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ツヨイチカラ  作者: 桃馬 穂
第5章 揺れる心

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第5.3.3量子パルス:決意の仮面、心の裏側

 ≡ Quantum Pulse 5.2.2 / The Mask of Resolve, The Heart's Underside


 研究所のファンの低い唸りが、壁に染みたオイルと金属の匂いをゆっくりとかき混ぜていた。作図台の上では、迎撃線の試運転に向けた最後の段取り確認が終わり、郷田と翔太が工具を片付けている。結衣は、学園側の同期設定を終えた端末を静かに閉じると、翔太に短く「お疲れ様」と声をかけた。その声には、もう先ほどのような棘はなかった。

 ライラは、少し離れた場所でその光景を黙って見ていた。胸ポケットにしまった写真の感触が、まだ指先に残っている。彼女は誰にも気づかれないように、そっと仮眠室のドアを開け、中へと滑り込んだ。

 簡素なベッドの縁に腰掛け、彼女は再び写真を取り出した。

 戻っていた。

 朝見た時よりも、白い縁が確かに濃さを取り戻している。背景の鉄骨に透けていたリクの輪郭ははっきりと戻り、カナデの髪を彩っていた光も、鈍いながら輝きを取り戻していた。

 端末の家族回線に、もう一度だけ〈応答確認〉と打つ。今度は、すぐに既読を示す緑の点が灯った。音も言葉もない。でも、時空を超えて“いる”という確かな気配が返ってきた。

 安堵が、堰を切ったように胸に広がった。だが、その直後、鋭い痛みが心臓を刺した。


「……そっか」

 ライラは、自分の声が震えていることに気づいた。

 翔太と結衣が離れると、写真が消えかける。二人が近づくと、写真は戻る。

 今日一日で、彼女はその残酷な法則を、理屈ではなく恐怖として身体に刻み込まれた。

 昨日知らされた、過酷な使命。「わたしたちの世界の存続には、天野翔太の血の中にある“特殊な遺伝子配列”の継続が絶対条件である」。その時はまだ、漠然とした重圧だった。

 だが、今、その「継続」が何を意味するのか、目の前の写真が冷徹に突きつけてくる。

 自分の恋心は、この壮大な使命の前では、ただの障害でしかないのかもしれない。いや、違う。障害ですらない。考慮されることすらない、取るに足らないノイズなのだ。

『「誰か」じゃなくて、「ライラ」を守る』。

 堤防で翔太に言われた言葉が、今度は甘い毒のように胸に広がる。彼が守ると言ってくれた「ライラ」は、彼の血の中にある配列を「確保し続ける」という任務の遂行者。自分は、彼の隣に並び立つ存在ではあり得ない。

 涙が一粒、写真の冷たい表面に落ちて、カナデの笑顔を歪ませた。


 悔しいとか、悲しいとか、そういう言葉では足りなかった。希望を繋ぐためにここに来たはずなのに、その希望が、自分の心を毎日少しずつ殺していく。

 彼女の故郷では、両親をパンデミックで失った。灰色の空の下、希望を失った人々をたくさん見てきた。だから、どんな犠牲を払ってでも、わたしたちの世界を救いたかった。

 その決意は、今も変わらない。

 ライラは、パーカーの袖で乱暴に涙を拭った。そして、歪んだカナデの笑顔を、指でそっと拭う。

「……やらなきゃ」。

 声は、まだ震えていた。でも、その奥に、硬い決意の欠片が再形成されたのを、彼女は感じていた。

 自分の感情を、完全に殺す。心を覆うための、一枚の「仮面」を被る。明るくて、お節介で、二人の仲を取り持つ、道化のようなキューピッドの仮面を。

 二人の絆が、写真の中の仲間たちの存在を保つのだとしたら、自分がそのための道標になる。たとえ、その道が自分の心をすり減らすものであっても。

 それが、希望を繋ぐということならば。

 ライラは、写真をそっと胸ポケットに戻した。立ち上がり、仮眠室のドアを開ける。研究室の喧騒が戻ってきた。翔太と郷田が、何やらくだらないことで笑い合っている。結衣が、それを呆れたように見ている。

 いつもの光景。守るべき、日常。

 ライラは息を整え、いつもの明るい声で、作戦の段取りを告げた。

「さーて、準備はOK? 今夜は長い夜になるよ!」

 その声が、わずかに震えていたことには、まだ誰も気づかなかった。


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