前編
学校からの帰り道、道路で猫が死んでいた。
小雨の降り始めた夕方に猫はしとしとと濡れていた。
猫は死骸ではなく、肉塊となっていた。筋肉と消化管だったと思われるものは車のタイヤに轢かれ、尻尾と頭だった部分だけが元の姿を残していた。毛並みは黒いが、先端は白い尻尾が特徴的だった。
僕はその猫を避けるように原付バイクで脇を通った。すれ違うときに雨のカビ臭さと混じり、生臭いにおいがした。
原付バイクで走っていると猫の死骸を不定期にだがよく見つけるようになった。きっと、車よりも地面に近く、歩行者よりも車道に近いからだと思う。
久々に見たな。というのが僕の素直な感想だった。
そのまま車道を走って五分位したら家に着いた。僕はバイクをマンションの駐輪場に置いた。雨はさっきより少し強くなったみたいだ。カッパを着ていなかったので服がしっとりと雨に濡れていて重かった。
マンションの自分の部屋の前で立ち止まった。部屋の空気が湿度を増して扉が重くなっているような気がした。僕は一度大きく深呼吸してから扉をえいと開けた。
「ただいまー!」
無駄に明るい声で僕は言った。応答は無かった。
僕はそのまま、リビングへと向かう。
「……やっぱりここか。」
僕はリビングの大きなソファーで寝ている母親を見つけた。ソファーの周りにはお酒の空き缶が2,3本転がり、意識不明の母親の手にはまだ中身が入っているらしい缶チューハイが握られていた。
酒に弱いはずの母親が正体不明になるまで酒を飲んで寝てしまうようになったのは僕の兄が交通事故で死んでからだ。
僕は母親が寝息をたてているのを見て、このままじゃ寒いだろう、何か掛けてやらねばと毛布を探した。毛布を掛ける時に顔を母親に近づけると母親の眼には涙がうっすらと滲んでいた。
僕はお腹が減った。このまま、母親が起きるのを待っていたら飢えてしまうのでインスタントラーメンでも作ろうと思い台所に行った。
「……どこにあるんだっけ?」
買い置きしている食料の棚をざっと探したが見当たらない。他にラーメンが置いてありそうな場所はどこだっけ?と考えていると
「棚の右奥にあるはずだよ。」
死んだ兄の声が聞こえた気がした。辺りをキョロキョロと振り返るが誰もいない。
聞こえた通りに棚を探すと本当にラーメンがあった。
そういえば、ラーメンを作るのはいつも兄貴だったな。僕はいつも兄貴がラーメンを作る時に、ついでに僕のもとお願いして作ってもらっていた。兄貴はまたかよー。と言いながらいつも僕の分まで作ってくれたんだ。
部屋のどこにいても兄貴の存在を感じる。ふとした瞬間にひょっこり姿を現して帰ってきそうな気がする。
きっと、母親は僕以上に兄貴の存在を鮮やかに感じているのだろう。だから現実とのギャップに耐えかねてお酒に逃げてしまう。
母親の心理は理解できるけど理解したくはなかった。
次の朝、学校に行く途中の道で猫の死骸を探したけど、無かった。
きっと、もう誰かに片付けられたのだろう。それをなぜだか寂しく感じた。
「おはよう、相原。」
学校に着いたとたん担任の先生に話しかけられた。
「おはようございます。」
僕は明るい声で返した。それを聞いて先生は嬉しそうに頷く。
「良かった、もう元気そうだな。」
それを聞いて僕はああと納得した。
「もう僕は平気ですよ。兄が亡くなってからもう三ヵ月も経ちますから。」
一瞬、酒に酔って寝ている母親の姿が頭をよぎった。あれに比べれば僕は平気だ。
「元気なのはいいが、あまり無理はするなよ。困ったことがあるときはいつでも相談にのるからな。」
担任が優しい口調で言った。教師からしてみれば、僕は兄弟を亡くしたばかりの可哀想な生徒なのかもしれない。
「ありがとうございます。」
僕は担任に軽く頭を下げながら、お礼を言った。
僕は内心、担任の態度に苛立っていた。学校は二親等の兄弟が亡くなっても三日しか忌引きをくれない。生まれた時から一緒にいた兄貴を失って、その喪失感を三日で埋めろとでもいうのだろうか?
言葉だけのお悔みや配慮ならない方がいい。兄貴の葬式で死ぬほど思った。
それでも学校は家よりずっと居心地がよかった。友達なんかは気を遣ってのことかもしれないけど、前と同じように接してくれた。兄貴が死ぬ前と同じように。
まるで、兄貴が死んだことなんて無かったようだった。
「1限、英語かー。だるくない?私、絶対寝ちゃうわー。」
隣の席の栗田が言った。言葉とは対照的に机の上に教科書とノートを開き、鉛筆と消しゴムと蛍光マーカーをいつでも使えるようにと準備している。
「お前はそう言って、根が真面目だからなー。うとうとしながら授業はしっかり聞いているタイプだろ。」
僕がそう言うと栗田は口を尖らせた。
「私、英語は苦手だもん。相原はいいよねー。英語得意でしょー?」
「……まあな。」
確かに僕は英語が得意だ。高校受験の時に兄貴にしごかれたから。
兄貴は元々頭の良い人で勉強全般何でも出来た。特に英語が得意で短期留学にも行った事があるくらいだ。その兄貴に懇切丁寧かつスパルタに鍛えられた僕はいつの間にか英語が得意になっていた。もちろん兄貴程じゃないけど。
「話変わるけどさー。」
栗田が僕の顔を覗きこみながら言った。
「相原、バイクで学校の近くの本屋の前の道路、通るよねー?」
「ああ、通るよ。」
「昨日、そこで猫が死んでなかった?」
ああ、いたね。と僕が答えるより先にクラスの委員長が話に割って入った。
「栗田、そういう話するなよ。」
「何で?」
委員長の言葉に栗田は首を傾げた。委員長は僕の方をちらりと見て言った。
「……相原の前だぞ……。」
「あ……。」
二人の会話に含まれている意味を僕は察した。
交通事故で兄貴を亡くした僕に道路で車に轢かれて死んだ猫の話は酷だとでも思ったのだろう。
「相原、ごめん……。」
栗田は消え入りそうなぐらい小さな声で僕に謝った。
「いいよ。別に気にしてない。」
僕は栗田が気に病まぬように努めて明るい声で言った。
別に本当に気にしてなかった。委員長に指摘されるまで僕も気付かなかったくらいだ。それぐらい無感情に昨日は猫の死骸を眺めていた。それなのに僕は道路で猫が死んでいたくらいで兄貴の死を思い出して悲しむような人間に思われたのだ。
滑稽で少し笑えた。委員長も栗田も自分も。
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