第264話 後悔と疑念、そして暗躍
『ノヴァエ・テッラエ』の本拠地の城の一室、そこは最早『部屋』とは呼べない有様になっていた。
高価な調度品はどれも無残に破壊され、室内の床や壁には鋭い刃物跡が刻まれている。柱にも細かい傷がある天蓋ベッドは、枕には詰めていた羽が飛び散り、カーテンはビリビリに破られている。
そのベッドの上で、リンジーは虚ろな目をしながら仰向けになっていた。
カロンが開発した『神話創造装置』の干渉による『魂の情報』の改竄と寿命による魔力精製。
この二つの合わせ技は、現代魔導士の威力を底上げするほどのパワーを持っているが、それは諸刃の剣。
二つの副作用により、リンジーはかつての無邪気な残虐性がなくなり、見た目も顔以外は老人と変わらない肉体に変化してしまった。
やせ細った体は骨と皮しかない有様で、血管がどれなのか分かるほどくっきりと浮かび上がっている。
艶やかな黒髪は潤いを無くしパサついた白髪になり、目は徐々に視力を奪っていき濁っていった。
唯一顔だけは小さなシワを刻んでいるだけでそれほど差異はないが、何より一番の問題は理性だ。
『神話創造装置』の力を使用した場合、代償として対象の理性を奪っていく。
日を追うごとに彼の人格も知能も泡のように弾けて消えていき、最早そこら辺にいる赤ん坊と変わりない。唯一変化がないのは、手続き記憶による日常生活動作のみ。
「あー……あー……」
今日も食事と排泄を終えると、ベッドに寝転び不明瞭な言葉を紡ぐリンジー。
その様子を、ドアの向こうでサンデスは見ていた。
「うっわ悲惨……あれ、もうダメだろ」
気付かれる前にドアを閉めて、サンデスはため息を吐きながら廊下を歩く。
以前はサンデスを見るとおもちゃとして扱ってきたリンジーだが、今の組織にとっては貴重な戦闘員だ。それがあそこまでダメになると、さすがに憂鬱だ。
(時期的に考えて、兄上はそろそろ死ぬ。このまま何もしないまま死んでくれればいいんだけど)
そんな選択肢がないことくらい分かっているからこそ、気分が最悪になる。
まだおかしくなる前のカロンは、サンデスにとっては目標そのものだった。
ロクな政治をせず、無差別に女を手籠めにし、民から嫌われまくった父とは真逆な存在。自分より聡明で、兄の地位を脅かす弟を毛嫌いするほど、カロンはサンデスの憧憬として相応しいなるほど輝いていた。
だが、その憧憬もあの女によって変わってしまった。
建国当時から特殊な立ち位置にいたエレクトゥルム男爵家の娘。『神に愛された者』という呼び名通り、アリナはまさに〝神〟に愛されていた。
〝神〟本人から直接魔法を授かった彼女は、カロンと交渉し今の魔導士界の基盤を生み出した。
当時オカルトの類を信じていなかったサンデスは、アリナがカロンを惑わせる悪女だと認識していた。
事実、アリナによってカロンは変貌してしまい、嫌っていたはずの夜伽にすら手を出してあの女狐を駒として懐柔させた。
全ては、アリナを己の妃にするために。
しかし、その計画もアリナ本人よって瓦解した。
彼女は国王である兄よりも貧民街の孤児上がりの貴族令息のクロウを愛し、嫉妬でクロウが死ぬよう差し向けたカロンを憎んで呪いをかけた。
兄が死んだと報を受けた時、不思議と悲しみはなかった。むしろ、心の中で『ざまぁみろ』と思っていた。
ジークの策略によって人質になり、裏切ったつもりはないのにカロンの判断によって裏切り者扱いされたのだ。むしろ自分を粗末に扱って報いを受けたのだとさえ思った。
『落陽の血戦』後は雲隠れし、適当に余生を過ごそうと思った直後に生きていたジークに見つかり、今度はカロンを本当の意味で殺すための手伝いをさせられた。
異位相空間では時間の流れが現実と切り離されており、一度外に出たら一〇年も時間が経っていてひどく動揺したものだ。
ジークの元で働かされるのは以前と変わらなかったが、それでもまだ気楽に過ごせた方だと思う。少なくとも、弱腰で大した戦力じゃない自分を裏方に回してくれたのだから、上としての立場はきちんとあった。
しかし、一年前の『叛逆の礼拝』によって、再びカロンの元へ下ることになった。
前世よりも恐ろしくなった兄を見て、サンデスは本能から逆らうことをやめた。
かつて憧れていた兄はすでにいなく、いるのは未練を果たすために暗躍する巨大な悪。自分の命など、蟻のように踏み潰される。
サンデスが最も恐れているのは、死だ。
天寿を全うするのはまだいい、だが理不尽に奪われる死は嫌だ。
だからこそ、ジークの時も、『落陽の血戦』の時も、カロンの時も、全て強制的に死を下される前に頭を下げて、彼らに服従する道を選んだ。
卑怯だと言われても、生きるためにそう選択し続けた。
その結果が『裏切りの王子』として歴史に悪名を残したなど、笑い話にもならない。
訂正したくても、自分がやってきた行いと時間は、二度と戻ってこないのに。
「…………はぁ……ほんっと、何やってるんだろうな。俺」
フィリエの朝は、肌寒さと共に訪れる。
カロンの朝はいつも早く、彼が隣で眠っている姿など見たことがない。
一抹の寂しさを感じながら気怠い仕草でベッドから降りると、サイドテーブルに置いたお盆で顔を洗い、昨夜の熱さは無くなった裸体を魔法で出した着物ドレスを着る。
ゆっくりとした足取りでドレッサーの前に行くと、ブラシで髪を梳き整え、顔に化粧水や保湿クリームを塗る。
そのまま外に出て購入した高級のファンデーションや口紅などが入った箱を開け、使う物を取り出して化粧をしていると、途中で首筋や胸元に残った赤い跡を見つめる。
「…………」
そっと宝物のように優しく触れるも、きゅっと唇を引き結び、そのまま指を鳴らす。
萌黄色の魔力が首から胸元を覆い、白い肌に溶けるように消えていく。
自分で消した跡を名残惜しそうに触れて、使い終わった化粧品を箱の中に入れて蓋をした。
カロンが現れてから、フィリエはほぼ毎日抱かれている。
それは昔と変わらないし、今まで相手してきた中でカロンは一番相性がいい。
ただ肉体を求めるだけの関係。体を重ねただけで愛されていると勘違いする男とは違う。
だけど、今のカロンは変だ。
カロンの抱き方はいつも一方的で、時には鬱憤を晴らすように手酷く抱くこともある。
それがここ最近、まるでフィリエが感じる快楽に合わせるように抱いてきて、たまに耳元で自分が気持ちいいのか問いかけてくる。
(私とあなたの関係は、ただの娼婦と所有者。それだけでしょう?)
なのに何故、あんな風に恋人のように抱いてくる?
カロンにとって手に入れたい女は、あの日向だけ。自分などただの性欲処理道具。
先にそう言ったのは、カロンだったのに。
『お前が私の部下になろうが関係ない。お前はただ、私の欲を満たすだけの道具だ。それ以上の関係を一切求めるな』
『叛逆の礼拝』後、奪ったこの城に足を踏み入れたカロンはそう冷たく告げた。
普通ならば泣き喚きながら理由を訊くだろうが、フィリエはカロンの言葉にショックを受けるどころか素直に納得していた。
フィリエ自身もカロンにそれ以上の感情を求めていないし、ただ専属娼婦として当然の要求だと思っていた。
カロンにとって自分は都合のいい駒で、フィリエにとって彼は王侯貴族の愛妾として愛された願いを叶えてくれた恩人。
たとえ一時の儚い夢だったとしても、愛妾して扱われたあの贅沢な日々は今も鮮明に思い出す。
フィリエがカロンに従っているのは、その恩義によるものだ。
(そう、恩義。だからこそ、私はあの方に体も心も捧げている)
そのはずなのに、心が叫ぶ。
――もっと口づけをしたい。
――もっと熱を分け与えて欲しい。
――もっとあの声で名前を呼んで欲しい。
すでに捨てたはずの、『ただの女』としてのフィリエが懇願する。
普通の女のように愛され、幸せになりたいと泣く。
ドレッサーの鏡に自分ではない自分が写り込んだ瞬間、フィリエは化粧箱を掴んでそのまま鏡を叩き割った。
けたたましい音を立てて割れた鏡は、破片をドレッサーの机の上だけでなく床に散らばらせる。
荒い息を吐きながら、手に持っていた化粧箱を落とす。ゴドッと重々しい音を聞きながら、フィリエは鏡の破片が散らばる床の上に座り込む。
「違う……! 私は、普通の幸せなど望まない……! 望まないと、決めたのよ……!!」
だって、両親がそうだった。
あれほど仲が良かった両親が、父の浮気によって今まで培ってきた幸せが壊れた。
朝晩問わず喧嘩ばかりして、互いに罵詈雑言を浴びせ、父が母を殴る姿を何度も見た。
気分転換に姉と外に出て、夜になる前に家に帰ってたら、血だらけになった両親と浮気相手の女の死体が転がっていた。
両親と浮気相手の死体を見て悲鳴を上げた姉の横で、フィリエは状況を見ただけで理解していた。
母が逆上して父と浮気相手を殺し、そのまま自分で命を絶ったのだと。
その後、両親と浮気相手は教会の懇意で共同墓地に入れられたが、墓参りなど一度も行かなかった。
庇護者を失い、路地で惨めな路上生活を送っていた自分達をエレクトゥルム男爵が見つけてくれなければ、いずれ奴隷商人によって捕まえられ、別々の娼館で一生を過ごしていただろう。
妻ではなく愛妾となれば、両親と同じ轍を踏まないと思ったから、カロンの申し出に喜んで引き受けたのだ。
「なのに……どうしてですか? どうして今、優しくするのですか……?」
今更優しくされても迷惑だ。
いつものように、道具として自分を抱いてくれればそれでいい。
だけど、あの優しくも熱を宿した目を思い出すと、その言葉が出なくなる。
「姉さん……私は、一体どうしたらいいの……?」
無意識に、昔のようにここにいない姉に問いかける。
一人しかいないこの部屋の中で、答えなどもちろん返ってこなかった。
☆★☆★☆
カロンは城の地下深く、『神話創造装置』を見つめていた。
ジークとイアンが作り出した『蒼球記憶装置』の劣化版ではあるが、効果はリンジーによって証明はできている。
だが、発動条件である因果整合性というのは少々扱いづらくて仕方がない。
「まあ、そうは言っていられないか」
幸い、何度も動作確認をしたおかげで動けることは分かった。
後は日向を手に入れれば、計画が実行できる。
これでやっと理想の世界が手に入るのだと思った直後、喉奥がカッと熱くなる。
「ごほっ……げほっ、がはっ……!?」
激しく咳込みながら、口に手を当てる。直後、生温かい感触が手の平を濡らす。
そっと口から手を離すと、手のひらは真っ赤に染まっていた。
血の感触と鉄臭い味を舌で転がしながら、上着の内ポケットからハンカチを取り出し、無言のまま口元を拭う。
この吐血は、体が限界を伝える合図。
最初の記憶を思い出して以来、呪いの浸食度が日々の体調の変化と直結し、吐血し出すとピークを迎えている証なのだとすぐに察する。
現に、今まで転生した記憶の中では、最期を迎える一ヶ月前は必ず吐血していた。
(いくら動作確認をしたと言っても、まだ完全ではない。この『神話創造装置』は、『蒼球記憶装置』に干渉できる唯一の魔導具。生半可な魔力では明らかに足りない)
カロンの魔力値は計測していないが、恐らく日向と同等だろう。
しかし、彼女は『蒼球記憶装置』とリンクしていることもあり、その力が倍に跳ね上がらせる可能性はある。
このままでは、カロンが力で押し負ける未来が見えている。
(早急にこれを作って正解だったな)
ちらっと『神話創造装置』の周辺に刺さっている水晶を見る。
六角柱形の水晶は子供と同じくらいの大きさがあり、中で色とりどりの光の粒が舞っている。
あの水晶こそ、この計画において一番重要な要。
もし全て破壊されてしまったら、その時こそカロンの終わり。
永遠に呪いに苦しみ続ける運命を再び送り続けるのだ。
(IMFの取締が厳しくなっている以上、水晶の設置が全て完了するまで一月かかる……一〇月三一日が来るまでに、必ず決着をつけてみせる)
己の血で汚れたハンカチを強く握りしめながら、金の悪魔は『神話創造装置』――いや、その向こうにいる琥珀の少女の幻影を見つめ続けた。




