第一話
黒雲と呼ぶにはあまりにも広範囲な雨雲が空を支配していた。
夜を美しく照らす月明かりもなければ、頼りなく瞬く星明かりもない。
地上の闇と一体化し、無限に闇が広がっている。
時折雷鳴が轟いて、空に角のような光のヒビを入れるだけだ。そのヒビも一瞬で消えてしまい、再び闇に落とされる。
大嵐の夜は世界中どこでも同じ。まるで地上が海になったかのような荒々しさに襲われるものだ。
旅の途中。一人の若い男は判断を間違えて林を彷徨っていた。
足は何度もぬかるみに取られ、疲れきって棒のようになってしまった。
だが、ようやく風がしのげそうな岩陰を見つけた。
雨は当たるが、テント用の布で屋根を作ればいい。
男はカバンを肩から下ろすと、素早く屋根を作り、体を乾かそうと思い準備を始めた。
しかし、雷が空を照らしたことにより、男は手を止め、風邪を引くこととなってしまった。
空に蔓延る真っ黒な雨雲。
それを切り裂く雷。
まぶしすぎるほどの光が黒雲を照らした。その一瞬の出来事。
雲を割る雷の隙間に、空を泳ぐ船を見つけてしまったのだ。
熱が出たことによる幻覚の可能性もある。まばゆさが作り出した幻視の可能性もある。
だが、男はそれが船であることを疑わなかった。
そんな噂話は、リットが住んでいる町の酒場にも届いていた。
奇しくも風が幽霊のようにすすり泣き始める夜の酒場での出来事だった。
「それで……その船はなにをしてたんだ? 海に魚がいないんで、山まで遠征か?」
酒場の店主であるカーターは、浅黒いハゲ頭にランプの光を反射させて大笑いした。
相手は最近この町についたばかりの若い男の冒険者。
空に浮かぶ船を見たのは数日前だという。
「わからない……。もしかしたら新しい兵器かも。リゼーネが極秘に開発しているとか? ただ一つ言えるのはこうだ。ゴーストシップに関わるな。夢と現の狭間の世界へ連れて行かれるぞ。ってな」
冒険者は真面目な顔で握ったコップを見つめた。
注文は来店と同時にしたきり。酔っ払いに一通り絡まれ終わっても、まだ酒に手を付けていない。
まだ呆然としているのだった。
「だそうだ」
カーターは二つ離れた椅子に座るリットに向かって言った。
「なんでオレに言うんだよ。空を飛ぶ船に興味があると思うか?」
「オレが聞いたのは。リゼーネのほうだ。何か知らないのか?」
リゼーネと少なからず密な関係を結んでいるリットならば、なにか聞かれて知っているかもしれないと、カーターは万が一の可能性を聞いたのだが、答えは鼻で笑われるだけだった。
「おかわり」
リットがコップをカウンターに置くと、冒険者の男は「本当に見たんだ……」と悔しそうにつぶやいた。
「あのなぁ……見たか見てねぇかはこの際関係ねぇんだ。わかるか? 関係ねぇってのは興味もねぇんだ。酔っ払いに話を聞かせたけりゃ色を加えるこったな」
「色?」
「そうだ。酔っ払いに繊細なグラデーションはわからねぇよ。赤と青の二色で塗りたくるこった。つまり赤っ恥の猥談とツラも青くなるような過去の栄光話だ」
「それじゃあ……話がまったく変わってしまう……」
「答えが出たじゃねぇか。ここで求められてるのは、オマエだけしか見てねぇ船の話じゃねぇ。その首元についてる勲章のことだ」
リットはからかわれてこいと、男のシャツをはだけさせると酔っぱらいの塊に押し込んだ。
初めは戸惑っていた男も、気の良い酔っぱらいに一杯、二杯と奢られ気分が良くなると、この町に住んでいる若者かのように堕落した風景に馴染みだした。
リットはようやく辛気臭いのが隣からいなくなったと座り直した。
するとカーターは話の続きでもするように「それで?」と聞いてきた。
「どのそれでだ。あれか? それともあっちか? こっちってことはねぇよな。で、どれだ?」
「オマエは関係者だろう」
「どこがだよ」
「リットは船にも乗ってるし、何度か浮遊大陸にも行ってるだろう? 導き出される答えは――」
カーターは大げさな手振りでリットを指した。
その時タイミングよく雷が鳴り響いたものだから、全員がカーターの姿を見た。
そして同時に笑い声が響いた。
アホなポーズを取っているのが、雷の光で強調されたからだ。
酔っ払いの笑い袋を開けるには十分すぎるほどの出来事だった。
「導き出される答えは――拍手喝采の笑い話か。見事なもんだな」
リットはからかって空中に乾杯した。
「なんだよ……。本当に関係ないのか?」
「カーターが自分で言っただろう。オレは船にも乗ってるし、浮遊大陸にも行ってる。船が空を飛ぶなんてありえねぇよ。だいたいよ、船は海だけで大忙しだ。聞いてるだろう?」
「知ってるに決まってるだろう。『ゴースト・シップ』が出てから、ずっと話題になってる。せっかく闇が晴れて航路が落ち着いたかと思ったら、また航路で争い事だ。こだわりのツマミを作りたいのに、一向に素材が届きやしねぇ……」
「だから言っただろう。ツマミより酒にこだわれって。ツマミなんて酔っ払いの口で違いがわかんねぇよ」
「わかる奴に食わせるためだ。世の中は酔っ払うためだけに酒を飲まない奴もいるんだ。――待った……。なんでリットがゴースト・シップのことを知ってんだ?」
「何回この話を繰り返すんだよ……。船に乗ったからだろう」
「ほら、見ろ! やっぱりなにか知ってる」
「そうだぞ。オレはなんでも知ってる。今日オレの飲み代をタダにしないと、明日カーターは腹痛に苦しむことになる」
「なんでだよ」
「奢ってもらえりゃ帰るからだ。奢ってくれねぇなら、代わりに奢ってもらう奴を探す」
リットは顎をしゃくって冒険者を指した。
冒険者の男は若く素直なこともあり、すれたおじさんに可愛がわれている。
一杯、また一杯と奢られるうちに、カーターも巻き込まれるのはわかりきっている。
だが、それはリットが焚きつけなければの話だ。
「今度はそういうたかり方を覚えたのか……」
「あの辛気臭えのをオレに押し付けた料金だと思えばマシだろ」
リットはカーターの酒場で座る席が決まっている。
冒険者をわざわざ近くに座らせたのはカーターだ。
既に出来上がった酔っ払いの輪に近いと、気分が盛り下がり酔っ払いがいなくなってしまう。
その前に、リットに面倒を見させようとしたのだ。
「慣れてるだろう。面倒臭い奴の相手が」
「慣れてたら飲みに逃げてこねぇよ……。今日は森が騒いでうるさくて眠れねぇから夜通しパーティをするんだとよ」
「誰がだ」
「妖精がだよ」
「妖精ってのは夜眠るもんだろう。規則正しい生活って意味じゃないぜ」
「うちにはオイルランプの使い方を覚えた蛾がいるからな」
リットの庭(森)の木の枝から、果実のように一つランプがくくりつけられている。
これはチルカに言われてリットが取り付けたものであり、太陽の光を放つオイルランプがたまに使われていた。
それは今日のような嵐の日や、何日も雨が振り続けるときだ。
迷いの森でやっていた『光落とし』のように、日光浴をするのに必要になる。
今日は風の音で眠れないからと、初めからリットにうるさくすると宣言してきたのだ。
チルカがわざわざ宣言するということは、かなりうるさくなるということ。
リットは逃げるように酒場に来たのだった。
良い感じに酔いが回り、妖精の話し声も気にならずに眠れるだろうと、残りのお酒を一気に飲み干して酒場を後にした。
天候のせいか今日は酔いが回りやすく、リットは店を出た瞬間に強風に踊らされてしまった。
まるで初めてのダンスのように覚束ない足取りで、なんとか酒場の壁に寄りかかった。
一歩踏み出しては、風によって二、三歩戻される。
家路からは順調に遠ざかっていた。
だが、いい具合に酔っ払っているリットにとっては、それが妙に楽しかった。
雨も強くなり周りが見えなくなったせいか、孤独の世界に閉じ込められたようで、誰からも見られていない変な開放感に襲われたのだ。
雨に濡れ、風に流され、リットは町の外れから、更に遠くの草原まで歩いていた。
リット自身がそのことに気付いたのは、足元の水たまりに月が映っていたからだ。
月が映るということは雨が止んだということ。
リットはようやく周囲を見渡してから、まだそう遠くない町に視線を向けたが、なにをしているんだと自分の行動に後悔していない。
まだ十分に酔っている最中だった。
なので、空から大きな塊が落ちてくるのにも焦ることなく、ただぼーっと眺めていた。
リットが空を見上げたのは、また雨が降り出したと思ったからだ。
水滴が当たり、見上げた空からはなにか黒い塊が墜落している。
光の少ない夜空で、落ちてくるものがなにかというのは判別がつかない。
近くの木の高さまで落ちてきて、地面と衝突するとリットが呑気に思った瞬間。
「早く! 早く! 死んじゃう!」という女性の声が響いたのだ。
「そう焦るな……。今弾く」
次いで聞こえてきたのは、ポロンポロンと単音をいくつも響かせるハープの音だ。
優しくも激しいその音色にリットが癒やされることはなかった。
その音を聞いた途端。急に吐き気がこみ上げてきたからだ。
抗うことの出来ない酔っ払いは、その場で吐くしかなかった。
だが、その時だ。
足元の水たまりが水柱に変化したのは。
そして、その水柱はリットの嘔吐物まで巻き込んだ。
「ゲーよ! ゲー! なにこれ!! ちょっと――セイリン!! また曲を間違えたんじゃないの!!」
「そんなはずないだろう――スズキ・サン。マーメイド・ハープにそんな力はない。そっちのほうが知ってるはずだ」
「じゃあ……なんで? 船酔いするような部下もないのに?」
イトウ・サンは消えていく水柱を見て、ほっと胸をなでおろした。
「その男に聞いてみろ。まさか陸でも出会うとはな……」
セイリンは船に手をついて、嘔吐の続きを始めるリットの頭を小突いた。
「げ……。今度は別の意味でゲーよ。なんで陸の無作法者がここにいるの」
スズキ・サンはまた船を乗っ取りに来たのかとリットを睨みつけた。
「スズキ・サン……。ここは陸だから、リットがいるのが普通だよ。私達のほうが珍しいことしてるんだよ」
「イトウ・サン……。その男以上に珍しい生き物っている?」
「いないけど……そういう意味じゃない」
「うるせぇな……」リットは顔をあげると、勝手に船のヘリに座った。「……オレはいつの間に釣りへ出たんだ?」
「私の船だ」
「船? この小舟のことか?」
リットが座っている船。それは間違いなく小舟だった。川を渡るような渡し船というのがしっくりくる。
「海賊船だぞ」
「……海賊? なんだセイリンじゃねぇか」リットはようやく相手の顔を見ると「後は……イトウさんとスズキさんか?」
「イトウさんじゃなくて、イトウ・サンです……。何度も言ってるじゃないですか……」
「だから何度もイトウさんって呼んでるだろう……。まあ……そんなことより酒はねぇのか?」
リットは後ろ手に底を探ろうとしてひっくり返った。
「もう……なにやってるの。ほら、立ってよ……尾びれをしまう場所がなくなるでしょう」
スズキ・サンはリットが狭い船の場所を取るので、邪魔だと押しのけようとしたのだが、リットは収まりのいい船底で寝息を立ててしまった。
「ちょっと! もう! どうするのよセイリン」
「連れていく」
「本気?」
「雨が降り出してきたんだ。仕方ないだろう」
セイリンは手のひらを上に向けた。
月のステージは終わり、再び雨雲の緞帳は落とされ、拍手代わりの雨粒がポツリまたポツリと落ちてきた。
「こんな狭い船に四人も乗るの?」
「捨て置くわけにもいかないだろう。私達の脚で船を動かせるか? リットを船から下ろしても、水圧で死ぬぞ。それに酔いが覚めれば役に立つ。今回のことと無関係とは言えんしな」
セイリンはリットを怒気の含んだ瞳で睨むと、人間の脚でお腹を軽く蹴った。
リットは一瞬うめき声を上げたが、何事もないように再び寝息を立てた。
「あーもう……アリスとテレスのせいよ! もっと言えばユレインのアホのせい!」
「言うな。私だって苛ついているんだ。ユレイン船長にも、不甲斐ない自分にもな」
「でも、アリスがそそのかされなかったら船は奪われなかった」
「それを含めて私の失態ということだ。だが、絶対に船を取り戻すぞ」
セイリンが語気を強めて言うと、イトウ・サンが「おー」と間の伸びた返事をした。
それを気にすることなく、セイリンはネックレスを取り外した。
ネックレスは鎖と装飾の鱗が一枚。
その鱗はリットが以前渡したコーラル・シー・ライトの鱗だ。
セイリンはマーメイド・ハープを膝に抱えると、その鱗で一弦一弦弾き始めた。
他の人魚とは違う独特な旋律は、雨を集めて荒々しく水柱を作ったかと思うと、船を押し上げて雨雲の上まで連れて行ったのだった。