五通目 成される退廃 四
依と暮相が上巳茶屋に戻ってきたのは、結界対策をするためだった。北東の虚ろ街入口から現世に出て、あたりを偵察していると、森の中に潜む半ば朽ちた平屋を見つけた。その平屋は強い結界に覆われており、触れたら何が起こるか分からない。しかし、この結界の中に何者かが潜んでいることは明確だった。そしてそれが、花相以外に考えられないということも。
「一度和巳のところへ行って物資を調達しよう。この結界は強力だ。下手に触れず、結界の周囲に罠を仕掛けて、相手が出てくるのを待っていた方が良さそうだね」
「そう、ですか。……結界を破るのは」
「得策とは言えないね。花相に加えて彼女の背後にいる未知の相手と対峙するなら、リュドミラの戦力も欲しいところだ」
「急いで戻りましょう。相手が動き出す前に」
「なぁ、その途切れた匂い、なんとなくだけど……ちょっと怖いぞ。本当に行くのか?」
「行くよ。助手と友人を攫われて黙っていられないさ」
そう言って暮相が立ち上がろうとしたその時、リュドミラの手がびくっと動いた。
「芳乃さん、反応が……!」
リュドミラの手は依の手を強く握り、離さない。
「何、どうしたんだろう。何を伝えたいの」
依が思わず話しかける。皆が手に注目する中を一陣の風が吹いた。その風は赤黒い霧を伴って上巳茶屋の屋根の上にわだかまると、徐々に実態を構築しはじめた。
暮相達の足元にブーツや脚の輪郭が現れていく。そして、それはやがて泥や埃を纏う、疲れ切って座り込むリュドミラの姿を成した。
驚く皆を見上げた彼女は、肩で息をしながら力なく片手を挙げた。
「リュドミラ! 無事だったんだね、良かった……!」
「……ああ、迷惑をかけてすまない。なんとか逃げてきた」
依がすぐに左手を彼女に渡す。霧状になった断面同士を合わせると、すぐに腕は元通りになった。
「大丈夫かい? 花相に現世へ連れ出されたみたいだけど……」
「ええ。でもやっぱり彼女、詰めが甘いですよ。あっという間にアタシに逃げられてさ。ああ、和巳さんも篠目もいたのか。どうも」
「なんかよく分かんねぇけど、無事で良かった!」
「あ、あんた、その腕大丈夫なの? というか、敵は追ってきてないの? 不穏だねェ……。取り敢えず、店ン中入んな。客は追い出すから」
和巳が店内へ戻り、適当な理由をつけて客を帰す。状況の飲み込めない翠と篠目は所在なさげにしていたが、篠目はつまらなくなったようでふらっと遊びに行ってしまった。翠は何か、周囲の大人たちのただならぬ様子に不安になりながらもお茶の支度をしていた。隙を見て暮相に尋ねる。
「ねえ先生。今何が起こってるんですか……? 今から皆さんでする話はわたしが聞いてもいいこと?」
暮相は少し口をつぐんだ後、どこか苦しげに真っ直ぐ翠の瞳を見た。いつものらりくらりした暮相が誠実に答えようとする様子に、翠は面食らう。
「……聞いてほしい話と、聞いてほしくない話がある。どちらもキミにとって気持ち良い話ではない。……本当はもっと後に伝える予定だったんだが、そうも言ってられない状況になってしまった」
「……わたしに関わることですか? それなら、何だって聞きます。わたしが小さい頃の話なら、尚更」
翠は今まであえて聞かなかった。幼い頃の記憶が全くないこと。物心がついていなかったから、というにはあまりにも違和感がある。翠が思い出せる最古の記憶――閑古庵の中、着物の帯でお腹がキツいと嫌がるわたしに困り果てる和巳さんと先生。楽しい思い出ではある。
どこで、誰から生まれて、いつ閑古庵に来たのか。気になってはいたが、なんだか先生達を困らせる気がして、なんとなく聞けずにいた。
翠の想像通り、暮相は困った顔をして視線を落とした。
「そうだね。花相との関係を説明する上でも必要だ。今まで何も伝えられなくてごめんね。さあ、座敷へおいで」
翠は(花相って誰……?)と首をひねりながら座敷へ茶を運ぶ。
上巳茶屋二階の座敷に暮相、翠、依、リュドミラ、和巳が揃う。口を開いたのはリュドミラだった。
「まず先程のことを共有しておく」
翠の護衛のため、上巳茶屋の屋根の上にいたリュドミラは、花相の襲撃を受ける。謎の巨大な手によって現世の廃墟に引きずり込まれ、そこで花相と出会った。式神ではなく、本体の花相に。彼女が降りていった地下へこっそり着いていくと、そこにはすり鉢状の洞窟があり――「虚ろ街への出入り口と、大男がいた。片腕もなけりゃ花相も見当たらない。不用意に戦いを吹っかけるのは危険だと判断した」
リュドミラは息をついた。
「アタシは霧になって、その出入り口から逃げた。大男の情報を少しでも得られれば良かったんだが……申し訳ない」
リュドミラが眼鏡を掛け直すように顔を覆う。
「戦える君が危険だと判断したなら、それがきっと最善策だよ。それより、その大男の存在が大きな収穫だ。花相の言う『あの人』とは、彼の可能性が高い」
「となると……」
依が暮相と視線を合わせる。
「依とともに現世を見てきたんだ。花相の手がかりを追った先に、結界が張られた廃墟があった。きっとそこが花相の隠れ家なんだろう。そしてその地下に花相と『あの人』がいる」
和巳が煙管を燻らせ、急かすように頬杖をつく。
「あたしゃ何が起こってンのかいまいち把握してないけど、それ、何がどうなったら解決ってことになるンだい。そいつ等の野望が叶ったらまずいのかい」
「大男になんの意図があるのか分からないが、花相の裏で糸を引いている。花相は私に対する恨みを晴らすために私か翠を……危害を加えようとしている」
「へぇ、おっかないねェ。全部アンタのせいだね、暮相。フフフ」
「勘弁してくれ……」
「疑問なんですがね」
仲間だよなと言わんばかりに隣に座る翠と依の肩に腕を回したリュドミラが口を開く。
「その花相との確執とか、翠ちゃんが関係してることとか、教えてくれないんですか? この話になるとどうもアンタら歯切れが悪い」
「ああ、その話もするよ。ちなみに、翠のことなら依も
多少知っているよ」
リュドミラが依から腕を外して翠を抱きしめる。
「仲間外れって寂しいよなぁ! 翠ちゃん!」
「うおお……首が締まるっ……」
不安の雲がかかる翠の心が少しだけ緩んだ。しかし、いざ話を聞くとなると強張る。手を握りしめる。
リュドミラの腕から顔を出した翠が、暮相の目を見つめる。
暮相が重たい口を開く。
「花相の隠れ家のある場所は、かつては村だったんだ。そこがね、キミの故郷なんだよ、翠」




