魂のうつわ
魂なれば、
魂ごと、
星空に煙が一筋立ち上る。
釣った魚を焚火で炙って一杯やっていると、ガサリと獣道をかき分けて大きな男が顔を覗かせた。
身構えるこちらの気を知ってか知らずか、彼は向かいにどさりと腰掛け、腰袋から竹筒を取り出すと豪快に飲み始めた。
あまりに快い飲みっぷりに感心して、どうぞと焼き魚を差し出すと、それもぺろりと平らげてまた酒を飲む。
なぁに今日は大漁だったのだ。魚はいくらでもある。
串を差し、塩を振ったイワナを2匹、火のそばに置く。
「美味いなあ。酒も肴も」
野太くも優しい声音だ。
同意するように首を縦に振る。
礼だ、と言わんばかりに差し出された竹筒を、グラスで受け止めて口に含む。
竹の香りの移った、爽やかで甘い酒だった。
「こんなに美味いのに……どうして死のうなんて」
問いかける瞳は、焦げ目のつき始めたイワナを見ている。
自らが此処に来た理由を見透かされて、脈が速くなる。
理由……理由か。それこそ強迫観念のようなものでしかない。
「死ななければ幸福にはなれない」
そう告げると、
「迷惑な信仰だ」
男は吐き捨てるように言って、残りの酒を一気に呷った。
これは信仰なのだろうか。言われてみればそれ以外の言葉も当てはまらない。
「信仰か」
思わず独り言ちる。
「ほれ」と男が二本目の竹筒を掲げる。
ありがたく頂戴してイワナを齧る。
ぽつりぽつりと言葉を交わすうちに、気づけば様々なことを話していた。
自分の持ってきた一升瓶、男の持つ竹筒が底を尽くころにはずいぶんと酔いが回ってきていた。
小さくなってしまった火種を眺めながら船を漕いでいると
「もう寝るといい」と言ってくれたので、お言葉に甘えてシュラフに入り込んだ。
陽射しに目を覚ますと、知らない天井が目に入る。
次いで周囲を見渡すとやはり知らない部屋で、自分は布団の中にいた。
化粧台しかない、畳敷きの簡素な部屋だ。
困惑して、体を起こす。まだ少し酒が残っているようだ。
窓からは太陽と空と木々しか見えない。
あの男の住まいだろうか。
布団をたたんでからそっと襖を開ける。
暗い廊下の先には階段がある。
「おはようございます」と声を投げると、少しして
「あら、おはようございます」と女の声が返ってくる。
なんだか気恥ずかしい気持ちになって廊下に出ると、階下から女が顔を覗かせている。
快活そうな印象の若い女だ。あの山男の娘さんだろうか。
「さあ、もうお昼ですよ。さぞお腹が空いたでしょう」
そう言って、立派な座卓のある畳敷きの居間に案内される。
座布団に座らされると、手際よく昼食が並べられていく。
「急にお邪魔してしまい、すいません」
「父の気まぐれでしょうから、気にしないでください」
配膳してくれる女から、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。
「あの……お父様は……」
「父はここには住んでいませんよ」
朗らかな口調でそう言うと、口を挟む間もなく彼女は「庭で仕事をしてきます」と言い去ってしまった。
食器を片してから、庭で洗濯物を干す女に「お世話になりました」と告げて、階上の部屋に戻って帰り支度を始める。
トントントンと少し急いだような様子で軽い足音が上ってくると、女が少し慌てたような様子で話しかけてくる。
「今から山を降りるとなると夜中になってしまうでしょうから、もう一日泊って行ってはいかがです?」
「いえ、これ以上ご迷惑をおかけするわけには……」
「このあたりでは鹿が獲れるんです。ぜひ食べていってくださいな」
ひとりで食事をしても味気ないと言う彼女に押し切られる形で、もう一泊することになってしまった。
それならば、とせめて雑用をさせてくれないかとお願いすると井戸の水汲みや薪割りなどを任された。
「どうぞ」と女の酌で地元の物だという酒を飲む。
水がいいのだろう。爽やかでスッと入ってくる。
それでいて甘い果物のような、とろみと余韻の残る酒だった。
気のせいか、女と同じ香りがするような気がした。
「私も少しいただきますね」
そういう彼女に、今度はこちらから徳利を傾ける。
朗らかで気の利く彼女と喋っていると、あの男の娘ということがよく理解できた。
楽しく過ごしているうちに、夜も更けていたようで
「お風呂を沸かしてありますよ」と、浴室に案内される。
やはり少し甘い匂いのする湯船に浸かっていると、「父のですが」とサイズは合わないが着替えまで用意してくれた。
風呂から出ると火照った体を冷ます間もなく、寝室に誘導される。
布団からはお日様と、やはり仄かに甘い匂いが迎えてくれた。
階下からわずかに聞こえてくる物音を聞いているうちにすんなりと眠りに落ちることができた。
どれくらい経ったのだろう。
トン、と控え目に襖を閉める音で意識が戻る。
女が近づいてきて枕元に座ったようで、甘い香りがいっそう強く鼻孔を刺激した。
濡れた女の髪が顔に掛かる。
くすぐったさに思わず顔を歪めると、その手が優しく顔を包み込む。
冷んやりとして、心地よい。
「どうして」と問うと、
「この家に布団は一つしかありませんもの」と嘘か真かわからないことを言う。
湯上りの女の甘い香りが、神経毒のように心地よく体中に浸透していく。
唇と唇が長い間重なる。甘い唾液に意識が朦朧としてくる。
「ここは良いところですよ」
耳元で女が囁いて、布団の中に入り込む。
女の四肢も体液も、恐ろしほどに甘い。
「一緒に暮らしましょう」縋るような問いかけに、返答は悩まない。
……現世に未練などあろうはずもなかった。
再び目を覚ますと、未だ闇の中にいた。
風とせせらぎの音に現実に引き戻される。
顔を横に向けると喰いかけの魚と、酒瓶が転がっている。
酒を酌み交わした山男の生々しさを思い出し、思わず笑みが漏れる。
――信仰ではない。
ゆるやかに狂ってしまったという結果が残っただけだ。
星空を眺める。
それは普遍にして不変で、痛いくらいに胸を刺す。
朝が来たら終わらせよう。
改めてそう決意する。
「迷惑だ」と言ってくれた山男に感謝の気持ちを抱いて、再び目を閉ざした。
桃の花に山が色づいている。
小川では、まだ幼い娘が妻に見守られて遊んでいる。
窓に切り取られたそんな情景を眺めながら、ぬるくなってしまったコーヒーを飲む。
ほうっと、じんわりと温まった肺の中から大きく息が漏れ出た。
視線を文机に戻す。
白紙の原稿用紙に陰鬱とした気持ちになりつつも、筆を手に取る。
めぐる季節に君を想う。
朝焼けに、白日に、夕暮れに、漆黒に君を想う。
月の影に、虫の声に、優しい風に、せせらぎに、緑の葉に、しとしとと降り続ける雨に、
幸せに、不幸せに、温もりに、寂莫に、
生に、死に――
森羅万象に。
朝焼けも未だ来ぬ、灰色の時間に動き出す。
獣道を分け進んでいくと、やがて墓にたどり着く。
一緒に死ぬ、なんてことは彼女も望んではいないだろうけど、もはや生き続ける理由もない。
だから、終わらせるならここがいい。
ほどよい高さと太さの枝を選び、リュックを足場にしてロープを結ぶ。
震える腕で、カラカラに乾ききった喉に輪を通す。
生きる意味も価値もなくなったところで、死の恐怖は変わらずに心の内にあるようだ。
けれどそれでいい。恐怖も切符みたいなものだ。
大きく深呼吸をすると、祈るような気持ちで足元のリュックを蹴り飛ばした――
山深いあばら屋に、男が一人棲まう。




