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閑古庵のお便り  作者: 稲生 萃
閑話
33/36

月見酒

 静かな夜だ。風呂上がりのリュドミラが髪を拭きながら廊下に出ると、丁度玄関から音がした。

「ただいま」

「おかえり。今日は遅かったな」

 少しくたびれた様子の依が帰ってきた。


 依が風呂に入っている間、リュドミラは準備をしていた。軽く掃除した縁側に、水と酒と二つのぐい呑みを盆に乗せて運ぶ。縁側は雨戸と障子を開ければ寝室と繋がる。部屋を換気しつつ、夜風に当たって月見酒をするのが、たまの楽しみの一つだ。眠くなったらすぐ布団に寝転べるのが楽だ。

 リュドミラが読書して待っていると、不意に寝室の照明が消えた。顔を上げると、依が照明のスイッチに触れていた。夜目がきくリュドミラには、暗闇でも依の表情がよく見える。しまった、という顔をしている。

「ごめん、本読んでたんだね」

「良いよ。目滑ってたしな」

 栞も挟まずに本を閉じる。依を縁側に座るよう促し、ぐい呑みに酒を注ぐ。

「何読んでたの?」

「ん〜、虚ろ街の有志住民による短編集の耽美派編……らしい。大通りの古本屋が主催で出したけど在庫が余ってるっていうから貰ってきたんだよ。まあ、素人の妖怪が書いてるからそんなに面白くはないな」

「酷評だね」

 依が静かに笑う。仕事中よりも一段と物静かで穏やかな雰囲気だ。大抵リュドミラが世間話をして依が返答や相槌をうち、話すことがなくなれば無言になり、無言だからといって気まずいなんてことは全くない。二人にとってそれが常で、最も心地良いコミュニケーションだった。

 乾杯をする。

「今日は随分くたびれてたけど、そんなに大変だったのか?」

「うん。夕方から泥酔した妖怪が暴れ始めて……」

 依は夕方からの騒乱を思い返して頭を抱えた。倒しても倒しても酔いの回った迷惑妖怪たちが暴れていた。退治と後始末に思ったより時間がかかってしまったのだ。

「呼んでくれりゃ手伝いに行ったのに」

「予想より粘られた……それにリュドミラは今日お休みだから……」

「依に救援呼ばせるほど強い奴がいたら休日でもすっ飛んでくよ、アタシは」

 冷たい夜風が吹き抜ける。酒で暖かくなっている体には心地良い。月を見ながら、ポツポツと会話しながら、二人で酒を減らしていく。

「──ま、なんにしても大怪我なんかしないに限るよな。アタシはすぐ治るけど、依は結構治癒に時間かかるんだろ」

「人間よりは少し早いってくらい」

「依も吸血鬼になりゃいいのになぁ」

「でも出会った時の怪我はなかなか治らなかったよね」

「……あれはしばらく人の血摂ってなかったからだよ。鎌鼬達が売ってる血液パックには助けられたな」

 依とリュドミラの出会いは、かなり昔の話である。虚ろ御所の管轄下にある、実験的な体制のもと作られた妖怪たちの街に住んでいたリュドミラは、経緯あってその街を出た際に怪我を負った。成り行きで依の家に世話になっていたが、そのまま虚ろ街に住処を移したのだ。

「あの街に住んでいた頃、虚ろ街に二、三回遊びに行ったな」

 依が驚いたようにこちらを向く。

「すれ違ってたかもしれないよな。でも、正直最後に遊びに行った時のことしか覚えてないんだよ。ちょっとやらかしちゃったもんだから」

 酔いが回っているのか、変なことまで話しそうだと自覚しながらも、リュドミラの口は止まらなかった。

「銃を下ろして森林浴でもしようとしたら、木の枝にうまいこと引っかかって発砲しちゃってさ……あ、でも安心しな。弾はアタシの能力下にあるから、いつでも霧にできる。ただ、霧にする前にどっかに当たって『カーン!』って音がしてな。住民に当たってないのだけ確認して逃げ帰ったよ」

「人間の街だったら大問題だね」

「妖怪で良かったよ」

 リュドミラは、今の話に依が怒らなかったことに安堵しつつ、また酒を呷った。

 ふと依を見ると、彼女も月を見上げていた。月光が横顔をほのかに照らしている。白い頬が赤くなっている。唇が「暑い……」と動いた。リュドミラが依のぐい呑みに水を注いでやると、小さく礼を言って飲み干し、そのまま眠そうに横たわった。赤い頬を触ると、ほのかに熱い。

「この辺でやめとくか」

「うん」

 リュドミラが盆をキッチンへ片付けて戻る間に依は自分の布団に入っていた。さきほど言われた『依も吸血鬼になりゃいいのに』という言葉が頭に反芻している。

「吸血鬼って、なれるものなの?」

 依が小さい声で問いかけると、リュドミラは枕元まで来て言った。

「アタシが噛めば、眷属か吸血鬼かになれるよ。……なりたい?」

 リュドミラが布団の中から依の腕を探り取って、手首に指を這わせる。

「ううん、今のままでいい」

「……そうか」

 丁寧に腕をしまいこんだリュドミラが自分の布団に入る。「おやすみ」と声をかけあい、目を閉じる。考え事をしようにも、言葉が纏まらない。酩酊感が思考を鈍らせているのを今更自覚した二人は、じきに眠りにつく。


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