地下の住まい (1)
ドブネズミのガリか? その友達のジリかまたはその家族か? なんども名前をつけてみたし、しばらくはそいつのことがわかるのだけれど、そのうちまた小さいのが生まれて、二代目のガリとかジリになり、だいたいオスとメスの区別だってちっともつきゃしないし、
「おれのことわかってる?」と聞いてみたって、言葉さえわからず、鼻をピクピクさせて、目を合わせないし、ときどきすごく憎たらしいこともある。
「ちぇっ」
と、その少年はふてくされて言った。
「おい、リク!」
しわがれて太くて腹の底から響くようなオヤジさんの声がした。
「おい、聞こえてるなら、返事!」
と言われて、その少年、リクはしぶしぶ
「へい」
と返事をした。
オヤジさんは杖をたよりに、よろよろとリクの隣までやって来て、
「おまえ、またドブネズミにパンくずをやったのか?」
と聞き、リクは首をすくめた。
「え? やったのか? やったのかって聞いてるんだ。答えは二つしかないだろ。やったかやらないか!」
「へい、やってません」
そのとたんに、オヤジさんのげんこつが飛んできた。
リクは少し身を後ろに引く。わからないていどに。その後ろに引いた分だけ、げんこつは軽くなる。
「やっただろ。やったなら、やったと言うんだ」
「やってません」
「ふん、どうせ、やったくせに」
オヤジさんは、リクのシャツを引っぱり、チョロチョロ流れている下水道の脇の水を引っかけた。
「頭を冷やせ!」
「へい」
「だいたい、なんで『へい』と言う? 返事は『はい』だと何度教えたらわかるんだ?」
「はい、今、わかりました」
「まったく、子どもってやつは、年をとってくると、どんどんずるく、賢くなってくる」
「はい」
リクは下向きかげんにしながら、じっとオヤジさんの動きを見守った。
「なぜ、うそをつくんだ? え?」
「ついていません」
オヤジさんの目はいつも血走っている。まんまるで大きい。リクとオヤジさんの寝床のある穴ぐらには、ランタンが一つと、三本のろうそくしか灯っていない。その光の中で見ると、オヤジさんの目はドロドロで、真ん中の黒い丸がキトキトと細かく動いている。
いつも、何も見ていないようでいて、細かいことまで見ている。ドブネズミのことなんか、どうだっていいくせに。
それに、ここで本当のことを言ったとしてもどうせ叱られる。どちらにせよ叱られるのだ。
リクの気持ちはジリジリと大きく動いてきていて、ぎゅっとゲンコツを握りしめた。
オヤジさんは、そのゲンコツをも見逃さなかった。
「ふふふ。くやしいんだな。なら、かかってこい」
リクの背たけはいつの間にかオヤジさんに追いつこうとしている。オヤジさんは見えないくらい少し縮んだようにも思う。足をけがしてからはあまり外にも出なくなり、杖がないと倒れそうになる。
リクがオヤジさんの力を追い越すのはもう少しだ。もしかしたら今なら勝てるかもしれない。うん、たぶん間違いなく勝てそうな気もするけれど…、まだリクはオヤジさんの目が少しこわかった。
寝床の入り口は、中央通りにかかる石橋の下にあった。
橋の下にはもちろん川が流れているけれど、水は年々少なくなっている。川の両わきのヘリは、リクが小さい時には狭く、乾くことがなかったけれど、今は広がってきていて、雨の日でなければ昼間は乾いている。
「なぜ、ドブネズミなんかに餌をやるんだ? え?」
オヤジさんはしつこい。まだその話が続くのか…、リクは少しうんざりしてきていた。だから、リクは口をつぐむことにした。
目をやる先はオヤジさんの手。ゲンコツにそなえろ。今はそれだけだ。あとは、わかった風にする時にだけ、首をたてに振ればいい。ちょっとだけオヤジさんがわかるていどに。
「なんどでも言うぞ。ドブネズミは、おまえのこと飼い主だなんて思っちゃいないんだ。わかるか?」
リクは歯をくいしばり、こんどはオヤジさんの腹のあたりに目の先をすえて、こくんと小さくうなずいた。
「ドブネズミはおまえのために何ひとつ持って来てはくれないんだぞ! わかるか?」
オヤジさんは、たぶん、今、ニヤニヤしている。こうやって固まっているリクにいつまでも言葉の雨を降らせることが好きなのだ。
「おまえにパンを分け、育てたのはだれだ? え?」
「オヤジさんです…」
ここで、言葉に詰まるとゲンコツがくるから、答えられるところだけは答えておく。
「じゃあ、ドブネズミにやる分があるんだったら、たとえクズだとしても、オレによこすんだ。そうだろ?」
「はい」
「よし、もう、寝ろ」
リクはホッとした。でも、ホッとしすぎてはいけない。
しおらしい顔をして、オヤジさんの真っ黒な毛布に並んで、少し間を開けて置いてある同じような真っ黒な毛布にくるまった。




