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逃火(とうひ)

作者: 雨宮氷弦
掲載日:2026/05/15

 サイドガラスに張り付いている雨粒が静かに下へ流れ落ちる。車の速度も進行方向も関係無く、透明なガラスの表面を微かに震えながら這って進む。その様子をぼんやり眺めていると、どういうわけか、私はいつも不思議な気持ちになる。


 それが一つの自然法則だということは理解している。しかし、幼い頃から父や母が運転する車から何度も見たその光景は、見るたびにやはりどこか不思議な驚きがあった。私は会社員で、いま二十九歳で、独身で、女で、急いでいた。


 大遅刻だった。寝坊してタクシーを使うのは久しぶりだった。雨の中、走って駅へ向かう途中で、偶然通りかかった空車を捕まえることができた。私は濡れた髪にハンカチを押さえつけながら、私が座る後部座席の窓に張り付いている雨粒を見ている。


「申し訳ありません、何とか今、向かっています、十時には間に合います、はい、よろしくお願いします」


 右から左へ通り過ぎる大都会の背景の上をゆっくりと流れる雨粒を見ていると、少し心が落ち着いた。私は今、窓の外側でも内側でもない場所を見ているのだと思った。


 会社には特に急ぎの用件があるわけではなかった。私の業務は今日出勤している誰にでもとりあえず代わりが務まるものだった。それでも迷惑をかけることに変わりない。しっかり謝らないと人間関係に支障をきたす。人間関係に支障があるとコミュニケーションが円滑ではなくなって業務にまで支障をきたすことがある。何より、今後職場に居辛くなってしまう。


 そんな考えが頭の中を巡るたび、私は思い出したように雨粒の流れに目の焦点を合わせ直した。


「大きな荷物ですね。遠出ですか。雨の日に大変ですね」


 タクシーの運転手が私にそう話しかけた。さっきトランクに積み込んだスーツケースのことを言っているのだろう。今、私の手持ち鞄には、パスポートとエジプト行きのチケットが入っている。チケットは私が買ったものではない。昨日の夜、人から渡されたものだ。


「もしもし、大丈夫? いや、謝らなくていいよ。時間はさっきも言ったけど、搭乗時間までに間に合えばいいわけだから。昨日あれだけ飲んだ後だし、もしかしたらって思ってたんだ。でも、本当に来るなんてびっくりしたよ。なんか、こう、ワクワクしてきた」


 窓の向こうに空港が見えてきた時、私は雨粒を見るのを止めた。電話の声の主が私の心に火を灯した。雨はもう必要なかった。


 空港のロビーに着くと、一人の男が私を見つけて手を振った。昨夜と同じ、照れたような笑顔で私を見ている。午前十時。鞄の中で携帯が振動している。私は男の元へ進み、笑顔を返した。

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