第十五話
呼吸が深くなり意識は遠のき、それとも呼吸が浅く意識が覚醒しているのか、リットは奇妙な浮遊感を覚えながら、まぶたに映る魔法陣を眺めていた。
実際はまぶたの血管が光に透けて見えただけなのだが、魔女や魔法の知識を中途半端に持っているリットは、幻覚が様々な模様や図形が浮かべては消えていくように見えていた。
現実とあの世の境目のような。まさに夢見心地の状態だ。
弾ける泡のように、時折思想が弾けてなにか思いつこうとするが、あぶくとなって水面へ消えていく。
光の螺旋は糸となり、だんだん細く黒い小さな点となって消えていく。
何もかもが消えていくかと思えば、途端にまた言葉にできないものが広がっている。
そんな摩訶不思議な夢の世界にいたせいで、リットは目を開けた瞬間の光景を、まだ夢だと思っていた。
今乗っている小型の商船と同じくらいの大きさのサメが、口を大きく開けてこちらへ向かっているからだ。
鋭い歯が余すことなく見せびらかせられた時、リットに戦慄が走り目を大きくした。
「逃げろ!」
自分でもよく声が出せたなというような状態だったが、セイリンから返ってきたのは「見てわかるだろう。とっくに逃げている」という辛辣なものだった。
「人魚に悲恋の話が多い理由がわかる。キスされて、寝て起きたらこれだ。朝飯を作ってくれるんじゃなくて、朝飯になれってのか?」
「なりたければ、片腕一本にしてくれ。その足はまだまだ使い道があるからな」
言いながらもセイリンは険しい表情を崩さなかった。
船はまるで煙を吐くように泡を吐き出して前進し、その泡の中から顔を出すサメは異形の怪物に見えて恐怖しかなかった。
「人魚ってのはサメより泳ぎが速いんじゃないのか? あんな怖い顔が付かず離れずの距離にいては心臓に悪いぞ……」
「サメだ? 何を言ってる」
「ありゃサメだろう。それともでっかい鮭か?」
リットの言葉を聞いて、セイリンは恐怖に頭がおかしくなったのかと思ったが、リットが人間だと思い出して面倒くさそうに顔を歪めた。
「そうか……人間の目は闇に弱いんだな」
セイリンに数度目のキスをされた影響により、昏睡状態のままリットが連れて行かれたのは海の底だ。既に海面の光も見えないほどの深海にいるので、リットは近くにいるサメの姿しか見えなかったのだ。
「まさか! サメの大群に追われてるのか!?」
「説明が面倒くさい。ランプを投げろ」
セイリンが指したのはリットが海底都市バブルスで作った海中ランプだ。
「酒瓶と人魚の卵を使った簡易的なものだとしてもだ。これから必要になるかもしれねぇだろ。わざわざ海の藻屑にするのか?」
「真実を知りたいんだろう。言葉にすると矮小化される」
こう気になる言い方をされると、真実を知りたくなるのがリットだ。
そんな性格を把握しているのかしていないのか、セイリンの言葉は見事にリットの頭に好奇心の種を植え付けた。
リットは仕方なく海中ランプを逆さにして光らせた。
小さくぽこぽこと人魚の卵と呼ばれる貝の穴から小さな泡が出ると、貝が青白く光り始めた。
そう強い光というわけではなく、あいも変わらず追ってくるサメの顔がはっきりと映るくらいの強さだ。
リットが投げたランプは、マーメイドハープの魔法の効果範囲外に出ると勢いをなくして水中に浮かんだ。
傷だらけのサメの身体がすぐ横を通り抜けたかと思うと、海中ランプが深海に作る小さな光りのスクリーンには、サメよりも大きな一本の触手が照らし出された。
「おい……なんだあのでかさ。サメから逃げてたんじゃないのか?」
「あんなもの鼻を殴ればすごすご帰っていく。ランス海溝を住処にするクラーケンだ。私が説明するより、今の状況がわかるだろう」
クラーケンの姿が見えず触手だけが追ってきているということは、それだけ巨大な個体が追ってきているということだ。
セイリンに大きなクラーケンが追ってきてると言われても、今ほどの恐怖と緊張は感じなかっただろう。
あっという間に海中ランプの光は見えなくなってしまい。ものすごいスピードで船が水中を進んでいるのがわかった。
「なるほど……睨まれるわけだ」
イトウ・サンはスピードを出すために、スズキ・サンは船体を水流から守るのにマーメイドハープを弾いて、セイリンは舵取りの代わりのマーメイドハープを弾いている。
焦燥感とはかけ離れた優雅な曲が演奏されているせいで、リットはより現実味がなくなっていた。
「どんどん培った常識が奪われてく。やっぱりよ、人間は陸にいるべきだ」
人間にはやれることがないので、リットが座り込んでもセイリンが文句を言うことはなかった。
「ナマズの人魚もだよ。あんなでっかい海の生物。うんちだけで場所取っちゃうよ」
海中の船を動かす経験など当然ないマグニは、リットと同様に船の上で退屈そうにしていた。
「ナマズだってでけぇのがいるだろう。東の国に」
「人間だって大きいのがいるじゃん」
「あの……えっと……」
ジュエリーが口を挟もうとするが、か細い声は二人の耳には届かなかった。
「フェムト・アマゾネスはまた別もんだろうよ」
「それとおんなじー。規格外といっしょにされちゃ困っちゃうねー」
「本当に困ったもんだ。海の泥ってこんなところにしかねぇのか?」
「ねー。川ならそこらが泥だらけなのに」
「あの……その……」
「川だって砂利もあんだろうよ。まぁ……そうか海もそういうもんか。だからクラーケンが棲む海溝の泥か。つーか分解された糞ってなわけだな」
「リットって人と会話してるのに、勝手に答えだすよね。グリザベルが言ってたよ。聞いてきたからヒントを出したのに、自分で答えを導き出したかのように偉ぶるって」
「なら、ヒントじゃなくて答えを言えって言っとけ」
「そんなの自分で言ってよ」
「だとよ。自分で言えと」
リットはマグニの頭を掴むと、遠くを見るように誘導した。
真っ暗な水中だけが目に映るマグニの耳に、ジュエリーの咳払いが一つ響いて聞こえた。
「クラーケンというのは水ごと餌を丸呑みにするの。つまり魔力ごと一気に取り込むの。船が襲われるのは、食べやすく丸めようとされるから。だから人間は触手に襲われてるの。あんなトゲトゲしたものなくしたほうが、逃げるチャンスは多いわよ」
「マストがなけりゃ船は進まねぇよ。人間がどんだけ巧みに楽器を演奏しても、起こるのは拍手と歓声の渦だけだ。波一つ起こせねぇからな。なんだってわざわざ海面まで出てきて食いにくそうなものを選ぶんだよ」
「人間だってわざわざ食べにくいものを食べるでしょう。後は人間の魔力依存」
「魔力依存?」
「単純に魔法に縁あるものが生活に増えたでしょう。その移送手段は船。魔力をセンサーにやってくるの。厄介なことに魔法生物が乗っても感知されるし、過敏なやつだとエルフが乗っただけで感知するのもいるのよ」
「そりゃ人魚とも仲良くなれねぇな」
「そういうこと。ちょ……まだ見ないで、話し終わってない……」
「面倒くせえ……。グリザベルがまともに思える」
リットは視線をそらすと、続きを話せと手を振って急かした。
「つまり吸収されなかった魔力がフンに残ってるの。それを分解する魔法生物によって、どんどん細かくなってくの。だから普通の海泥とも違って、陸にある絹くらい滑らかな泥なの」
「なるほどな」
納得を見せるリットの隣では「うんちかー……嫌だなー」と、マグニが不満丸出しで下唇を突き出していた。
「森の成り立ちと同じようなもんってこった」
「リットって変わってるよねー。人魚を説得するのに森を使うだなんて」
「感心するところはそこじゃねぇだろう」
「褒めてほしいの? もう……リットもグリザベルと一緒。人間って肝心なところで素直じゃないんだから。はい、いいこいいこ」
「なにがいいこだ」
「グリザベルは喜ぶのに」
リット達が談笑してるのを、人魚達は内心腹立たしく思っていた。
「信じらんない……。こっちが必死でハープを弾いてるのに。気楽なもんよね」
スズキ・サンはひと睨みすると、その奥にいるサメと、更に奥にいるクラーケンの触手に視線を泳がせてため息を落とした。
「今更悔やんでも遅いぞ。乗りかかった船どころか、船員なんだからな」
「違うわよ。違わないけど……。現状じゃなくて、セイリンの無茶にもため息を落としてるのよ」
「ねー、昔に戻ったみたい」
イトウ・サンがからかいの笑みを浮かべると、セイリンは首を横に振った。
「無茶はする。それが海賊だぞ」
「それ、海賊になる前から言ってた」
スズキ・サンが声を大きくすると、イトウ・サンは呼応するように笑い声を響かせた。
マーメイドハープのゆったりとした曲調もあり、傍目からはとてもではないが危機に面してるとは見えない状況だ。
だが、騒がしいサメの尾びれが水をかき分ける音が消えると、辺りは急に無音になった。
「一安心だな」
セイリンは触手が追ってこないのを確認すると、ハープを弾く手をとめた。
「今音が鳴ってなかったぞ」
リットはマーメイドハープ弾いているのに音が鳴っていないのを見ていた。
「そうだ。ここは魔力が――」
セイリンが説明しようとしたが、魔力と単語が出た途端リットは理解を早めた。
「ああ、そうか。フンとそれを食い散らかす魚のせいでキメの細かい泥になってんだろう。魔力が細かく循環しすぎてゼロに戻ってんだな。だから魔力が無効化されてる。そういうこったろ」
「そうだ。おしゃべりめ」
セイリンはここで強く出て、今回の旅でのリットとの上下関係をしっかりさせようとしていた。
それをジュエリーが先に喋ってしまい台無しになったのだ。
「だって、色んな情報が入ってくるのに、喋る相手がいないんだもん。知ってる? 情報って色々喋りたくなるんだよ。東の国でオークの富豪が生まれた結果、新たな城ができちゃったとかね。他にも天使が空から落ちてきたり、豚が空を飛ぶ日も近いね」
「豚より先に船が空を飛んだってなもんだな。それにしても……これが泥か……」
リットは溶かして固めた鉄のようにつるつるする泥を眺めた。
「船から落ちるなよ。ここに落ちたら引き上げれない」
セイリンの言葉は脅しではなかった。
ランス海溝の最深層ではマーメイドハープの音が鳴らないので、人間のリットを上手く助けることが出来ない。
「おい……帰りはどうすんだよ」
「私はバカだと思うか? 帰り方はある。来るまでが大変なんだ」
セイリンは中身も確認していない積み荷の箱を空にすると、ロープを巻き付けて海底へ投げ入れた。
「バカだと思われたくねぇなら、なんでオレが生きてるか説明しろよ。魔力は消えるんだろう」
「なんのためのキスだと思ってるんだ……。ここで消えるのは発せられる魔力だ。体内の魔力ではない。だとしたらそもそも人魚も近づけないだろう。体内に雨を飼ってると自慢してるジュエリーはもっと酷いことになってる」
「つまり無力化じゃなくて、吸収されてるってことか? 魔力がゼロになった海泥に」
「海の泥と地上の泥とは違う。だが、そこを深く考えようとも思わんな。考えたところでなにか役立つか?」
セイリンは泥を刮ぎ取るようにして、海底に投げ入れていた箱を引いた。
「ペングイン大陸の対策をするんだったら、先に海の底に潜るべきだったと思っただけだ。闇に呑まれるって現象も、魔力元素が吸収されてたようなもんだからな」
「過去の話にこだわるのは、やり直したいものがあると決まってるもんだ。取り逃した宝とかな」
「どうだったかな。クラーケンを見た当たりから、どうも変な懐かしさを感じる……」
「すぐにまた感じることになる」セイリンは引き上げた泥の詰まった箱を厳重に鎖がけにすると「さあ中に入ってろ。先にも言ったが、船から出られると助けるのは不可能だからな」とリットとジュエリーを部屋へ押し込んだ。
「マーメイドハープを使えねぇなら、同じだろ」
リットが身を乗り出して甲板に続く上扉を見上げると、ジュエリーがため息を落とした。
「マーメイドハープが使えないのはここの空間だけよ。つまりここから出ればマーメイドハープは使えるの」
「まったくぜんぜんこれっぽちも意味がわからねぇ」
「体を動かしたらお腹が減る。お腹へったら食べる。食べたら出す。わかった?」
「便所かよ……。いや便所だったな。真っ暗で周りが見えないのが救いだな」
リットもジュエリーと同じようにため息を落とした。
そして、それと同時に巨大なクラーケンのフンが落ちてきた。
水流が上昇し、船体が浮き上がるとグングンと上昇し、マーメイドハープの音が戻ったかと思うと、突風に吹き上げられたかのように更にスピードを上げた。




