第十六話
眩しすぎる太陽の下。その刺すような陽光よりも、リットは鋭い眼光で睨みをきかせていた。
「次は説明しろ」
海面に上がる途中。魔法の効果が切れそうになったので、セイリンにキスされたリットは、短い時間だが、再び昏睡状態になっていた。
「しようとしたが、そっちが寝ていたんだ」
セイリンはひと仕事終えた爽快感から、実に爽やかに酒瓶の栓を抜いて、高らかに乾杯した。
「寝かせたんだろう」
「女のキス一つで夢見心地とはな……。天にも昇る気持ちだったか?」
「そんないいとこじゃねぇよ、上は」リットは酒瓶に手を伸ばしかけたが、砂漠のように乾いた喉を潤すために水瓶を手に取った。「水の中にいたのに喉が乾くってのも変な話だけどな」
「乾くだけで良かったじゃないか。人魚との悲恋話は、溺死か水の泡になって消えると相場が決まっている」
「泡となって消えるのは人魚のほうだろう。まさか努力も水の泡にするつもりじゃねぇだろうな」
「そうカッカするな。宝を手に入れたんだ。空箱ならともかく、中身を詰めての帰還だ。上げるべきは祝杯で、弱音ではない」
セイリンはウキウキで箱に巻かれたチェーンを外す人魚二人に目をやった。
船が海底から弾き出される時に、箱の中身が飛び出さないように巻いただけなので、鍵はなく簡単に開くことができた。
そして、苦労して手に入れた海底の泥は、太陽のもとで宝石を砕いたかのようにきらめいていた。
「うわーきれい……」
イトウ・サンは海泥を両手ですくうと。手のひらの隙間から泥をこぼした。
砂時計のように滑らかに流れ落ちる海泥は、形を作ることなく水の重みで平たくなった。
「どう考えても、この量じゃ足りないけどね」
スズキ・サンの指摘通り、空箱一つ分の泥で岩肌を進むのは不可能だとわかりきっていた。
今回はあくまで実験。海泥がどこまで地上で使えるかを確かめるために手に入れてきたもの。
早速近くの島に船を停泊させて、砂浜に海泥の詰まった箱を置いた。
南国よりの美しい景色が広がっているが、そんなことには目もくれずマグニにハープを弾くよう急かした。
指が弦に触れ、ポロンと音が一つ弾き出されると、泥だけが震え出した。
音が音階となり、ウォームアップが終わりやがてメロディーになると、泥はヘビのようにうねり、浜から森への泥の道を作った。
その泥の上を滑るジュエリーは、津波さながらの勢いと力強さがあった。
マグニが便乗して泥の上に乗っかってマーメイドハープを弾くと、細かいコントロールも利き、木々の隙間も魚が泳ぐように通り抜けることができた。
海泥で遊び倒す二人を横目に、リットは「これなら岩肌の山も越えられそうだな」と深海のように暗く行き詰まった思考に、海面からの光が射すを感じていた。
「とりあえずは乾杯と言ったところか」
一区切りの祝杯を上げようと背を向けたセイリンだったが、リットに声をかけられたことにより、すぐにまた振り向くこととなった。
「こんな暑い中で、酒をのんだら干からびるだろうが」
「とても酒飲みの男の言葉とは思えんな」
「陸で呑気に酒場通いしてるならともかく、孤島で飲み水がねぇのは死活問題なんだよ」
「ここは南よりの海域だぞ。自惚れるバカが男が口説いてくるように、突然スコールが発生する。真水の心配はいらない」
「真水の心配をスコールで解決か……。井戸ってやつを教えてやりてぇよ」
「溜まりがあるということだ。植物の見た目からして、湧き水もあるだろう。ないものを強いてあげるのならば、南国リゾートの宿泊施設だな。」
セイリンの正論を交えた嫌味は、リットに諦めのため息を付かせた。
「わーってるよ。ずっと船の上で気分が悪いから突っかかっただけだ。今、最初の時みてぇにマーメイドハープを弾かれたら、内臓まで出てきそうだ」
大型船と違い、小型船の揺れは気分が悪くなるだけでなく、あちこちに身体をぶつけてしまう。リットは慣れない小型船での長期移動に疲れていた。
そんな表情を悟ったセイリンは、マーメイドハープを軽く奏でて近くの水場から水を運んだ。
「本当に便利だな……。その力を使えば、酒瓶から酒を盗み放題だ」
「今の今まで酒を飲むことに文句を言ってた男はどこだ」
「眼の前に酒があって、水の心配もいらねぇならそこは酒場だ」
「名言だな。女を口説く時に使え」
リットとセイリンが嫌味を言い合っていると、そんなことをやってるのはくだらないと、泥玉を頭にぶつけられた。
リットは鈍く広がる頭の痛みを手のひらで押さえながら、「こりゃ鈍器だぞ……」と泥の重さに驚いた。
「当たり前だろう……。水だけでも鈍器だ。それに土が加わったのが泥だ。頭が吹っ飛ばなかっただけ儲けものだと思え」
「こんなんで頭が吹っ飛んだら死んでも死にきれねぇよ……。ユレインのところに世話になるか。ところで――」リットは自分で出したユレインの名前に、改めて周囲を見渡した。「のんびりに見えるけど、相手の状況はどうなんだよ。ゴーストだと楽なんだろう」
「それも踏まえてのランス海溝だ。ここの南寄りの島。嵐やスコールが多くて寄り付く種族が少ない。そして南国ほど暑くもないから、この辺りはハーピィーが羽休めに良く来る島だ。空の情報は海より最新で速い」
「なるほどな……。でも、向こうも海賊だろう? 同じ手段を使えるんじゃねぇのか?」
「人魚とゴーストの違いは大きい。空を自由に飛ぶハーピィーは、天使族に近い価値観を持っている。詳しくは知らんが、海の神よりも、空の神だ。空の神にゴーストは不要。わかるだろう?」
セイリンは珍しく察せと肩をすくめた。
自由に見える海と空のしがらみのひと場面が垣間見えた。
水平線のように空と海が一つの線で繋がっても、種族としては一筋縄ではいかないということだ。
「残念ながら地上にはもっとたくさん神がいる。上か下かだけじゃねぇんだ。人間まで神様になりたがる。酒場にいきゃ、崇高な神様気取りにも、低俗な人間にもなれる」
「立派な人間になろうとは思わないのか」
「朝になりゃ男は誰でも立派だ」
「夜でも同じだろう。すぐに謝って頭を垂れるがな。こっちがもういいと言っても下げたまんまだ。律儀なもんだな男は」
「あのなぁ……硬くなるってのは――待った」
リットは自分の服についた泥を払った。
「なんだ? 服を脱いで証明するというのなら、泥でお立ち台でも作ってやろうか?」
「良く見ろよ。さっき投げられた泥が泥のまんまだ」
リットが再び服についた泥を払うと、びちゃっと泥が泥に打ち付けられる音が響いた。
「泥というのは泥だぞ」
「泥ってのは乾くんだよ。乾かねぇってことは、あの重さの泥を運ぶってことだろう? マーメイドハープ三つで足りるのか?」
リットが言っているマーメイドハープは、単純に労働人数のことだ。
海泥採取では海賊人魚の三人の働きが肝になる。
数度体験すればマグニも役に立つかもしれないが、今の時点では水面と深海を移動するのには補佐程度にしか役に立たない。
人間のリットとウミウシのジュエリーはもっと役に立たない。
海の中では浮力で軽い泥も、地上に出れば重さが違う。
泥が泥のままでは、小型船で運ぶのは不可能だ。木が泥の重さに耐えられなくなってしまう。
小型船が必要な理由は大量の泥がいるからだ。
当初の予定では泥を土にして船で運ぶつもりだった。
必要な分だけジュエリーの水と土を混ぜて泥にし、泥の道を作って船を走らせる。そうして岩肌を登り、一角白鯨の墓場までたどり着く。
殆どゴールまでの道が見えていた状態だったのだ。
「まさか地上の道づくりと一緒で、少しずつ浜から泥を伸ばしてくのか? 気が遠くなる……。ユレインに来年改めて争ってくれって言ってくれ」
「アホなことを言うな……。だが。乾かないのは事実だ」
セイリンは泥を自分の腕に塗り、何度も手で擦って薄くするが、泥が乾くことなく、艶かしく肌を光らせるだけだった。
絶望の風が吹いたかと思えば、希望の風も吹く。
空から「大変大変たいへーん! たーいーへーん!」と大声が急降下してきたかと思うと、「たいへーん……へんたいだー!」と泥を身体に塗りたくるセイリンを見て、急に翼を畳んだ。
ハーピィーの大きな翼に煽られたせいで、砂浜の砂が砂塵の大竜巻のように舞った。
しかし、それだけの風と砂を浴びせられても泥は泥のままだった。
「変態じゃなくて……大変だ。そう大変大変! 空と海との大戦争!」
ハーピィは人間が両肩に手を置いて詰め寄るように、四つの長い脚の爪でセイリンの肩を掴むと何度も戦争という言葉を口にした。
「なんだって空と海が喧嘩してんだよ」
肩を強く揺さぶられ会話ができないセイリンの代わりにリットが聞いた。
「天使の階段の下にたまたま幽霊船がいたんだけど、バカなゴーストが攻撃だと勘違いして砲弾を撃ったんだって! そしたらヴァルキリーが出てきて、てんやわんやの大騒ぎ! 魔力が暴走してあぶないから逃げてきたんだけど、こんな面白いことみんなに知らせなきゃ! 大変大変! 大変だ!」
ハーピィーは最後に一際強くセイリンの肩を揺らすと、その反動で空へと勢いよく飛び立っていった。
二日酔いさながらにフラフラしながら「朗報だ……」とセイリンがこぼした。
「その様でそれだけ強がれれば立派なもんだ。陸でもやってけるぞ」
「空に向かって砲弾を撃つバカなどアリス以外にいるわけないだろう。上に撃ったら自分の船に落ちる可能性がある。なにはともあれ……ユレインが足止めを食らってることは確かだ」
「こっちもだけどな。だけど時間が出来たのは間違いない。ヴァルキリーはしつこいからな。しばらくは海上と空でやりあってるだろうよ。メンツをかけた牽制のしあいってやつをな」
「魔女の知り合いがいるだろう? どうにか泥を固める手段を聞けないのか?」
「そこにナマズの人魚がいるだろう? 魔女の親友だ。連絡つかずだとよ。そもそも泥を固める手段なんか……そうか……なるほどな」
セイリンが魔女というワードを出した意味。
それは海泥が一度ゼロの魔力に戻った物質ということだ。
魔力循環でゼロになった魔力は、深海から浮上するとともに『純水』と呼ばれるほど統一された水が蓄積される。
そして地上に戻り泥となる。
つまり土に戻す必要がある。
それには魔女の技術が役立ちそうだった。
「その顔はなにか鍵を拾ったということだな。これで決まった」
セイリンはリットの隙をついて握手をした。
「待った……これってまた『海賊の誓い』ってやつじゃねぇのか?」
「察しが良い。キスの二つや三つくれてやって後悔しない男だ。私達は泥を集める。そっちは泥を固める手段を見つける」
「そっち?」
「ちょうど三人ずつ分けられる」
セイリンは握手をしたまま。空いた方の手で、リットの背中越しにマグニとジュエリーを指した。
「役立たず三人を陸に放り出すってか? 海で役立たずってことは、陸で生きられるってことだ。逃げ出すのも簡単だぞ。見栄の張り合いのゲームからな」
リットの嫌味にセイリンは余裕の笑みで返した。
「一角白鯨の墓場」
「あん?」
「私達人魚が一角白鯨の墓場に固執する理由を知らないだろう。ユレインが破壊したがり、私が守ろうとする」
「人魚の伝統だって言ってだろう」
「そうだな」とセイリンは納得すると話は終わりだと、背中を向けた。
ここまでがセイリンの罠だ。そして、リットはまんまとその罠に引っかかることとなった。
「待った。なにかあるのか?」
「あるさ。なければ守らん」
「あっそ……」とリットも一度納得する素振りを見せたが「それって一角白鯨だから関係あるのか? それとも地上で魔力が集まりやすい土地みたいに、海にもそれがあるってことか?」
「さあな」とセイリンは肩をすくめた。「私は魔女学を習ってはいない。理屈合わせは不可能だ。少なくとも、私は自分の目で見たもの以外は信用はしないがな」
「はあ……」とリットは泥のように重く垂れるため息を落とした。「港町までは送ってくれるんだろな」
一度火がついた好奇心には勝てない。リットの性格はセイリンに把握されていた。
「安心しろ。魔女を探してこいとは言っていない。泥を固めて輸送する手段を探してこいってことだ」
「文字だけ聞くと、あほみてえに簡単なことなんだけどな」
「ややこしいことの根本とは得てしてそういうものだ」
「ちげえねえ。乗りかかった船ってのは厄介なもんだな」
「一番厄介な人間が何を言っている……」
セイリンのぼやきはさざなみに消されてしまった。