前編
少し肌寒い秋の夕暮れ。まばらに人が行き交う改札前で、私は独り幼馴染の到着を待っていた。
「久しぶり。元気にしてた?」
数年ぶりに合う瑠衣は、改札をくぐるなり無邪気に微笑んで、私の手を取る。私はただ一言、機械的に「うん」とだけ答え、彼女としっかり視線を合わせた。どうしてもそう応えなければならない気がして、心底憂鬱な本当の自分は頭の隅へと追いやってしまった。
「動画見たよ。大変だったね」
私は話の矛先を逸らすように、彼女の抱える問題について言及した。何の面白味もない私の話なんてどうでもいい。少なくとも今は、そういうことにしておきたかった。
「……いいよ。ちょうど休みたいと思ってたとこだし」
昔から絵に描いたような自由人だった瑠衣は、高校を卒業後、大学には通わずに東京でアルバイトをしながら動画投稿者として生計を立ててきた。投稿を始めてわずか2年足らずで事務所と契約を結ぶまでになり、沢山の人が彼女に注目し始めていた。
「今時、炎上なんて誰にでもあることだしね。瑠衣の気の済むまでいればいいよ」
暴言を吐いて炎上し、批判が殺到して事務所から活動休止を言い渡された。そう聞けば、誰もが自業自得だと嗤うだろう。それでも、私は全く瑠衣を責める気にはなれなかった。
私は瑠衣を愛車の助手席に乗せると、近くのファミレスへ向かった。店内は日曜にも拘わらず閑散としており、高校生のアルバイトと思わしきホールスタッフが暇そうに突っ立っていた。私たちは特に話し合うわけでもなく、当たり前のように、西日に染まる窓際の席に腰を下ろした。入り口から真っ直ぐ進んだ一番奥の、海が綺麗に見える席だ。
学生時代はよく帰りがけに二人でこの席に座り、フライドポテトを摘まみながら海に沈む夕日とSNSのタイムラインを交互に眺めていた。高校は別々だったが、帰りに最寄り駅でばったり鉢合わせして以来、しょっちゅうここで時間を潰すようになった。親には図書館で勉強していたと嘘をついて。しかしどこからか情報が漏れたのだろう。数か月でバレてしまった。7時だった門限が5時半に改められ、授業が終われば急いで家に直行する日々の中で、ささやかな思い出は徐々に色褪せていったのだ。
もう二度とあの時の光景が再現されることはないと思っていただけに、胸の奥がキリキリと締め付けられるような感覚が押し寄せてくる。それは感動でも懐旧でもなく、もっと薄暗い、何か別の感情のように思えた。
何故、私たちは今更こんなところへ来てしまったのか。何故今の私が瑠衣との再会を望んだのか。自分でもよくわからなかった。そもそも瑠依はどんな理由から再会の相手に私を選んだのか。顔の広い彼女には会いに行く友達なんて腐るほどいたはずだ。それなのに、何故よりによって――
秋の夕日は既に地平線の向こうへ沈み、茜色の光だけが扇状にぼんやりと広がっている。夕飯にはまだ少し早い。私は店員に声を掛け、ドリンクバーを注文した。
「それにしても、まさかここまで事が大きくなるとは思わなかったなー」
グレープフルーツジュースを飲みながら、瑠衣は不貞腐れたように言った。彼女の口の端でストローが潰されている。昔からの癖だった。
「詳しい事わかんないけど、アンチと喧嘩したんだっけ?」
「うん。倍の言葉で返してやろうと思ったら、やりすぎちゃった。性格悪いからさ、まじで意地悪な言葉をぽんぽん思いついちゃって。私は悪くないって言ってくれる人もいるけど、あれはさすがに悪いこと言ったなって自分でも思う」
「何て言ったの?」
「とても言えない。もう削除しちゃったし。自分でもびっくりした。まさかあんな言葉を他人に向けるなんてね。なんかさ、自分はもっと冷静で、大人な対応ができると思ってたから」
「わかる。うまく立ち回れると思うよね。でも意外と子供だったりする。自分も、周りの人たちも」
私もコーヒーを飲みながら、知ったような口ぶりでそれっぽいことを言う。
「周りもか。まあ……確かに。毎日毎日大人げない悪口メールが届くよ。死んでほしいんだってさ。私に。私の暴言が悪で、どうしてお前らの暴言が正義だと思ってんだって言ってやりたいけど、ああいうのは結局放っておくのが正しい対応なんだろうね。向こうは言いたい放題だけど、こっちが言えることなんて限られてるし」
瑠衣はコップの底に残った氷の間にストローを入れ、最後の一滴まで飲み干そうとしていたが、ふと思いついたようにぽつりと呟いた。
「もし、ホントに私が死んだら、あの人たち喜ぶかな。それとも焦るのかな」
彼女のらしくない言葉に、私の心臓は跳ね上がった。
「やめてよ。ただの反応見て楽しみたい暇人でしょ。気にしなくても、ほっときゃそのうち飽きて消えるよ。叩けるなら誰だっていいんだから」
「ごめん。別に大丈夫だよ。本気じゃない。正直あの一件があってからさ、自分のアンチに対してそんなに傷ついたり恨んだりしなくなったわ。前からちょっとだけ思ってたんだ。自分もあいつらと同じ事をすれば、お互い様ってことで恨めなくなるだろうって。まあ、やりすぎちゃったわけだけど……」
瑠依が言うと、暫くの間会話が途切れ、奇妙な沈黙が続いた。私はおもむろにテーブル脇に置かれたメニュー表を広げ、頼むつもりもない期間限定メニューを意味もなく読み上げたりした。昔から異様に沈黙が怖かった。相手が何を考えているかわからないうえに、自分はあれこれといらない考え事をしてしまう。次は私が質問される番だろうか。答えなければ……彼女は今の私の事をどれだけ知っているのだろう。
だが、瑠衣は特に何も聞いては来なかった。静かにメニュー表に目を通すと、「ハンバーグにしようかな。フライドポテトも頼む?」と言って目線を合わせてくる。カラコンでやや拡張された黒目に不安げな私の顔が映っている。
「どうした?」
「別に。私はスープパスタにする。ポテトも頼んでいいよ」
誤魔化そうとすると、どうしても早口になる。いっそ質問攻めにしてくれたらいいのにとも思ったが、同時に今の自分の状況について誰にも知られたくないとも思った。
食事を終えて外に出ると、濃厚な青色に染まった夕空に細い三日月が出ていた。店の脇には海へと繋がる川が流れており、深い緑色の水面に白い月が写って揺れていた。私たちは車には乗らず、川沿いの小道を通って海岸まで散歩することにした。
辺りには街灯の灯りが点き始め、朱く熟した柿の実を照らし出している。つい昨日まで夏だったはずなのに、私が何もできずに立ち往生している間にも、季節は飛ぶように過ぎていた。それがまた、たまらなく恐ろしいのだ。
「ねえ、瑠衣は親の期待ってどう思う?」
何の脈絡もなく、唐突に私は切り出した。
「期待? 私は何一つ、親の期待になんか応えてないよ。馬鹿だから、物心ついた時から裏切りっぱなし。今回の件で『恥ずかしいことしないで』とまで言われたけど、うるせえとしか言いようがない」
瑠衣は、私の藪から棒な質問に対しても特に不思議がることなく答えた。
「それで、後悔はないの?」
私は恐る恐る尋ねる。
「別に。親の期待に応えられないと覚ったから逃げる選択ができたし、自分は他の人と比べたら底辺で、今更失うものも特にないだろうと思ったから、何もかも動画でさらけ出して、その結果稼げるようになったんだし」
「そっか……」
ほっとするような、羨ましいような、何とも言えない不安定な感情が沸き上がる。彼女が底辺だとするのなら、私は一体何なのだろう。
私は返す言葉を考えながら、濁った水面に目を向けた。この川は、昔は綺麗な運河だったと聞いたことがある。私達の産まれるずっと前、ここには色々なものを運ぶ船が行き交っていたのだろうが、今はただの濁った臭い川でしかない。何か災害が起きる度に氾濫を危惧されるだけの、厄介な存在になり果ててしまっている。
「瑠衣。あのね」
別に、言わなくても良かったのかもしれない。しかし、私は伝えたかった。どうしても吐き出したかった。それで、何かが変わるような気さえした。
「私、失業してるんだよね……今、働いてないんだ」
私が瑠衣を――いや、誰も責める気になれない理由だった。彼女は特に驚きもせず、「うん」とだけ返した。
「先の事とか全然決まってないし、不眠症になって、薬がないと殆ど眠れない」
「知ってたよ」
「あんなにがり勉で、そこそこいい大学行って、周りからちやほやされて調子こいてた人間が、今は何にもせずに家で――えっ?」
知っていた? いつから? いったいどうやって? あまりに自然な口ぶりに、理解が追い付かなかった。
瑠衣は淡々と続ける。
「うちの親、市役所と病院で働いてるから。色々といらない情報が入って来るんだよね。でも安心して。絶対に言いふらしたりするなってくぎ差してある」
「ああ、そっか……そうだったね」
そんな返事しかできなかった。こんな田舎町の事だ。個人のプライバシーなんて、あってないようなものである。
「本当にしょうもない話なんだけどさ……」
学生時代は周囲から神童のような扱いを受け、両親からも名のある企業への就職を期待されていた。自分自身、それを誇りに思い、いつしか自分の好きなものも人生の目標も忘れて、勉強に没頭するようになった。それが本当に自分の学びたい事かどうかもわからずに、ただ「出来の良い自分は価値がある」と思い込んでいい気になっていた。
しかし、勉強は出来ても、どういうわけか就職活動はうまくいかなかった。何社も採用を断られ、ようやく内定をもらえたのは下町の小さな印刷会社だった。
――○○印刷? そんな会社聞いたことないんだけど。そんなとこ就職しなくたって、もっとマトモな所あるでしょ。せっかくいい大学を出たのに、もったいない。
大学の階段下で内定を母に告げた時、私の中で何かが狂った。あの時電話越しに聞いた母の声を、私は今でも鮮明に覚えている。
私の学歴や幼いころから積み上げてきた努力とは明らかに不釣り合いだということはわかっていた。大学の同級生たちは皆大手企業にすんなりと就職したにも関わらず、私は誰も知らないような中小企業。要するに私は、両親の期待を裏切ったのだった。
――今年の新入社員、ちょっと感じ悪いよね。変にこじらせてるって感じでさ。
――わかる。なんか高学歴らしいけど、人として成熟してないよな。だから有名企業にも入れなかったんだろ。あれじゃ結婚も無理。
――内心私らのこと馬鹿にしてるんじゃないかって感じる時あるのよ。悲しいよね。そういうの。仕事は私たちの方ができるのに。
血のにじむような努力で大学試験に合格し、優秀な成績で卒業した自分が、どうしてこんな所で……と内心不満を抱きながら働いていたこともあってか、社員の誰とも仲良くはなれなかった。本当の自分は彼らとは違うのだと心のどこかで思い込んでいたのだろう。自分の中の汚れた思考を必死に隠そうと頑張ってはいたが、どうやら態度からにじみ出ていたらしい。結局私は就職からわずか2年足らずで退職し、その後何があったのか、会社は倒産してしまった。
「私が自由気ままにネットで暴れてる間、色々大変だったわけだ」
瑠衣は私の身の上話を聞きながら、おもむろに足を止め、道の脇にあった自動販売機で温かいコーヒーを2本買った。海のすぐ近くまで来たこともあってか、岩礁に打ち付ける波の音がはっきりと聞こえてくる。
私たちは砂浜までやってくると、逆さまに放棄された小舟の上に腰を下ろし、コーヒーを飲んだ。無糖のはずだが、どこかほんのりと甘い。
眼前には深い藍色の空が広がり、水平線にはまだわずかにオレンジ色が残っていた。この時間帯の景色はいつも、ただでさえ弱った心を更に不安定にする。一歩も前に進めないまま1日が終わり、何かの罰であるかのように同じような朝がやってきて、また同じように暮れていく。
昔から、社会の重要な部品になりたかった。そうでなければ、生きる価値すら存在しないような気がして、常に不安で仕方ないのだ。両親の望むような子供になれれば、幸せになれる。自分を褒めてくれる人達をがっかりさせてはいけない。平均以上の人間を目指さなくては意味がない。そして、そんなものをすべて放棄し、自由に生きている人間、自分の能力を発揮できずにいる人間は、総じて怠け者で、馬鹿で、努力不足で、自己中心的で、親不孝で、将来性も生産性もなく……
こんな考え方は間違っていると頭ではわかっていても、太陽を見た後にちらつく残像のように目の前に現れて、目蓋を閉じても常にそこに存在し続けた。
そんな風にして、私はひたすら自分の墓穴を掘り続けた。深い深い穴だった。今の自分は両親の期待とは正反対の立場で、そのくせ自分の意思で自由に生きることすらままならないのだ。かつての私の言葉が、思想が、行いが、今の私を容赦なく真っ暗な穴の底に突き落とす。毎晩毎晩飽きもせず、それは頭の中にやってくる。私は頭の中で反響する自分の言葉に自分で傷つき、悲劇のヒロイン気取りで頭を抱えることしかできない。
「ごめんね」
ふいに、瑠衣が私に謝った。
「何が?」
「私が愚痴る相手に陽葵を選んだ理由、自分より苦労してそうだと思ったからなんだよ。何て言うか、絶対に私を責めてこないような気がして。私の周りって、意外と冷静な人が多いから、愚痴ってもただひたすら冷めた正論で諭されるオチしか見えなかったんだよね。逆に追い詰められそうで怖くて……無意識のうちに、自分にとって都合のいい存在を選んじゃったんだと思う」
何故か、急に涙が出てきた。瑠衣は突然泣き出した私を見て、こちらが逆にびっくりするほど派手に取り乱した。
「べつに利用しようとかそんなつもりじゃないよ! なんか、わかってほしかったっていうか、冷静な正しさでバッサリいかれたら逆ギレしちゃうような気がして! 親から陽葵の話聞いた時、無性に顔見たくなっちゃって……」
「大丈夫だよ。ほぼ毎日こんな感じだから」
慌てる瑠衣に対し、私は涙を拭いながら言う。だが、一体何が大丈夫だというのだろう。すっかり動揺した瑠衣はひたすら「ごめんね」をくり返し、やや強引に私を抱きしめたり、大袈裟に背中をさすったり叩いたりした。
辺りがすっかり暗くなると、海風を冷たく感じ始めた。ぽつりぽつりと水滴が肩の上に落ちてきて、それが雨だと気づくまでに少し時間が掛かった。
私達はもと来た道を引き返し、ファミレスの駐車場に停めっぱなしの車に乗り込んだ。雨粒の付いたフロントガラスの向こうに、雲の中へ消えていく三日月が見えた。
「帰る?」
私が聞くと、瑠衣はうーんと唸って顔をしかめた。あまり乗り気ではないらしい。
「ちょっと行きたい所があってさ。中学の校舎、今取り壊し中らしいじゃん。どんな感じになったのか見たい」
地元の中学校は老朽化のために解体工事が進められていた。再来年には新校舎が完成し、隣町の中学と合併するらしい。
「いいよ。瓦礫の山しかないだろうけど」
私は車のエンジンをかけると、小雨の降るなかゆっくりと国道を走った。