黒の館 (2)
約一月ほどもかかり、門戸を入った所が片付けられ、馬車が止められるようになると、それを待っていたように馬車がやってきた。
「あああ、もう、人、来なさる」
ルーズがあきれたように、怒ったように言ったので、ロミファは笑い出した。
「まあそう言わないで、ルーズ。場所が整うと人は来るものよ。整えるということがあったなんてことは忘れてしまうの。あとはここで待つだけ。ずいぶんと楽になったでしょ」
「な、なことね」
ルーズはしぶしぶと腰を上げると、人を迎える準備を始めた。
タイラはゆりかごの上で、自分の動く手と遊んでいた。
「さあ、どうしよう」
と、ロミファはタイラに話しかけた。
「どうしたい、タイラ?」
タイラはロミファを見つめて、ぶぶぶぶ、と笑った。
「あなたはまだ遊んでいらっしゃい」
ロミファはタイラの頬に触った。頬は柔らかく、しっとりとしていて、ロミファのゴツゴツの手を弾ませた。タイラはうれしそうにケラケラと笑った。
「そう、それがいいいのね」
ロミファも笑いかけた。そのままずっとタイラを見つめていたかった。
「おくさま、人、来られた。さ、さ」
ルーズが渋い顔をして呼びに来たので、ロミファはやれやれと首を振りながら、客人が通された部屋に向かった。
暑い季節の始まりの時で、まだ暑くなりきってはおらず、ドラ・サ・ミミュウの森は町よりもさらに涼しく、空気が澄んでいた。
ルーズは応接間の窓を開け放して、この屋敷に来て初めてロミファの部屋の暖炉に火を入れた。暖かさを取るための暖炉はいつでも使えるように整えられていたが、今はまだそれを使う季節ではなかった。
それとは別の火が必要なのだ。火がなければロミファの仕事にならない。
「さあ、こちらにお座りになって」
ロミファは客人を通し、火の横に座らせた。
客人はやせ細り、召使の女性に頼りながらやっとのことでソファに座った。
ロミファは彼女を若い頃から知っていた。明るく聡明で輝く美しさを持った人だった。
「今日、初めてこの暖炉に火を入れましたので、うまく見えるかどうかわかりませんが…」
とロミファが言うと
「しょうがないわ。でも、心に溜めておくのが辛いので、来ました」
と、女が言った。
薪がパチパチと音を立てて、だんだん火が強くなった。
「ああ。だんな様の心が離れておしまいになっているのね」
とロミファが言うと、女は泣き始めた。
「身体も心も苦しい」
という女の手を取るとロミファはしばらく火を見つめて、そして自分の胸をかきむしった。
「痛い」
とロミファが言った。
「あなたの身体の中に黒い塊が育ってきています。これは私には治せません。医者に診てもらうことです。それも隣のサイカ郡の大きい医院にいる先生に診てもらわなければだめです」
女はなきくずれた。
「でも、もう私はそんなに遠くにまでは行けません…」
「心を穏やかに。窓から光が見える場所にベッドを置くように。そして風が通るようにするのです」
女は今の気持ちを全部吐き出した。その間、暖炉の火の中には女がだんだん衰えて、憎しみや焦がれる思いだけを心に詰めて横たわっている姿が写っていた。
「ああ、少し心が動くようになった」
女は言って、そしてまたひとしきり泣いた。ロミファは背中に手を当てると、女が落ち着くまでじっとそのままでいた。今火の中に見えた姿をそのままこの女に伝えるわけにはいかない。
女が今その場所から逃げ出せれば未来は変えられる。だが今、この女は一人で逃げ出す力を持っていない。彼女は持てる力をふりしぼって、やっとここまできたのだ。
この先、女の中の塊はだんだん育ち、それが女の行動はもっと制約されることになるだろう。
ロミファが女を動かしその場所から連れ出すには、ロミファも一緒にその場所に行かなければならなかった。それに、もともとその場所は強く女を縛りつけている。もし本気で女をそこから連れ出すのなら、これまで女の中で一つずつ育って行った呪縛をていねいに一つずつ解かなければならず、それには時間もかかるだろう。
ロミファには今それだけの力も余裕もなかった。今ロミファにできることは、今女と一緒にいるこの時に心安らぐ場所を女に与えることだけだった。
ズールがお茶のお盆を持って部屋に入って来た。
「さ」
とズールが言うと、その部屋の緊張が解け、ロミファはくすりと笑った。
女がまだ涙にうるんだ目をロミファに向けると、ロミファは何も言わず、ただうなずいた。
ルーズがミルク茶を淹れて女に差し出し、また「さ」と言った。
「あまい」
一口飲んだ女が言った。
「まあ。良かった。甘いことが感じられると、それで少しはまた楽になります」
それから何も言わず、女は静かにお茶を飲むと、何やら袋に入ったものをロミファに差し出した。
それを受け取ったロミファの表情がくもった。
立ち上がった女をルーズが出口に案内し、そこにいた使いの者に女を引き継いだ。
女が残して行った袋の中から真珠の首飾りが出て来た。粒のそろった真珠で、つやつやした輝きを持っている。
「これはきっと、彼女がまだ愛されている時にもらったものなのだわ。こんなものをもらっても…。わたしには何もできないというのに…」
とつぶやくと、外で馬車が屋敷を離れて行く音がした。
音が聞こえなくなると、ロミファはタイラのベッドの脇に横になった。タイラは大人用の大きなベッドで手足を動かしていた。そして黒い大きな瞳でじっとロミファを見つめた。
「タイラ…」
ロミファはタイラの腕に手を当てた。
「きっとあなたも何かの中に人の未来を見るようになる。でも、あなたにこんなことはさせられないわ。あなたは、あなたの好きなようにするのよ。こんなことは、もうわたしでおしまい」
タイラはにっこり笑うと、タオル地でできたねずみの人形をなめて、ぶぶぶと言った。
「あなたがいてくれてよかった。あなたがいたから、あの場所から出てくることができた。そうでなかったら、わたしはまだあの場所で火を見ていたのだわ」
「ぶぶぶぶ」
「タイラ」
その名前を呼ぶたびに、ロミファの中に入って来た苦しみは外に溶け出ていくように思えた。
「さ」
と言い、ルーズが新たな茶を持って来た。
「まあうれしい。ここであなたも一緒にお茶を飲みましょう」
「あ」
ロミファはルーズにほほ笑んだ。ルーズがほほ笑んだとしても、たぶんだれにもそのほほ笑みはわからないのだろうが、ロミファにはそれがしっかりとわかった。
「あなたがいてくれてよかった。こんなにちょうどいい甘さのお茶はあなた以外には淹れられないもの」
「あ」
客人がいなければこの館の中にはいつでも平穏で優しい空気が流れている。ロミファは深く息をすると、ゆっくりとお茶を味わった。




