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社畜の聖域、定時退社

作者: はるさんた
掲載日:2026/06/26

カチ、カチ、カチ。

午前二時を回った静まり返るオフィスに、私の叩くキーボードの音だけが虚しく響いている。

液晶画面の右下に表示された時刻を確認し、私は深いため息を吐き出した。いや、ため息をつくと幸せが逃げると言うが、すでに逃げるべき幸せすら残っていないのが、この株式会社『サクライ・ロジスティクス』である。


「……労基、マジでいつか訴えてやる。絶対にだ。覚えてろよ、おぼえてろよ……」


呪詛のように呟きながら、私はプリントアウトされた請求書の山をバサバサと揃えた。

私の名前は田代つかさ。二十八歳。この中小企業で事務職として働いて、気付けば六年目が経とうとしている。世間一般で言うところの、立派な、それはそれは見事な「社畜」である。


数年前、当時付き合っていた彼氏に「つかさは仕事が大好きみたいだし、なら僕は必要ないよね」というテンプレのようなセリフを吐かれてフラれた。あの時は「は? 仕事が好きなんじゃなくて終わらないだけなんですけど!?」と逆ギレしたものだが、彼氏がいなくなってからも私の生活は何一つ変わらなかった。相変わらず毎日終電近く。恋愛の仕方も忘れた。


そんな私が、なぜこんな月百時間を超えるサビ残地獄の会社をいまだに訴えもせず、辞めもせずしがみついているのか。

理由は、毎朝午前九時きっかりに訪れる。


「皆さん、おはようございます。今週も一週間、体調に気をつけて頑張りましょう」


翌朝。睡眠時間わずか三時間の重い頭を引きずって参加した朝礼。

フロントに立つ我が社のトップ、桜井社長がマイクを持って微笑んだ瞬間、私の脳内にドーパミンがドバドバと分泌されるのが分かった。


黒髪。涼しげで切れ長の瞳。高級そうなスーツの上からでも分かる、程よく引き締まったスマートな体型。 shadow(影)すら美しい。そして、少しはにかんだような、少年のような無垢な笑顔。


(ああ、今日も社長がお美しい……! 神様仏様社長様、今日も現世に舞い降りてくださりありがとうございます……!)


心の中でペンライトを振り回し、床に額を擦りつける勢いで拝み倒す。

ぶっちゃけ、この会社がこれほど狂った労働環境になっている諸悪の根源は、トップであるこの男の経営手腕(あるいは現場への無関心)のせいだ。分かっている。分かっているけれど、イケメンは正義なのだ。犯罪以外なら、この顔なら大抵のことは許される。社長の困った顔なんて見たくない。だから私は今日も馬車馬のように働くのだ。社長は我が社における唯一の「福利厚生」なのだから。


「――おい、田代! 朝礼が終わったぞ。いつまでボーッとしてるんだ!」


突如、鼓膜を汚すダミ声が響き、私の脳内お花畑は一瞬で更地に戻った。

声の主は、我が総務部のドン、大河原課長である。


「すみません、大河原課長。すぐに業務に戻ります」

「チッ、これだから最近の若い奴は。あ、そうだ。これ、明日までにやっといて」


ドサリ、と私のデスクに置かれたのは、明らかに課長自身の仕事であるはずの分厚いファイル。

出た。ごますり課長。

脂ぎった顔をテカらせ、上層部には文字通り尻尾をちぎれんばかりに振るくせに、部下の手柄は自分のもの、自分のミスはすべて他人のせいにする。絵に描いたような産業廃棄物である。お前よくそのスペックで課長になれたな。今時パワハラで訴えられたら一発アウトだぞ。許さん、マジで許さん。毎日この男を見るたびに、私の怒りはパチパチと音を立てて燃え盛る。


そんな怒りと疲労で完全に灰になった午後八時。

スマホの画面が震えた。


『お疲れ。今日も生きてる? いつもの店で待ってるわ』


同期の中川優紀からのLINEだった。

私は一瞬で荷物をまとめると、まだ残っている仕事を放り出し、「お先に失礼します!」と会社を飛び出した。中川から連絡が来た日は、何が何でも這ってでも行く。それが私の暗黙のルールだった。


「くぁーーっ! 五臓六腑に染み渡る……!!」


キンキンに冷えた生ビールのジョッキを干し、私はおっさんのような声を上げた。

ここは会社の最寄り駅から二駅離れた、古びた居酒屋。赤提灯の明かりが、私のボロボロの魂を優しく包み込んでくれる。


「相変わらずいい飲みっぷりだな、つかさ」


対面に座る中川が、呆れたように、でも優しく笑いながら私のジョッキにビールを注いでくれる。

中川優紀。新卒の同期。私と同じ二十八歳。

同期の中でダントツの出世頭で、営業部でエースを張っている男だ。ぶっちゃけ、普通にかっこいい。清潔感のある短髪に、人当たりのいい笑顔。スーツの着こなしもスマートで、他部署の女子社員からも密かに人気がある。


「聞いてよ中川! あのおぶたさん課長、また私のデスクに自分の仕事丸投げしてきたの! しかもね、あの脂ギッシュ、午後五時過ぎたら『じゃ、あとはよろしく。これから接待だから』とか言って、爽やかに定時退社したのよ!? 自分で残した仕事の山を横目に見ながらよ!? 人間性の欠如にも程があるわ!」

「ははは、相変わらずだな大河原課長も。よく耐えたよ、お疲れ様」

「もうホント無理。いつかあの顔面に請求書の角ぶつけてやるんだから!」


中川は「はいはい」と頷きながら、唐揚げの皿を私の前に寄せてくれる。

彼はいつもそうだ。私がどれだけ理不尽な愚痴をぶちまけても、決して否定せず、かといって安易な同情もしすぎず、ただただ私の避難所になってくれる。


ふと、冷たいビールで頭が少し冷えた頃、頭の片隅でいつもの疑問が浮かんだ。


(……え? こんなの、はたから見たら男女の良い関係なんじゃないかって?)


そう思うでしょう。世間の皆様。

毎週のように平日の夜、男と女が二人きりでサシ飲みして、愚痴を言い合う。これで何も起きないはずがない、と。

ところがどっこい、何にもならんのよ、これが。


もう六年。ずーーっとこれ。

私としては、中川は人間的にも男としても100点満点だし、もし付き合えたら人生大満足、即座に両親に紹介するレベルの優良物件だと思っている。だけど、中川からそういう「男と女」の雰囲気を微塵も感じたことがない。私たちはあまりにも綺麗な『戦友(同期)』という枠に収まりすぎてしまっていた。


「ねえ、中川さぁ」

「ん? なに?」

「中川ってさ、本当に彼女作らないの? モテるじゃん。私だったら中川みたいな彼氏がいたら、毎日拝むよ? あ、社長の次くらいにだけど」


冗談めかして笑うと、中川は一瞬だけグラスを持つ手を止め、それからいつものように困ったように笑った。


「つかさは、いっつも社長社長って、面食いだからなぁ。俺じゃあの綺麗な社長には勝てないよ」

「何言ってんの、社長は『観賞用』! 福利厚生! 中川は『実用性』というか、安心感が違うの!」

「実用性って……。まあ、俺はまだしばらく、誰かと付き合うとかそういう心の余裕はないかな。特に今はね」


中川はそう言って、残ったビールをぐいと飲み干した。

その時の彼の横顔が、いつもより少しだけ大人びて、どこか遠い世界を見ているように見えた。



「あー、今日も疲れた。田代、あとはよろしく。あ、その書類は明日の朝イチで社長に提出するから、不備のないように」


翌日の午後五時十五分。定時をわずか十五分過ぎた頃、大河原課長は脂ぎった顔をハンカチで拭いながら、軽やかにカバンを掴んだ。

……お前、本当に毎日ほとんど定時で帰るよな。


「お疲れ様でしたー」


一応、社会人の仮面を貼り付けて見送るが、私の心の中では課長に向かって中指が垂直に起立している。

あの産業廃棄物、自分の仕事を私のデスクにタワーのごとく積み上げておいて、自分は「これから大切な打ち合わせだから」などと言い訳をして消えていく。打ち合わせという名のただの飲み会なのは、経費の領収書を処理している私にはお見通しだ。


けれど、今日の私は昨日の私とは違う。

なぜなら昨日の夜、中川と飲んだからだ。


(中川にエネルギーをチャージしてもらった翌日は、何が何でも二十時に仕事を終わらせる……! それが私の、私による、私のための鉄則……!!)


キーボードを叩く指にいつもの三倍の魔力を込める。

中川に急に誘われた日は、流石に仕事が残って翌日にしわ寄せがいく。けれど、その翌日は「昨日の癒やしの余韻」があるうちに、全力のフルドライブで業務を片付けるのが私のルーティンであり、意地だった。二十時に終わらせて、家に帰って、ちゃんとお風呂に浸かって、中川と他愛のないLINEをする。それが私の、この泥沼のような日常における唯一の防衛策だった。


カチカチカチカチ――ッ!


エンターキーを親指で親の仇のように叩きつけ、見事に二十時ジャスト、全ての業務が終了した。

「勝った……!」と心の中でガッツポーズを決め、デスクを片付けてオフィスを出る。


いつもの癖で、エレベーターに乗る前に営業部のあるフロアをチラリと覗いた。

出世頭の中川だ。どうせあいつもまだ残業しているだろうから、驚かせてやろう。そう思って彼のデスクに視線を走らせたが――そこには、誰もいなかった。


(あれ? 中川、もう帰ったのかな……?)


いつもなら、営業部のフロアで一番遅くまで明かりをつけて書類と格闘しているはずの背中がない。パソコンの電源も落ちている。

まあ、営業のエースだし、直帰か何かだろう。私は深く考えず、スマホを取り出して『二十時に仕事終わらせた! 私を褒めて!』とLINEを送った。


いつもなら、ものの数分で『お、すげえじゃん。お疲れ』とスタンプ付きで返ってくるはずだった。

しかし、その夜、中川から返信が来たのは、私がベッドに入って目を閉じようとした午前一時過ぎだった。


『ごめん、ちょっとバタバタしてて。お疲れ様』


たったの一行。スタンプもない。

スマホの画面を見つめながら、私は妙な胸のざわつきを覚えた。中川らしくない、どこか冷たくて、距離を感じる短文。

昨日、居酒屋で彼が言った「特に、今はね」という言葉が、不吉な足音を立てて脳裏をよぎった。


その違和感は、数日経っても消えるどころか、どんどん大きくなっていった。


毎朝の朝礼。黒髪で切れ長の瞳を持つ桜井社長は、今日も眩いばかりのはにかむ笑顔で「今日も頑張ろう」と言ってくれる。いつもなら「はいっ! 社長のために身を粉にして働きます!」と脳内で平伏するところだが、最近の私は、社長の後ろの列に立つ中川の姿ばかりを目で追ってしまっていた。


中川は、朝礼の間ずっと、どこか上の空だった。

社長の言葉を聞いているようで、その視線は遥か遠く、この狭いオフィスではないどこか別の場所を見つめているように見える。


さらに、中川は最近、目に見えて定時近くで帰ることが増えていた。あの営業の鬼が、残業もそこそこに会社を出ていく。一体どこへ行っているのだろう。


そして、社内である「噂」が囁かれ始めたのは、それから一週間後のことだった。


「ねえ、総務部の田代さん、ちょっと聞いた?」

給湯室でお茶を淹れていると、他部署の女子社員が声を潜めてすり寄ってきた。

「営業部の中川くんのことなんだけど……」

「中川が、どうかしたんですか?」

心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。


「なんかね、ヘッドハンティングされてるらしいのよ。ほら、業界最大手の『ミライ・インダストリー』ってあるじゃない。あそこの役員が、中川くんの営業成績に目をつけたらしくて。今、水面下で猛アプローチされてるんだって」


頭をガツンと殴られたような衝撃だった。

ミライ・インダストリー。誰もが知る、業界トップの超ホワイト大企業だ。完全週休二日制、残業ほぼゼロ、有給消化率100%、ボーナスは我が社の数倍。

そこに、中川が引き抜かれようとしている? 最近のあいつの早帰りは、あっちの会社との面談や打ち合わせだったのか。


「しかも、もう話はほとんどまとまってて、来月には有給消化に入るんじゃないかって噂よ。やっぱり、デキる男は沈む泥船からは早く逃げ出すのねぇ」


女子社員たちがクスクスと笑いながら給湯室を出ていく。

一人残された私は、手元のお湯が湯呑みから溢れそうになっているのにも気づかず、呆然と立ち尽くしていた。


(中川が……転職する……?)


それは、彼がこの地獄のような中小企業から抜け出し、正当な評価と人間らしい生活を手に入れることを意味していた。同期として、友人として、100%祝福すべきことだ。あいつは頑張っていたし、それに見合う価値のある男だから。


だけど。

私の心の中は、ドス黒い焦燥感と、寂しさと、恐怖で一瞬にして満たされていった。


もし、中川がいなくなったら。

大河原課長の理不尽な嫌がらせに、私はこれから一人でどうやって耐えればいいのだろう。

深夜二時、誰もいないオフィスで、私は一体誰を心の支えにしてキーボードを叩けばいいのだろう。


毎朝の癒やしだったはずの社長の笑顔を思い浮かべてみる。けれど、今の私の心には、あの綺麗な顔立ちが不思議なほどちっとも響かなかった。

私がこの地獄で今まで笑っていられたのは、社長がイケメンだったからじゃない。

その日の終わりに、私のドロドロの愚痴を「はいはい」って笑って受け止めてくれる、中川がいたからだ。


「……嘘、でしょ」


自分の本当の気持ちに気づいた瞬間、手元が激しく震えた。

私は、福利厚生の社長に目を奪われているフリをして、一番失いたくない本物の存在から、ずっと目を背けていたのだ。


噂を聞いてから三日後。私の心がいよいよ限界を迎え、大河原課長のテカる顔面すら認識できなくなるほど擦り切れていた時、スマホが震えた。


『今夜、いつもの店で。八時に席取ってある』


中川からの、二週間ぶりの誘いだった。

その日の私は、課長が定時に「じゃ、お疲れ」と帰っていくのを睨みつける気力すらなく、ただひたすらに、正確に、機械のように仕事を片付けた。中川に呼ばれたのだ。二十時ジャストに会社を飛び出し、心臓をバクバクさせながらいつもの赤提灯をくぐった。


「お、つかさ。お疲れ」


席に座っていた中川は、いつも通り優しく笑っていた。だけど、その手元にあるグラスは、すでに半分ほど減っていた。いつもなら私を待ってから乾杯するのに。


「中川、お疲れ……。なんか、久しぶりだね」

「そうだな。ちょっと最近、バタバタしててさ」


とりあえず生ビールを注文し、届いたジョッキを傾ける。けれど、いつものように「五臓六腑に染み渡る!」なんておっさん臭いセリフは出てこなかった。苦い。今日のビールは、喉を焼くように苦かった。


「……中川、さ」

「ん?」

「なんか、社内で変な噂、聞いたんだけど」


私は思い切って切り出した。これ以上、平気なフリをして飲むなんて無理だった。

中川は焼き鳥の串を置くと、ふう、と小さく息を吐いた。そして、まっ直ぐに私の目を見つめた。


「噂って、『ミライ・インダストリー』の話?」

「……本当、なの?」

「うん。本当だよ。先週、正式に内定をもらった。来月の半ばでこの会社を辞めて、次の第一月曜日から、あっちで働くことになった」


中川の口からハッキリと告げられた現実に、私の視界が微かに歪んだ。

ミライ・インダストリー。やっぱり、本当だったんだ。あいつは、この泥船から、あの定時退社クズ課長の手から、完全に抜け出すんだ。


「そっ、か……! すごいじゃん中川! 大手ホワイト企業じゃん! 残業ないんでしょ? ボーナス凄いでしょ!? やったね、おめでとう! 同期として誇らしいよ!」


精一杯の引きつった笑顔で、私は声を張った。お祝いしなきゃいけない。あいつの努力が報われたんだから。

なのに、喉の奥がキュッと閉まって、涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。


「ありがとう。……でも、寂しくなるな。こうやって平日の夜に急につかさを呼び出して、大河原課長の愚痴を聞くことも、もうできなくなる」


中川は寂しそうに笑って、ジョッキを傾けた。

その言葉が、私の心の堤防を完全に決壊させた。


「……だったら、行かないでよ」


ボソッと、呟くように私の本音が溢れた。


「え?」

「行かないでよ……。中川がいなくなったら、私、明日から誰に愚痴を言えばいいの? 誰を頼りに会社に行けばいいの? 毎日毎日、課長の嫌がらせに耐えて、終電まで残業して……中川がいたから、翌日二十時に終わらせてやるって頑張れたのに。中川がいたから、私、この会社で生きていられたのに……!」


ポロポロと、涙がジョッキの中に落ちた。

情けない。最低だ。友達の出世を素直に喜べず、自分の防波堤になってくれなんて我が儘を言っている。


「つかさは、社長がいるだろ」

中川が静かな声で言った。

「毎朝、社長を見て拝んでれば、大抵のことは許せるって、いつも言ってただろ」


「あんなの、ただの現実逃避だよ!」

私は叫んでいた。周りの客が一瞬こちらを見たが、もうどうでもよかった。

「社長はただの観賞用だよ! 私を本当に救ってくれてたのは、社長の顔じゃなくて、中川だよ! 中川が隣にいてくれたから、私は救われてたの! 私、中川がいい。社長じゃなくて、中川が……っ」


そこまで言って、ハッと息を呑んだ。

私は今、何を言っている? これじゃあ、まるで――。


顔を真っ赤にして俯く私の前に、コツン、と静かにグラスが置かれる音がした。

「……やっと言った」


低く、いつもより少しハスキーな中川の声が響いた。

恐る恐る顔を上げると、そこにいたのは、いつも「はいはい」と優しく笑う『同期の中川』ではなかった。

前髪の隙間から覗くその瞳は、ゾッとするほど真剣で、完全に一人の「男」の肉食の目をしていた。



「中、川……?」

「つかさ。俺さ、もう同期のフリして、都合のいい愚痴聞き係でいるの、限界だったんだよね」


中川はテーブルに肘をつき、私の顔をじっと覗き込んできた。その距離の近さに、心臓が爆発しそうになる。


「俺がなんで彼女作らなかったか、本当に気づいてなかったの? 毎日毎日、目の前で別の男を拝み倒して、社畜生活に必死で恋愛の余裕なんて微塵もない女子がいたからだよ。その子がこっちを向いてくれるのを、俺がどれだけ待ってたか分かる?」

「え……あ、うそ……」

「嘘じゃない。俺はずっと、お前が好きだったんだよ、つかさ」


ストレートすぎる告白に、私の頭は完全にフリーズした。中川が、私を? ずっと?


「でも、つかさは仕事に追われすぎてて、俺が男として踏み込もうとしても、いつも『戦友』のポジションに逃げてただろ。だから、まともな方法じゃこの関係は壊せないと思った」

中川は少し悪戯っぽく、でも男らしく不敵に微笑んだ。


「今回のヘッドハンティング、実は俺から仕掛けたんだ。あっちの役員にアプローチして、自分を売り込んだ。この泥船から抜け出すためにね」

「え、あいつらが中川を見つけたんじゃなくて……?」

「そう。俺が動いたの。……それと、これを見て」


中川がカバンから取り出したのは、一枚の綺麗なパンフレットだった。そこには『ミライ・インダストリー・キャリア採用』の文字。そしてその下には――。


「総務・一般事務職の、中途採用枠。これ、俺が向こうの役員に直談判して、特別に枠を一つ空けてもらった。……つかさ、大河原課長の下で一生社畜やるつもり? それとも、俺と一緒にホワイト企業に行く?」


私は目を見開いた。中川は、自分だけが逃げるんじゃない。私をこの地獄から引きずり出すために、わざわざ向こうの会社に掛け合って、私の席まで用意してくれたのだ。


「これからは、同期じゃなくて、俺の彼女として、毎日定時で一緒に帰ろう。愚痴なら、毎日家のベッドの中でいくらでも聞いてやるから」


居酒屋の少し騒がしい空間の中で、中川の言葉だけが私の鼓膜に、そして心臓に、甘く重く突き刺さった。

いつも安心感をくれていた男が、今、圧倒的な熱量を持って私を拐おうとしている。


「……ずるい、中川。そんなの、断れるわけないじゃん」


涙を拭いながら、私はようやくそう答えた。

中川は、今まで見たこともないような、心底嬉しそうな、そして男らしい極上の笑みを浮かべた。

テーブルの下で、私の手がぎゅっと力強く握られる。中川の手は、驚くほど熱くて、大きかった。


翌朝。

午前九時、いつも通りの朝礼が始まった。

フロントに立つ黒髪切れ長のイケメン、桜井社長が「今日も頑張ろう」とはにかむ笑顔を振り撒いている。


いつもなら脳内でペンライトを振っている私だったが、今日の心境は全く違った。

(社長、今まで綺麗な顔を毎朝拝ませてくれてありがとうございました。私の心の福利厚生、これにて終了いたします)


私は心の中で社長に深く一礼した。もう、その笑顔に縋る必要はなくなったから。

視線を少し斜め後ろに向けると、営業部の列に立つ中川と目が合った。中川は私を見て、悪戯っぽくウインクをして見せた。それだけで、私の心は社長の笑顔の百万倍の熱量で満たされた。


「おい、田代! 朝礼が終わったぞ。これ、今日の夕方までに――」

朝礼が終わるや否や、脂ギッシュな顔をテカらせた大河原課長が、分厚いファイルを抱えてすり寄ってきた。


私は、これまで見たこともないような、満面の爽やかな笑顔で課長を迎え撃った。


「大河原課長、おはようございます! その書類、置いておいてください。……あ、それと、これ。『退職届』です。来月半ばで辞めさせていただきますので、引き継ぎよろしくお願いしまーす!

あと、一か月ほどですがよろしくお願いします!」


「え……? は? た、田代……?」

鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、脂ギッシュな顔を硬直させる課長。そのマヌケな顔を見つめながら、私は心の底からスカッとするのを感じた。ざまあみろ、有罪確定のクズ課長。私はもう、あんたの残業を押し付けられる社畜じゃない。


オフィスを出る時、中川が待つエレベーターホールへと歩みを進める。

私の手には、中川がくれたホワイト企業への切符と、新しい未来が握られていた。


これからは、深夜二時のオフィスじゃない。

大好きな人と手を繋いで、綺麗な夕焼けを見ながら、毎日定時で帰るんだ。



この後のことは想像にお任せです

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