すべての思い出の上に立っている私
私の友人は今日、自殺した。
よくある首つり自殺だ。
私は命について考えた。
死というのは生物にとっては劣化した遺伝子を後世に残さないための自然の仕組みだ。
殺すというのは自分が世の中に生き残り、種を繁栄させるという本能をもとにした行動原理だ。
だが自殺はどうだろうか。自然にとって何の利益があり、自己にとって何の利益があるのだろうか。
人間社会にストレスはつきものである。
お金の問題、人間関係の問題、もっと言えば人種の問題、思想の問題、権利の問題。世界には大量な問題が山積みであり、自殺願望が生まれてくるほどのストレスを受けるのは容易に想像できる。
だがそんな見えない問題が山となってから人類は気が付いたのだ。
そんな見えないものに形成された人間社会は、ストレスに耐えれない劣等遺伝子を迫害する自然のような世界が出来上がっていた。
そこでわかった。すでに答えは出ていた。見えないものといったがそれは自然そのものであり、自然の上で私たちが存在している以上、自然のような仕組みが出来上がるに決まっている。
ただでさえ、問題が山積みの不完全な仕組みだ。
自然が与えるストレスよりも多いストレスを受け、死にやすい生物と人間社会はなった。
こう考えたら自殺というのは、他の生物と人間を区別した枠組みを超えるための手段であり、自殺と死というのは同じ行為なんじゃないかと考えた。
だが理屈は言えてもそんな社会に殺された友人がかわいそうだ、と情を抱くのも人間の弱い部分で自然が集団自殺にでも招いてるようだ。
私は一度、死にたいと思ったことがあった。
中学生の時、高校受験で第一志望に落ちたのだ。
周りには無理だと言われて、実際そうなってしまったのがすごく悔しかったし、腹が立った。
私は結局第二志望に行ったのだが、何人か友達はできたし、恋人もできた。
高校生活をしていくうちに、受験に落ちたなんてことは忘れて、第一志望に通っている気分であった。
第二志望は幸せで、申し分なかった。しかし第一志望も中学からの友達も何人か合格していて、そちらでも結局幸せだったのであろう。
私は道が複数あり、選択を与えられても、どちらにも平等にストレスがあり、幸せがあって、違いはそれらがやってくるタイミングに過ぎないと考えた。
自然が与えた壁に、ぶつかって死ぬなら生物としての発展の見込みはないんだろう。
残酷ながらに友人は自然に見放されたのだ。
だから、私は友人を見放す必要がある。
この人間社会という自然の奴隷の中を生きるには私は冷酷に、自然にならなければならないのだ。




