プリンキピアとなろう系
プリンキピアとイキナリ言われてもポカーンだと思う。ニュートンの著書であるのを知っていてもそれが何故なろうと結びつくのか?となるとさらにポカーンだろう。私も基本的な事をはしってるが本字体は読んだ事は無い。
だが当時のレベルで引力について語られてもポカーンとなる人が多かったと思う。だが当時大衆は意味不明な書物だったが先端の科学数学を理解する人達はこの内容を絶賛したといわれてる。私が何を言わんとするかそろそろ分かってきたかと思う。大衆が価値を見いだせなくて、一部の人が絶賛するものを無価値だと大衆は否定はいけないと知ってるんだ。
まあこれは誰でも分かる。問題は物語と科学的な専門書じゃ違って見えるからだ。だがこれ本当に違うのか?と言うと私は違わないんじゃないか?と思えるからだ。
私は熱心ななろうファンタジーの批判からの擁護者だ。それは批判が稚拙で無価値なものが多いから批判的なだけで、私はなろう系とされるような作品のファンがなろう批判者が好むような質の高い物語と言うものを否定するのには批判的なんだ。それらは両方が並び立つ価値の正しさがあり、一方が一方の価値によって同一線上において否定されるものじゃないと見てるんだ。
そしてそれをプリンキピアと大衆と科学者という構図なら誰もが理解できるんだ。何故そこからそれを物語にも適用出来ないのか?と疑問になってしまう。
正確な事を言えば、科学書にはプリンキピアと対比させる大衆向けのものが無い。それは何故か?ブルーバックスなどではない。何故ならブルーバックスは同じ価値で書かれていて、根本的に対立させるほどのものになってないからだ。科学書には絶対的な正しさがあるため、大衆の論理によって構成された本が必要が無いからになる。
物語には明確な答えが無い。当然科学も常に漸進的に発展する仮の正しさでしか無い。だが根本的に全く対立する矛盾をもったような存在は成立できない。ここが根本的に異なる。
異なる、だがそれ自体が問題だとは私は見てない。そもそもその違いを理解して違うものとして認識してるだろうか?私は違う違いが分かってるから、それをふまえて、科学書の科学者にしか理解できない価値のようなものがあるとすると、物語におけるそういった価値を駆逐する事は大いなる損失だと連想してるからになる。
根本的に私はこれを物語の大原則だと思って無いんだ。人間集団における大原則だと思ってて、多分商品にも同じような法則があると見てて、他にも幾らでもこういった似た事例はあると見ている。人間学そのものだと見ている。
これを一昔前のガリレオの頃にすると、大衆側としてキリスト教があると思う。そうすると聖書と科学書は対立するものになる。進化論の発展なんてまさにそれになる。
物語と違って、宗教科学という同一線上におきにくいから連想が難しいとは思う。ただ逆に言えばそれぐらい違うものだと思うと対立させることに意味があるのか?となる。
逆に違うものだと考えても良いのじゃないか?と思う部分がある。なら違うものをランキングで比較するってのはおかしいのじゃないか?だから何度も書いている。これは分けるべきだと、根本的に全く違うものなんだ。
本当に全く違うのか?と言うと実は違う。そこに逆に面白さがある。ただ今なろうで互いに否定肯定してるレベルとは全く違うものだ。
なろうにある否定も肯定もすべてほとんど言及として存在の意味が無い。両者がここまでの視点で見て無いからだ。私の事を中途半端や、おためごかし、裏切り者としか見えない人間も居るだろう。だがそれはここまでの視点で見てないのが問題なんだ。
まずに両者を分けて低レベルな言及を消した後じゃないと、両者の根底にある物語の価値とは何なんだ?って所を話すのは無理だと思う。物語は科学と宗教の様に分けなくても、同一のものとして2つを両立できる。だがその前段階としては、プリンキピアと聖書は分れた価値の存在であるベキなんだ。
物語の価値には予測に対する結果に対してより高い的中率であろうって目的が無いんだ。だから科学理論とは違うといえる。逆に言えば、物語の価値に正しさなんて方向性は無いんだ。
すべては集団の数による論理になる。個人個人一人一人の価値に少数のマニア集団の価値は近づいていく。主観的な感想とのハザマのぎりぎりの部分でマニア集団と言う曖昧なものを作り出してるに過ぎない。ある程度の客観的な知的言及をするために無理矢理集団化させてるだけだ。
漠然とした不特定の集団を標本集団とする大衆集団の方がよっぽど知的な言及がしやすい。だが私は、科学の様な高い予測性を導ける言及とははっきり違うと見てるが、それでも人間の知性が絡む限り何かしらの意味がそこにあるんじゃないか?と見てて、それらの人が集団で作り上げる価値というものにプリンキピアが大衆に理解されないのと同じ意味を多少は持った方が良いだろうと見てるんだ。
んまー、当時大衆が価値を見出せなかったってのは当時を知ってる人からの又聞きに過ぎなくて適当に見える話なんだけど。