わった馬に乗ってるな」
「どっちかというと牛だ。なんなんだこりゃ……巨人でも出迎えるのか?」
リットは目の前の大穴と、それを補強するように囲む大型馬車の幌ほどもある大きさのレンガに驚愕した。
「昨日話しただろう? それは良いって盛り上がった。だから二日酔いなんだ」
「悪いけど全く覚えちゃいねぇ。久しぶりに地に足をつけての酒だったせいでな」
「海底トンネルだよ。オレ達はこの島から出るんだ」
この村は元々一つの船に乗り合わせていた人たちで作られたものだ。
そもそもは商船。それが嵐によって絶壁に囲まれた孤島に打ち上げられたのは、当時の様子も知る者もいなくなった大昔だ。
幸い緑も多く、商船の積み荷と船旅の知識のお陰で今日まで生き延びることが出来た。
そして、この大穴はその大昔から続いている一大工事というわけだ。
まだ帰るという意識が高かった時代。
海面まで島の中心のくぼみを掘削しようという話が出て実行された。
しかし、岩肌に囲まれた島の内部は保水性の高い粘土質の土ばかりのせいで上手くいかなかった。
そこで発展したのが泥レンガ――つまり日干しレンガであり、石材が少なく地盤の緩い土地でも家を建てることが出来た。
そして、そのレンガの耐久性を上げたのが、日干しでなく焼くことにより出来る焼成レンガだ。
それが現在村で使われている建材であり、そのレンガは地下へと続く空洞を支えている。
改めて説明されたリットだが、納得できないことが一つあった。
「どうやって運んでるんだよ。この巨大なレンガを」
リットは足元。上から一段目の巨大レンガを足先でコツコツ叩いた。
「それも話したぞ。嘘のような本当の話。昔フェニックスの羽根が落ちてきた。その特殊な炎で焼いたレンガは土ではなく土地となる。だから崩れない」
「まぁ……フェニックスの炎なら、そういうこともありえるかもな」
「昨夜のアンタもそう言ってたよ。からかわずにな。だから続きを話したんだ。この巨大レンガは運んでるんじゃない。その場で作っているんだってな。まさか忘れたのか?」
「なんとなく思い出してきたような。でも、何か思い出さねぇほうが良いような気がしてきた」
リットが男に案内されて穴を降りていく後ろでは、リットの急な興味関心に動かされた突飛な行動に慣れていないジュエリーが絶句していた。
すっかりジュエリーの存在を忘れて地下へ向かったリットは、青年にランプを手渡された瞬間。昨夜の調子のいい言葉をすべて思い出していた。
だが、その言葉は今回リットではなく、横にいる青年の口から発せられていた。
「オレはランプ屋だぞ。こんな湿った穴蔵でちんたら乾くわけねぇだろう。一瞬で乾かすランプを作ってやるよ。焼成レンガより頑丈なやつをな」
「昨夜のオレをぶん殴ってやりてぇ……。その時受け取った酒瓶でな」
リット目の前にあるのは重々しい泥の塊だ。
巨大レンガは、焼成レンガで枠取りされたあと、奥から順に泥粘土固めていき作られている。
これを正しくレンガと呼ぶかはわからないが、未来に発掘され全容がわかれば間違いなく巨大レンガと呼ばれるものだ。
巨人伝説として間違って言い伝わるかもしれない。
だが、それよりも問題は酔って気の大きくなったリットが、妖精の白ユリという身近なアイテムとゴーレムという魔女知識が合わさったせいで安請け合いしてしまったのだった。
そして、もう一つ。改めて厄介な話を聞かされることになった。