後編(完結)
早速学校帰りに栗田に言われた通り子猫用のミルクを買って家に帰った。
自分の部屋に入ると猫が段ボール箱から出ていた。段ボール箱には濡れた跡があり、微かに刺激臭がした。
「……猫のトイレをどうすればいいのか栗田に聞くの忘れてたな。」
とりあえず、段ボール箱を新しいのに替えてから僕は猫にミルクを与えた。
猫は水の時のようにミルクの匂いを丹念に確かめてから、舌の先端でミルクを少しだけ舐めた。口の中でよく味わってから二口、三口とミルクを飲み始めた。
おおと僕は感動した。猫は鼻の先を白く汚しながら、夢中になってミルクを飲んでいる。よかったとただただ安堵した。これでもう餓死の心配はない。
「なんだよお前、ミルクがいいなら早く言ってくれればいいのにー。心配したんだからなー。」
僕はそう言いながら猫の頭を指で弾いた。猫は僕を無視してミルクを飲み続ける。それがなぜだかとても嬉しかった。
「何やってんの?」
突然、背後から冷たい声がした。酒を飲んで顔を赤くした母親が僕の部屋の前に立っていた。
「……あ、ただいま。母さん。」
そういえば、今日は猫にミルクをあげることしか頭になくて母親に挨拶もせずに帰ってきてしまっていた。
母親は冷たい視線で猫を見つめた。
「……その猫まだいたの?」
「え?昨日飼ってもいいって言ってたじゃん。」
母親は僕の言葉にはっと笑った。母親は狂ったように笑い始めた。
「いいね。あんたはお気楽で。猫と遊んでいればそれで楽しいんだねぇ。」
そう言って母親は突然笑うのを止めた。僕はぞわりと悪寒を感じた。母親のことを素直に怖いと思った。
母親は猫と僕を見て言った。
「私にはその猫近づけないで。見てて不愉快になる。猫と遊んで楽しそうにしているあんたを見るのも不愉快だ。」
ああそうか。やっと分った。母親の世界では兄貴しか生きていないのだ。
僕は死んだ兄貴が今もどこかにいるような錯覚を感じるけど、母親はそれを錯覚だとは思っていない。母親の中では兄貴は今も生きているのだ。そして、兄貴を生かすために僕の居場所は無くなってしまった。兄貴という存在を母親の中で生かしておくには僕の為のスペースはもったいないから。
死んだ兄貴は生きていて、生きてる僕は居場所がない。なんて皮肉な話だろう。
「ごめんね、母さん。兄さんの代わりに僕が死ねばよかったんだ。」
ぼたぼたと僕の目から涙が溢れた。不随意だった。僕が泣いたのを見て母親は驚いたようだった。
「……そんなこと言ってないでしょ。」
ばつの悪そうに母親は言った。
そういえば僕は兄貴の葬式でも泣きはしなかった。母親が滝のように涙を流していたので、僕がしっかりしなくてはと思って泣く余裕すらなかった。
「母さん、僕だって兄貴が死んで悲しかったんだよ。気配はあるのに家のどこを探しても兄貴はいなくてずっと寂しかったんだ。」
「……あんた、そんなこと言わなかったじゃない。」
言わなくても分ってよ。同じように家族を亡くして、悲しまないはずがないじゃないか。寂しくないはずがないじゃないか。
足元で猫がミーと鳴いた。
何が違うのだろうと思った。事故で死んだ兄貴と生き残った僕と、車に轢かれて死んだ猫とミルクを飲んで生き繋いでいる猫。何が運命を分けたのだろう。
神様なんているなら殴ってやりたい。だって、神様は母親から息子を、僕から兄貴を奪ったんだから。
いつの間にか朝になっていた。そうか、昨日は泣き疲れてそのまま寝てしまったんだ。泣き疲れて寝てしまうなんて小学生みたいだな。
傍らの段ボール箱には猫がいた。まだすやすやと眠っている。昨日皿に注いだミルクは全部飲み干したみたいだ。学校に行く前に追加で入れてやらないとな。
猫のご飯の前に僕も朝ごはんを食べようと台所に行くと良い匂いがした。焼きたてのトーストと目玉焼きとサラダがテーブルの上に置いてあり、エプロンを着けた母親がいた。
「……おはよう。」
少し恥ずかしそうに母親が言った。
「……おはようございます。どうしたのこれ……。」
こんなまともな朝食を見たのは久しぶりだ。それどころか、母親が台所に立つのを見るのも久しぶり。
「……昨日のあんたを見て、自分は母親失格だと思ったわ。だから、少しずつ元の生活に戻そうと思ってね。」
母親は照れくさそうに言う。その言葉は少しだけ寂しさを含んでいた。だけど、前を向いてくれたのが僕には嬉しかった。
「母さん、ありがとうね。」
僕の言葉に母さんは少しだけ笑った。
「おはよー、相原。昨日ミルク買ってみた?猫どうだった?」
「おはよー、栗田。ミルク買ったよ。猫ゴクゴク飲んでくれた。情報ありがとうな。」
それを聞いて栗田は嬉しそうに笑う。
「よかったー、実は心配してたんだよねー。ふふふ、他に聞きたいことあったら何でも聞いてねー。」
「ああ、そうだ。猫のトイレってどうしたらいいんだ?昨日寝床の段ボール箱の中にしちゃったんだ。」
「それなら、うちは猫砂使ってたよ。赤ちゃんのオムツに入っているポリマーみたいなやつ。普通のスーパーにも売っているよー。」
ほうほうと僕が話を聞いていると栗田は数秒沈黙した。
「どうした栗田。」
「んー、よかったら相原、うちの猫砂もらってくれない?」
「栗田の家も猫飼ってるんだろう?困らないのか?」
「んー、実はねー、今は猫飼ってないんだよねー。先月うちの猫死んじゃってさ。」
「そうだったのか……。」
僕の無意識な暗い声のせいか、相原はひらひらと手を振って平気そうなそぶりを見せる。
「いやー、うちのはもうおばあちゃん猫だったから仕方なかったんだけどね。老衰だったし。でも、猫砂とか猫用品捨てられなくてさー。よかったらそういうの相原にもらって欲しいんだー」
「……僕なんかがもらっていいのか?」
栗田は大きく頷いた。
「もちろん。私は相原の猫ちゃんにもらって欲しいの。だって、相原の新しい家族でしょ?」
栗田はそう言った後でしまったと自分の口を塞いだ。どうやら、僕に家族の話は禁忌だと思ったらしい。
「いいよ、栗田。気を遣わなくて。ていうかお前ら僕に気を遣い過ぎ。」
「そーお?じゃあ、相原ついでだから言わせてもらうけどね。私の好きなドラマにこんなセリフがあるのよ。」
「ほう。」
「人は死んでも消えたりしない。そっと大切な人の一部になるの。」
「……。」
「うちの猫が死んだときに私はその通りだと思ったよ。あの子は私の一部になったの。そう思ったら何か楽になれたんだ。」
「……そうか。」
兄貴は僕の一部になるのか。決して忘れるわけではなくありのままを受け入れる。
きっと、母さんはそれを始めたんだね。
僕は今まで感情に蓋をしていたんだろう。だから、たまにしまいきれずに溢れ出す。現実を受け止めて生きるというのは簡単そうで難しい。
「……そう思うのは僕には、まだ無理かもしれないな。」
「……それでいいんだよ。時間かかっていいんだよ。っていうか相原はちょっといい子過ぎるから、そのぐらいは不器用じゃないと。」
栗田の発言に僕はふんと鼻を鳴らした。
「そんなこと言っていいのかな?確か、今日の英語は予習で英和訳をしてこなければいけなかったような……。」
はっと栗田の顔色が変わった。
「相原様。英語のノートを見せては頂けないでしょうか……。」
「嫌だね。」
ケチと栗田が悪態をつく。それを見て僕は笑った。
兄貴はいつか僕の一部になるのかな。いつか兄貴みたいに英語が喋れるようになって、僕も留学とかするのかな。そうすれば母さんも前みたいに自然に笑ってくれるようになるかな。
そうだといいな。